おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第3章 名古屋の企業

はっきり言って根に持ちます

記事公開日:2004年4月24日 更新日:

おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第22回

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 前回は都市銀行の話題でしたが、その中で「さくら銀行」と「住友銀行」が2001(H13)年4月に合併して「三井住友銀行」を誕生させたというお話をしました。この合併を快く思わなかったと思われる企業が愛知県にあります。それはトヨタ自動車です。

 トヨタ自動車は、昔から東海銀行とさくら銀行の2行をメインバンクとしていました。そのためこの地方にしては珍しく、さくら銀行は地方都市にもかかわらず豊田市に支店を構えていました。ということはつまり、トヨタ自動車は住友銀行のことを良く思っていなかったのです。それどころではなく「出入り禁止」となっていたのです。一体何があったと言うのでしょうか。

銀行の再編が気に入らない?

 それでは、トヨタ自動車が誕生するまでの歴史を簡単に見ていきましょう。1890(M23)年、豊田佐吉は「豊田式木製人力織機」を発明します。続いて「豊田式木鉄混製動力織機」「環状織機」と発明し織機の自動化を図ります。織機とは「はたおり機」です。トヨタは最初、機織機メーカーとしてスタートしたのです。

 佐吉は1902(M35)年に豊田商会を設立し、「豊田式汽力織機」の生産を開始します。これが瞬く間に好評となり、フル生産体制が続きます。そして1911(M44)年には豊田自働織布工場を、現在のJR名古屋駅北西に開設します。

 この工場はその後豊田紡織株式会社となり拡張を続け、紡績・織布などの大型工場が4棟という状態にまでなります。これらの建物は現在、産業技術記念館としてトヨタの物作り精神を学ぶテーマパークとなっています。

豊田自動織機からトヨタ自動車へ

 さらに1924(T13)年には「無停止杼換(ヒガエ)式豊田自動織機(G型)」を発明し、織機の自動化に成功します。その2年後にはトヨタ自動車の原点となる、株式会社豊田自動織機製作所が設立されます。この自動織機の技術を自動車に応用できないかと、佐吉の息である喜一郎は欧米に自動車事情を視察に行き、さらに小型ガソリンエンジンの研究をスタートします。

 そして1933(S8)年、豊田自動織機製作所は取締役会で自動車事業進出を決議し自動車部を設立、翌年には自動車試作工場が完成、その翌年にはトヨタA1型乗用車試作第1号が完成します。

 自動車製造を今後本格化することを臨時株主総会で決議し、1936(S11)年にはA1型の量産型であるトヨタAA型自動車とGA型トラックの生産を開始し、翌年トヨタ自動車工業株式会社が設立されます。そしてそれら自動車を本格的に量産する工場として、挙母(ころも)町に挙母工場を完成させます。

産業技術記念館
▲豊田自働織布工場があった場所は現在、産業技術記念館に。

トヨタのスタートは順風満帆では無かった

 こうしてトヨタ自動車はスタートを切ったのです。今や、1兆円を超える利益を出し、2003(H15)年の世界の自動車販売台数ではアメリカ・フォードを抜き、ゼネラル・モーターズ(GM)に次ぎ世界第2位を誇る企業となっています。

 名古屋の経済が元気だとマスコミで最近取り上げられますが、それはトヨタ自動車を中心としたトヨタグループの生産工場が愛知県内に数多くあり、その関連企業もトヨタの恩恵に与っている部分は大きく、トヨタ自動車が名古屋の経済を明るくしていると言っても過言ではない状況です。

最初からでは…なかった

 しかし、トヨタは最初から順風満帆だったわけではありません。トヨタ自動車が設立された1937(S12)年当時、日本で車を製造していたのはダットサンやオータというメーカーだったのですが、当時の自動車価格は2000円弱、同じ価格で都内に庭付き一戸建ての家が買えたということですから、車を買うということはものすごいことだったわけです。

 にもかかわらず、当時生産を始めたばかりのトヨタの自動車は故障が多く、あまり評判は良くありませんでした。

だから東海とさくら

 その後、トヨタ自動車には倒産の危機が起こります。終戦の4年後、1949(S24)年の年末、販売不振と売掛金の回収遅延から、2億円の決済資金の手当てがつかなければ、あわや倒産という事態に陥ります。この状況を何とかしなければならない、日銀は各銀行に斡旋し、1億8820万円の協調融資が実現しました。

主に東海銀行と帝国銀行(その後のさくら銀行)がその融資を行いました。このとき、日銀は20数行の銀行に融資を依頼したのですが、頑なに最後まで融資に応じなかったのが、住友銀行だったのです。また、融資だけでなくトヨタ自動車は取引業者に対しても年末支払いの猶予などで協力を求め、多くの取引先がその申し出に応じたのですが、川崎製鉄だけは協力を拒んだのです。

恩と仇

 名古屋っ子は、一度受けた恩は一生忘れませんが、仇も忘れません。1995(H7)年に関西を襲い、約6500人の方々が亡くなった阪神大震災により各地で大きな被害が発生した時、名古屋市の驚くべき対応が新聞に載りました。

 名古屋市は、かつて1959(S34)年に伊勢湾台風により5098人の死者・行方不明者を出しているのですが、そのときに関西の各市町村が義援金を送ってきたかどうかによって、この地震に際して関西の各市町村に義援金を送るかどうかを決めたというのです。約40年前のことでありながらです。一度受けた恩は絶対に忘れないのです。

 実際にはその後、名古屋市民などの反発により被災した全ての自治体に義援金を送ることになるのですが。

 トヨタ自動車は、住友銀行・川崎製鉄と一切の縁を切り、その後全くの絶縁状態が続いてきました。

 トヨタ自動車はその翌年である1950(S25)年人員整理を行い、協調融資の条件であった製販分離を行います。この時、販売会社としてトヨタ自動車販売株式会社が設立されています。その後、各県ごとに車種ごとの販売店を設立するというトヨタ方式は、他のメーカーも真似することとなります。

市の名前が「豊田」に

 トヨタは見事復活を果たし、挙母(ころも)工場のあった挙母市は1959(S34)年、「挙母」が読みにくいということと、「クルマの町」として自動車産業と共に生きていくことを誓い「豊田市」と市名を変更するまでになりました。

 アメリカでは、提携都市であるはずのロサンゼルスの人でさえ名古屋を知りませんが、豊田の名は、市の名としては知られていなくても、「あのトヨタがあるところ」と言えば誰でもわかるほどの知名度があります。

 トヨタの借金は実質ゼロとなり、そして時は流れ、世の中がバブルに踊ります。しかし、トヨタ自動車は1円の無駄なコストも許さない、乾いた雑巾を絞るという経営手法を変えることはありませんでした。そしてその後大きな負債となる、不動産に手を出すことも無く実質無借金経営を続け、コツコツとアリのように本業に邁進していきます。

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▲そんな時にそんなこと言わなくても...。

現代版アリとキリギリス

 バブルは弾け、浮かれていた会社はどんどん負債を抱え、単独では生き残れないといった事態に陥ります。それは業界を問わず、どこも単独では生き残ることができず合併を模索します。そして、住友銀行はさくら銀行と合併して三井住友銀行に、川崎製鉄はトヨタと取引のあった日本鋼管(NKK)と合併しJFEとなり、約半世紀の時を越え再びトヨタ自動車と取引をすることとなったのです。

 名古屋っ子は必ず恩返しをします。しかし、やられた仕打ちに対しては例えそれが一時的なことだったとしても、冗談だとしても、名古屋っ子は一生根に持ちます。それでも良ければ名古屋をあざ笑って下さい。これは脅しなんかでは決してありません。悪口を言う際は、一生名古屋を敵に回す覚悟をしてください。

 タモリさん、あなたが名古屋っ子に再び受け入れられる方法があるとすれば、住友銀行や川崎製鉄のようになることです。そう、合併です。つボイノリオさんや宮地佑紀生さんなど名古屋のローカルタレントとコンビでも組めば、何とか名古屋でやっていけるでしょう。

 実際は、別に名古屋のことなどどうでも思っているんでしょうけど...。

トヨタビル
▲栄にあったトヨタのビルには昔のマークが残っていました。

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