- 軍艦島で働いていた鉱員ってどういう人?
- 閉山になった後、人々はどこへ
- 軍艦島の未来・日本の未来
わずか周囲1.2キロの島で、最盛期には5,000人を超える人々が暮らし、それはまるでひとつの家庭のような、強固な結びつきで繋がった住民たちのコミュニティ。島のなかで全てが完結する環境。労働がきつかった代償に、ここで働く以上は島で暮らさなければならなかった代償に、物質的にも心理的にも豊かだった軍艦島の暮らし…。
軍艦島に上陸し、少しずつ朽ちていく「廃墟」を見ながら、そんな生活があった頃の軍艦島に思いを馳せてきました。ガイドの方のお話、見せていただいた当時の写真。どれも活気にあふれていて、それはまるで、今は完全に崩壊してしまった、ニュータウンの理想形のようにも思えました。しかし、そんな感傷に浸る時間はありません。上陸してからわずか45分、船に戻る時がやってきました。
聞きたい話が聞けるのはここからです。
お風呂だけは無かった
前回は、お母さん、お父さん、そして子どもたちと、それぞれの暮らしぶりを見てきましたが、そもそも、ここにある集合住宅はどういったものだったのでしょうか。幹部職員は別にして、一般職員や鉱員の住居は、6畳と4畳半の一間ずつという程度のものだったそうです。金銭的な待遇もよく、買物に不自由することがなかったとはいえ、やはりここに足りないのは「土地」。どうしても住居に充分な広さを確保することはできなかったようです。
住居に足りなかったもの、それは広さだけではありません。この軍艦島にある住居は、幹部職員の家と島内唯一の旅館を除いて、お風呂がありませんでした。さらに、トイレは全て落下式で、水洗便所もありませんでした。そして炊事場、これも共同だったのです。こういったことが、住民同士のふれあいや繋がりを深くしていた理由のひとつだったともいえるのではないでしょうか。
船はドルフィン桟橋を出発すると、上陸することのできなかった、島の西側に当たる住居エリアをじっくり見られるように、島の周りをグルーズしてくれました。
炭鉱ですから…労働はやはり
ここは炭鉱です。鉱員は石炭を掘って運び出すのが仕事です。基本的には1日8時間労働で、交代制が取られていたとのこと。その労働内容はもちろん、高待遇と引き換えに厳しいものだったようです。
第1見学広場から見えた炭坑の入口から、深さ200メートルの地下へと「出勤」していきます。いったん出勤したら、8時間出てくることはありません。途中の食事も、石炭を掘り出していた現場とカーテンで仕切られただけのところで済ますという労働を繰り返していました。
「もぐら」と呼ばれた鉱員たちは、じん肺症にかかってしまうことも多かったそうです。そりゃ、石炭を採掘している場所とカーテンで仕切っただけのところでいつも食事をしていたら、なっても仕方が無い環境ですよね。
そういった鉱員が運ばれたのが、軍艦島の北端にあった緑色の建物「端島病院」です。島には緑が少なかったことから、病院くらいは安らぎのある緑色にしようということで塗装されたそうです。さらに、天然痘や結核など、隔離しなければならない患者を収容するための「隔離病棟」がその横に設けられ、こちらは白色に塗装されていました。
現在も、その隔離病棟の白い建物は目視で確認することができますし、端島病院の緑色も、少しだけですが壁面に残っています。
この軍艦島で病院に入院するという状況は、精神的に相当辛かったのではないでしょうか。それは、離島だから医療体制が…といった心配ではなく、ここで働けなくなってしまったら、この島にいる理由もないし、職も無い。つまりそれは、仕事と住環境を失ってしまうことを意味するからです。病気が治らなかった人は、どうなってしまったのでしょうか…。
誰が働いていたのか
私はこの軍艦島に上陸するまで、ずっと疑問に思っていたことがあります。それは、長崎という地に於いて、当時「軍艦島」という存在はどのようなものだったのか、ということです。
待遇が良かったことから人気の職場だったのか、それとも、仕事もきつく生活も制約されることから、どちらかといえば敬遠されていた職場だったのか、そもそも、どんな人たちが働いていたのか…。炭坑が閉山となった後はどこへ行ったのか。そしてなぜ、35年もの長きに渡って、元島民でさえ上陸が許されなかったのか。
このあたりは、やはり微妙なところなのか、上陸した際のガイドさんの説明は深くはありませんでした。そこで、船に戻った後に、ガイドさんに直接お話を聞いてみることにしました。
そのガイドさんは、軍艦島全盛期にも島に関わる仕事をしていたものの、島に住んでいたわけではないという方でした。まずは、軍艦島に住んで働くには、どういう手順を踏めばよかったのかを聞いてみました。すると…。
「誰でも希望すれば就職できたよ」
誰でも…できた。つまりそれは、希望さえすればいつでもこの島に住環境が与えられ、高待遇で迎えられたということ。もちろん、高度経済成長に差し掛かっていた日本で、黒いダイヤといわれていた石炭を掘る仕事ですから、人手は常に足りなかったということは納得できます。
では、誰がこの仕事を希望したのか。何となく、この軍艦島の当時の位置づけに感づいてきたのですが、いきなり聞くのも失礼なので、こんな質問をしてみました。
「当時、軍艦島で働きたいと思いました?」と。
すると、少し言葉を濁しながら「当時誘われたこともあったけど、断ったよ。」という言葉に続けて、「まあ、全国から貧しい人たちも…ね…。」と。
親の心・子の心
冷静に考えれば、そうかもしれません。毎日深さ200メートルの穴での掘削作業、じん肺と隣り合わせの仕事、住居は制約され、お風呂もトイレも炊事場も共同。住民の絆がいくら深くとも、ほのぼのとしたコミュニティが築かれていようとも、外からそこに飛び込むのには、勇気も要りますし、逆に考えれば、飛び込まざるを得ない状況の人が移り住んでいった…そんな図式は想像に難くないです。
そこに住んでいた子どもたちにとっては、とても楽しい環境だったかもしれません。鉱員・職員の違いはあれど、親たちは皆同じ会社に勤める同僚で、貧富の差を感じることも無く、縦横無尽に広がるラビリンスのような空間で、雨の日も鬼ごっこ…。
しかし、親たちにとって、それが必ずしも幸せで楽しく、いつまでもそこで暮らしたいと思える生活だったのかどうか…。
もちろん、断っておきますが、島民全てがそういう境遇の人だったというわけではないと思います。なかには、特に貧乏ではなかったものの、一旗上げてやろうと、家族のために奮起したオヤジさんもいたでしょうし、普通に軍艦島への就職を考えた人もたくさんいたはずですので、念のため。
閉山後の島民たちは…
軍艦島の最後はあっけないものだったそうです。1960年代に入ると、エネルギーの主役は石炭から石油へと移り、全盛期の1960(S35)年に5,000人を超えていた人口は、わずか十数年の間に2,000人まで減少していました。そんな1974(S49)年1月15日、軍艦島は閉山します。
軍艦島の炭坑が閉山されるということ。それは、同時にこの島に住む意味を失うことでした。住民に与えられた猶予はわずか3ヶ月ちょっと。その間に荷物をまとめ、新しい仕事、そして住居を探し、島を離れていったのでした。
再就職の斡旋はあったでしょうけれども、島に住んでいた2,000人が同じ街に引っ越すなどということは到底あり得ません。そのわずかな3ヶ月ちょっとの間に、強い絆で結ばれていたはずの住民は散り散りになっていったのでした。あまりにもアットホームな環境だった島からの転校は、子どもたちにとっては辛いもので、転校先ではこの軍艦島のことを話したがらない子どももいたそうです。
それから、この軍艦島はどうなったのかといいますと、1974(S49)年のうちに残務整理や炭坑施設の解体を終え、大正から昭和にかけての未来的高層住宅を残したまま、無人島となったのでした。マスコミなど一部を除いて上陸を禁止され、それは元島民も例外ではなく、かつて軍艦島で暮らしていた人々も、二度とその地を踏むことはできなかったのです。
ここで働いていた親たちにとっては、一時期住んでいた場所だったかもしれませんが、この軍艦島で生まれ育った子どもたちにとって、軍艦島は故郷です。故郷の地を二度と踏むことができないだなんて…。
ごく普通の住宅地で生まれ、ニュータウンで育った私でさえ、もし故郷に二度と訪れることができないなどということになったら、それは寂しくて仕方の無いことでしょう。
島は私有地ではなくなった
しかし、そんなこの軍艦島を故郷とする子どもたちの感傷とは逆に、親たちにとって軍艦島が良い思いでだったのかどうか。35年もの間、上陸を許されなかった理由のひとつには、その気持ちが絡んでいるような気がしてなりません。
全ての人がそうでは無いと思いますが、事情を抱えて軍艦島に働きにやってきた人たちは、ある意味、駆け込み寺としてここへやってきたということになります。その後、軍艦島での暮らしでその事情が払拭できたのか、できぬまま新天地へと送り出されてしまったのかは人それぞれでしょうが、中には「軍艦島のことには触れないでくれ…」という人もいたと思います。
そんな人たちの気持ちを考慮したうえでの、上陸禁止だったのではないか…。それは考えすぎでしょうか…。いや、これは考えすぎかもしれませんね。きっと、上陸を許可した場合、それで何かケガなどした際の補償などが厄介だったから、ということでしょうね。風雨に晒されて、倒壊の危険がある建物ばかりですし。
その後、軍艦島は三菱マテリアルの所有となり、2001(H13)年に高島町へと無償譲渡され、2005(H17)年1月4日に高島町は長崎市に編入され、島は長崎市の市有地となったのです。その年の報道公開から4年、2009(H21)年4月22日より上陸が許可されたのです。
もちろん、上陸が許可されて最初にやってきたのは、元島民だったとのこと。
元島民の方々は、どんな思いで再びこの軍艦島の地を踏みしめたのでしょうか。きっとそれは、まさに人それぞれ、当時どのような境遇でこの軍艦島に働きにやってきたのかによる…という状態だったのでしょうね。
これからの軍艦島とこれからの日本
この、廃墟の島「軍艦島」に唯一、現役の施設があります。それは灯台。夜になったらこの島は完全に真っ暗。しかも周囲を護岸に囲まれているため、船にその存在を知らせる唯一の手段が灯台というわけです。
軍艦島は現在、「九州・山口の近代化産業遺産群」の一部として、世界遺産暫定リストに記載されています。世界遺産となれば、さらに多くの人が訪れることになりそうです。
軍艦島は生きている。ガイドさんは言います。「5年後にまた来て下さい。姿が変わっていますから。」そう、これだけの廃墟を現状維持で保存することなどできません。日々、刻一刻と建物は朽ちていっているのです。廃墟なのに生きている。いや、人工物が少しずつ自然に帰る途中…と言ったほうが的確でしょうか。
かつて、超高層アパートが立ち並び、昭和の頃に「未来都市」と言われた軍艦島。今は朽ち果てつつある廃墟という存在になっていますが。その姿も「未来都市」なのかもしれません。炭坑が閉山したときのように、すぐに石油エネルギーが枯渇したり、地球がおかしくなるという想像はできませんし、資源を掘りつくしたから軍艦島はこうなった…といった、私がこの島のことを知った啓発CMのような間違った解釈はしません。
でも、これだけは確実に言えます。少子高齢化が進む日本は、これから収縮していく国家です。産業が、経済が、街が、どんどん小さくなっていくわけです。
現在の軍艦島のように、人がいなくなり抜け殻になってしまう場所が、これから日本の各地に生れていくかもしれません。その一方で、かつての繁栄していた頃の軍艦島のように、「あそこへ行けば何とかなる」という、最後の砦は今の日本にはもうありません。
実は少しずつ、日本という島全体が、現在の軍艦島のようになりつつあるのではないでしょうか。石炭から石油にエネルギー資源がシフトしたのと同じように、アジア経済、いや、世界の経済の主役は今、日本から違う国にシフトしています。そしてこのまま、日本人がこの日本列島から減っていくと、軍艦島が三菱から行政の手に渡ったように、日本列島もどこかの手に渡ってしまい、残された日本人は世界中に散り散りになる…そんな時代が来ないことを祈るばかりです。
いや…祈ってる場合じゃないのか。将来が不安だから、心配だから子どもを作らない…じゃなくて、子どものために、将来のために、それこそ軍艦島の鉱員のようにがむしゃらになって働くんだ、後世のための未来を自分の手で作ってあげるんだ、という思いにならなければならないんだよね。。
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コメント
masaです、お疲れさまでした。
軍艦島は、ずっと行きたかったところです。
読み応えのあるリポートでした。
かつての未来都市は、
家族ごと抱え込みながら空へ伸びていく
整ったドヤ街のようでもありますね。
そこへたどり着いた人には夢も生活もあれば、
うかがい知れぬ事情もある。
仕事がなくなったとき、人も姿を消す。
遠目には堅牢に見えながら、
実は崩壊しかかっているところなど、
何だか砂上の楼閣のようです。
日本の近代化の一断面を伝える産業遺産として、
ぜひ保存していってほしいですね。
>masaさま こんばんは
お読みいただきありがとうございます。
そのあたりは、すごく微妙な空気感がありましたね…。
空へ伸びていくという表現は面白いですね。
まさにその通りです。
ただ、あの時代は、この軍艦島がなくなっても、
仕事に困ること自体は無かったみたいですね。
保存は、本当に大変だと思います。
一方で、かつての繁栄や豊かな暮らしの象徴といえる
建造物が崩れかかってゆくのもまた、
リアルな日本の一面のような気がしてなりません。
世界遺産登録候補で話題になり、
検索して拝読しました。
とても読み応えのある記事、ありがとうございました。
胸にせまる何かがありました。
こんにちは
たまたまこちらにたどり着きました。
私は軍艦島で生まれ
4歳になる前に閉山にともない
一家で本州に引越してきました。
廃墟ブームで
時折ネットなどで目にすることが
ありましたが、
実際に廃墟なので見る人がどう感じるかは
自由なのですけど、興味本位に不気味がられたり
あたかも心霊スポット的に面白おかしく
表現されてたり
ただみんなが日々暮らしていた生活の場なのに
見る度に悲しい気持ちになってしまい、とても
複雑な気持ちでした。
なのであえて、あまり自分の中で
関わりたくないというか、気持ちの上で素通りして
過ごしてきたのですけど
故郷に行くことができない子どもたちの
気持ちに思いを馳せてくださった
このレポートに涙が出ました。
今回世界遺産登録で目にすることが
多く、否応なしに幼かった当時を思い返しています。
当時一番大変だったのは
両親だと思います、私たち子どもは
どうなるのかも分からず、あるがまま、ただそのまま親について行くだけでしたから
何度か、港で島を離れていく親しかった人達を乗せた
船を紙テープで握り合いながら見送りました。
今思えば親たちが築きあげた生活、
小さな社会の
終わりを迎えていくの場面だったのだと
人生の中でそうそう出くわすことのない
大きな出来事だったのだと
高度成長期の時代とはいえ、
子どもを抱えてどれだけ大変な思いをした
のだろうと親になって
改めて思い返します。
端島に生まれてよかったと思っています。
島の多くの人が知った顔、温かな大人達に囲まれて
幸せに育った思い出は今の自分のどこか根っこになっているようなそんな気がするのです。
機会があれば
もうずい分歳をとりましたが
両親を連れて行って一緒に
端島に足を運んでみたいと思いました。
ありがとうございました。