日本経済新聞が救世主・教育テレビからの脱皮

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テレビ局が欲しかった日本経済新聞

放送局と新聞社には密接な関係があります。現在東京のテレビ局は、日本テレビ=読売新聞、TBS=毎日新聞、フジテレビ=サンケイ新聞、テレビ朝日=朝日新聞、テレビ東京=日本経済新聞、東京MXテレビ=中日新聞(東京新聞)と関係が整理され、程度の差はあれど、資本など深い関わりがあります。新聞社が「放送局を経営したい」という想いは昔からありました。

最初に手に入れたのはラジオの日本短波放送

日本経済新聞社(以下日経)も早くから「電波研究室」を設置し、電波問題の研究、電波政策の立案などをしていました。日経が初めて放送局経営に携わったのは、1954(S29)年7月1日に姉妹会社として設立した「日本短波放送」でした。

短波という電波は、特性から1波で全国をカバーできるため、とても効率の良い放送局でした。全国を受信エリアとする唯一の民放局を手に入れた日経は、これを生かすために、証券情報の提供に力をいれました。1958(S33)年3月には東京株式市場の実況を始め、1963(S38)年には第2放送の許可がおり、東西株式市場の分離放送もスタートしました。

全国をカバーできたラジオたんぱ

その後南極観測船向け、海上船舶向け放送を実施し、出力も開局時の5kWから、50kWに増力され、1960(S35)年4月の時点では800万人の人口カバレッジを誇るまでになりました。しかし、日本短波放送を聞くには、一般のラジオとは違い、短波ラジオを別途購入しなければならず、中波(AM)ラジオ局とは一線を画していました。

まずはNETテレビに経営参画

ラジオ局を手に入れた日経は、続いてテレビ局開設へと動きます。当初は日本短波放送をテレビ兼営局にすることを考えていましたが、日本短波放送が、東映、旺文社、東京タイムズ社と合流し、1957(S32)年7月4日、「東京教育テレビ」を申請し、予備免許を取得したのです。

そして1959(S34)2月1日、「日本教育テレビ(NET)」が開局したのです。そのためもちろん日経も、NETテレビの経営に参加しました。

FMラジオやUHFテレビネットワークを構想していた日経

さらに日経は、新たな放送局開設へと動きます。1961(S36)年9月、FM放送に乗り出す方針を決め、12月26日、東京、大阪、名古屋と3放送局の免許申請をします。その後福岡、札幌放送局の免許申請を行い、受理はされましたが実現しませんでした。

そしてさらに、当時未使用であったUHF帯を使用した、テレビネットワーク構想をまとめ、「東京経済テレビ株式会社」の免許申請に着手し、1966(S41)年2月16日、関東電波管理局に免許申請を提出。受理されましたが、こちらも実現はしませんでした。

科学テレビを引き受けて…と政財界が日経に要請

さて、問題の「科学テレビ・東京12チャンネル」と日経の関係ですが、1964(S39)年の開局の時点では、日経は科学技術振興財団への協力社の中の1社に過ぎず、NETテレビへの経営に力を入れていました。

ところが先述のとおり、科学テレビは開局からたったの1年で、13億8千万円の赤字を出し、瀕死の状態となっていました。この状況を打開するために、政財界や、科学テレビの設立に関わった財界首脳から、日経に対して、「12チャンネルの経営引き受けと再建」の要請が繰り返し行われるようになりました。

日経としては既にNETテレビの経営に参加している立場であったので、当初は乗り気ではなかったようですが、要請が極めて強かったのと、NETテレビには朝日新聞も絡んでいたため、日経グループ独自でテレビ局を持ちたいという判断からか、1969(S44)年11月1日に、経営を引き受け、正式参加したのです。

▲科学テレビ・東京12チャンネル、開局当時のID画面。(出典:テレビ東京)

科学テレビの制作会社に6憶円を投入し初の黒字

具体的にはこの時、「株式会社東京12チャンネルプロダクション」に6億円の日経資本が投入されたのです。事態は少しずつ好転していきます。再建策により番組も少しずつ一般化していき、そのお陰で1970(S45)年には、開局以来初の単年度黒字を計上したのです。

日経の協力体制も徐々に強くなっていき、1972(S47)年10月の時点では、12チャンネルプロダクションへの日経出資額は、計10億円となりました。日経はこの時点で腹をくくっていたのでしょう。NETテレビの持ち株譲渡という形で、NETを朝日新聞に譲り、日経は東京12チャンネルをグループの電波媒体の中核として、育てていくことにしたのです。

▲科学テレビ・東京12チャンネル、開局当時のID画面その2。(出典:テレビ東京)

日経が手に入れた関東の独立V局

NETと東京12チャンネルの決定的な違いはネットワークでした。NETはクロスネットとはいえ、全国に系列局を持っていました。

それに対し、東京12チャンネルは関東ローカル局に過ぎず、さらには大きな累積赤字を抱え、日経としては不満も大きかったかも知れませんが、NETを朝日新聞と共同で運営するよりも、単独のテレビ局を手に入れ、思い通りに育て上げる道を選んだのでしょう。

科学テレビから正真正銘の「東京12チャンネル」へ

そして、1973(S48)年10月31日。科学テレビ最後の日、放送終了時にこのようなテロップが表示されました。

▲科学テレビ・東京12チャンネル、最終日放送終了画面。(出典:テレビ東京)

「お知らせ-日本科学技術振興財団テレビ事業本部の放送はこれで終わります。長年のご愛顧ありがとうございました。あすから、株式会社東京12チャンネルが新しくスタートします。テレビは12チャンネルをどうぞ!」。

▲科学テレビ・東京12チャンネル、最終日放送終了画面。(出典:テレビ東京)

「株式会社東京12チャンネルプロダクション」から社名を変更した「株式会社東京12チャンネル」は、11月1日、12チャンネルの経営を科学技術振興財団から引き継ぎ、免許もそれまでの教育局から、一般総合局へと変更され、名実共に一般総合テレビ局、「東京12チャンネル」の放送がスタートしたのです。

独立局として毎日放送など各局と連携

独立関東ローカル局として、系列局を持たなかった12チャンネルは、全国各地の放送局と友好関係を築いていきます。

当時NET系列であったものの、12チャンネルとも資本関係のあった大阪・毎日放送からは「ヤングおー!おー!」をマイクロネットしました。当時関西ローカルの番組が、東京で放送されることは少なく、社会的にも大きな注目を浴びました。また、毎日放送とはお昼のワイド番組を共同制作しました。

サンテレビ・KBS京都・中京テレビとの関係が強固に

その後、毎日放送はTBS系列にネットチェンジしたため、資本関係は残ったものの、友好関係は途絶えます。

その代わりに関西の独立U局、サンテレビ、KBS京都と友好関係を結び、3局持ち回りによるお昼のワイド番組を共同制作したり、12チャンネルには、関西の番組が数多く並びました。

そしてサンテレビにもたくさん12チャンネルの番組がネットされ、サンテレビを通じて関西への番組進出も果たしたのです。他にも、番組調達に苦労していた、名古屋で当時は同じく日本経済新聞資本だった中京テレビとも友好関係を結び、中京テレビ制作の「お笑いマンガ道場」が12チャンネルでネットされました。

このように、資本は日経のバックアップで、番組面では大阪・名古屋の友好局、そして他の東京キー局のバックアップにより、少しずつ12チャンネルは瀕死の状態から回復していきました。もちろんネットだけでなく、12チャンネルの制作能力もアップしていきます。

東京12チャンネル当時を振り返る

me-ko
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田原総一郎さん、小倉智昭さんも12チャンネルプロダクション出身

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