
名古屋に新しいチャンネルだ! の 第5回です
テレ東は自前のネットワークをどのようにして形成したか
さて、前回は「東京12チャンネル(以下12ch)」が、科学技術教育を目的としたテレビ局から、一般総合局へと脱皮し、毎日放送や中京テレビなどと協力関係になったところまでを紹介しました。今回からは、そんな協力局とのネット体制から、念願の自社ネットワークを形成するまでを見ていくことにします。
まずは関東の独立V局として「再生」しなければ
1973(S48)年11月1日。一般総合テレビ局として12chは再スタートしました。いわば第2の開局です。だからと言って、一気にキー局への道を躍進したわけではありません。過去の赤字をひきずり、日経のバックアップを受けながら、まずは関東ローカル局として、地道な再生への道のりの、スタートラインに立ったに過ぎませんでした。
番組になるものはなんでもやる精神
もう他のキー局に頼ってばかりではいけない。「番組になるものは何でもやる」と、たくさんの他局には無いタイプの番組を自社制作し、「売れるものは何でも売る」積極的に番組販売を行ったのです。

▲東京12チャンネルがブームの火付け役となった「ローラーゲーム」(出典:テレビ東京)
毎日放送・中京テレビとネットワーク状態になるも…
前回書いたとおり、少しでもいい番組を放送したい、少しでも東京へ番組を流したいという考えだったNET系列の大阪・毎日放送。そして、日本テレビとNETテレビの人気番組だけをネットする名古屋テレビの影で、名古屋テレビが蹴った番組を拾い、番組調達に苦労していた名古屋の中京テレビ。これら2局とは相互番組ネット、共同制作などを行い、関係が深まるように思われたのですが、状況は一変します。
毎日放送と中京テレビが「離脱」
まずは名古屋でした。1973(S48)4月、中京テレビが日本テレビの単独系列に、名古屋テレビがNET単独系列に再編され、中京テレビのソフト不足は一気に解消してしまいます。
そして大阪。1975(S50)4月、ネットチェンジが行われ、毎日放送はTBS系列に、そして朝日放送がNET系列となったのです。毎日放送はTBS系列となった後もしばらく、12chの番組を購入していたのですが、TBSがそれを嫌い、その後、毎日放送と12chとのネット関係は途絶えます。
また、この頃になるとNETも制作能力をアップしており、新たにNET系列となった朝日放送・名古屋テレビは、12chから番組を購入することはあったものの、クロスネットや協力局などといった関係になることはありませんでした。こうして12chは、名古屋、大阪地区の協力局を失いました。
一気に深まった「独立U局」との関係
さて、そんな毎日放送や中京テレビといった、他の系列に所属していながらも、番組調達に困っていたテレビ局とは別に、さらに番組調達に困っていたテレビ局がありました。それが「独立U局」です。
独立U局とは何でしょうか。
テレビ局は原則的に、1放送局がカバーできるのは1つの県のみとなっています。ところが東京を中心とした関東1都6県(東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・栃木・群馬)、名古屋を中心とした東海3県(愛知・岐阜・三重)、大阪を中心とした関西の2府4県(大阪・兵庫・京都・奈良・和歌山・滋賀)は…。
電波が県外に到達してしまったり、VHF電波には限りがあったことと、文化的にも経済的にも、大都市を中心としてひとつの圏ができていたことなどから、郵政省(当時)は当初から、放送エリアを広域に設定しており、中心都市にあるテレビ局が、それぞれ複数の県をカバーしていました。
新たな電波「UHF」
1967(S42)年、それまで使用されていなかったUHF帯が開放され、日本初のUHFテレビ親局となった、NHK徳島教育テレビが、郵政省から本免許を受け、放送を開始しました。
これにより、日本のテレビチャンネルは段階的にそれまでの12チャンネル制から62チャンネル制へと、チャンネルが50増え、電波の範囲がぐっと広がりました。当初郵政省は、全てのテレビ局をUHF帯へ移行する計画を考えていましたが、それは実現せず、UHF帯に新たなテレビ局が誕生します。
新たに誕生した広域圏内の県域独立テレビ局
そこで立ち上がったのが、それまで東京・大阪・名古屋のテレビを見ていた、周辺府県の政財界です。
「わが地元にもテレビ局を-。」郵政省は当初、広域圏内の府県にテレビ局設置は必要ないという考え方でした。
しかし、これらの県の要望は強く、日本初のUHF民放テレビ親局となった、1968(S43)年8月12日開局の岐阜放送(中京広域圏・岐阜県)を筆頭に、1969(S44)年4月には近畿放送(近畿広域圏・京都府・現:京都放送)、5月にはサンテレビジョン(近畿広域圏・兵庫県)、そして12月には三重テレビ放送(中京広域圏・三重県)と、次々と広域圏内県域テレビ局が誕生しました。

▲独立U局「三重テレビ」の社屋。開局当時と変わっていません。
4大ネットワークには加盟できなかったことで独立U局に
これらの地域では、すでに日本テレビ、TBS、フジテレビ、NETの4大ネットワークの系列局(クロスネットを含む)が広域テレビ局として存在していたため、広域圏内県域テレビ局はネットワークに属すことができず、独立UHFテレビ局(独立U局)と呼ばれます。
関東の独立U局は、12chも含め、東京のテレビ局のエリア内となるため、キー局から番組をネットするわけにはいかないので、その名の通り独立局として、100%自主編成を行っていました。ところが、近畿、中京広域圏地区の独立U局は、当時関東ローカル局だった12chに目をつけました。
独立U局が白羽の矢を立てたのが東京12チャンネル
三重テレビは、当初スタジオ建設計画も、カメラの購入予定も無く、自主制作を行わず、100%12chの番組をネットする計画でした。しかし、「ニュースくらいは作ろう」と急遽スタジオを作り、自社製作を行うこととしたくらいです。
実際には、12chの番組はすでに広域の中京テレビなどにネットされていたため、12chの100%ネットは実現しませんでしたが、これらの独立U局が、12chの番組を積極的に放送し、ネットワークのような形になっていったのです。

▲三重テレビの放送エリア、愛知県も広くカバーしている。(出典:三重テレビ番組表)
東京12チャンネル・サンテレビ・近畿放送はまるで系列のように
特にサンテレビジョンと近畿放送との関係は強くなっていきます。サンテレビは地の利から、大阪府の100%世帯カバレッジを誇り、サンテレビ、近畿放送とネットすることで、大阪・兵庫・京都をフルカバーできたのです。
また、三重テレビも名古屋を含む愛知県について、84.9%の世帯をカバーしており、12chと中京テレビとの関係が希薄になるに従い、三重テレビでの12chの番組ネット比率は徐々に上がっていきました。

▲東京12チャンネルの当時の社屋。写真は現在の「芝公園スタジオ」
三重テレビや岐阜放送・奈良テレビ・テレビ和歌山も…
この頃になると、「東の12チャンネル、西のサンテレビ」と言われるほどの関係になり、互いに制作力をアップしていきました。
また1979(S54)年1月3日には、12chと独立U局各局を結び、12時間の「ウルトラワイドショー」を放送。各地の独立U局から生中継も入り、12chと、中京・近畿の独立U局は、ネットワークのようになっていきました。その関係は番組ネットだけではなく、ニュース素材などの交換も行われるようになっていきました。
しかしこの1979(S54)年、12chはまた別の方向へと動き出すのです…。
ところで、開局準備中の三重テレビ

「わが地元にもテレビ局を-。」と言っておいて、自社製作ゼロ計画。これはすごい。



コメント