
名古屋に新しいチャンネルだ! の 第3回です
テレビ愛知の開局によってもたらされた興味
さて、テレビ愛知と衝撃的な出会いを経験し、もともと放送に関心があった私は、テレビ愛知、そしてそのキー局であるテレビ東京に対し興味を持ち始めました。
そして、テレビ愛知開局の日の新聞を皮切りに、テレビ愛知やテレビ東京に関する新聞、雑誌記事や、書物を調べるようになったのです。それは中学、高校、大学生、さらに社会人になっても続きました。
テレビ東京の過去について調べてみると、この放送局はとんでもない経歴の持ち主であることを知りました。というわけでテレビ愛知の開局の経緯をご紹介する前に、今回からは、キー局であるテレビ東京の成り立ちについて、紐解いてみることにしました。
当初のテレビはVHFの1~6chまでしかなかった
1950(S25)年11月10日、NHK東京テレビ実験局が、定期実験放送を開始し、953(S28)年2月1日に、NHK東京テレビ局(現在のNHK総合テレビ)が3チャンネル(その後1チャンネルに移動)に開局しました。
続いて同年の8月28日に日本テレビ放送網、1955(S30)年4月1日にラジオ東京テレビ(KRT、現在のTBSテレビ)、1959(S34)1月10日にNHK東京教育テレビが開局し、「1=NHK総合」、「3=NHK教育」、「4=日本テレビ」、「6=KRT」と、東京は4局体制となったのです。
当初のテレビチャンネルは、全部で6チャンネル制でした。もちろん初期のテレビ受像機のチャンネルダイヤルは、1から6までしかありませんでした。そして、3と4の間を除いては、干渉してしまうため、隣接するチャンネルでの放送ができないので、これ以上の開局は無理かと思われていました。
7~11chに拡大してフジとNETが開局
その少し前、1957(S32)1月。郵政当局が11チャンネル制を採用。全国的にテレビ局を増やす構想を明らかにし、東京地区では、8・10の2つのチャンネルに新局が割当てられることになりました。
そして1959(S34)2月1日に10チャンネルに日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日)が教育局として開局。そして翌月に8チャンネルにフジテレビジョンが開局したのです。今度こそ、もうこれ以上、東京にテレビ局は開局することは無いと思われていました。
最後の電波・12チャンネルが米軍から返還された
ところが1960(S35)年、米軍がレーダー用に使用していた「12チャンネル」東京最後のVHF電波が日本に返還されることとなったのです。郵政省は12チャンネルにテレビ局を割り当てます。
当時、UHFは未使用帯だったため、今度こそ、東京に割り当てられた、本当に最後のテレビ局ということになります。(のちにUHF帯に東京MXテレビが開局)当然、いろいろな会社が申請しました。ラジオ関東(現在のアール・エフ・ラジオ日本)、千代田テレビ、日本電波塔、日本科学技術振興財団などです。
一本化調整無しに財団法人にチャンネルが割り当てられた
テレビ局の割当てに対して、申請が競合した場合、原則として調整し一本化を図り、一本化された申請に免許が下りる場合がほとんどです。フジテレビもNETもそうでした。
しかし、大方の予想と異なり、12チャンネルの免許は、この中の1団体、しかも会社組織ではない、財団法人の日本科学技術振興財団に「はい免許」という形で認可が下りたのです。当然この結果に、免許申請の競合他社は怒り、1990年代まで裁判沙汰となりました。

▲科学テレビ・東京12チャンネル、開局前のテストパターン。(出典:テレビ東京)
そもそも12チャンネルを返還させた人がいた
実はこの12チャンネル、津野田知重氏という人物がアメリカに単身で乗り込み、返還させたチャンネルだったのです。その津野田氏は、科学技術振興財団に関わっていました。つまり12チャンネルの免許争奪戦は、最初から結果の決まっていた戦いだったわけです。
東京最後のテレビ局「科学テレビ」が開局
そして、「科学技術振興財団テレビ事業本部・東京12チャンネル」愛称「科学テレビ」は1964(S39)年4月12日に、東京最後のVHFテレビ局として開局しました。すごく堅苦しい名前ですが、それは名前だけで無く、番組内容もでした。
国からは科学技術教育番組を60%、一般教養番組を15%、教養・報道番組を25%放送することという条件が出され、番組は「通信制工業高校講座」から「のびゆく原子力」というラインナップ。娯楽色のある番組は全くありませんでした。

▲東京12チャンネル、1964(S39)年4月12日、開局の日の一場面(出典:テレビ東京)
集団就職向けの実務とスクーリングの場だった
この「科学テレビ」の目的は、企業の技術者を育成し、日本の科学技術水準を向上させることでした。この頃は、中卒で集団就職というのが多かった時代です。企業内の職業訓練所を卒業すると、高卒扱いとなり給料が上がります。そのために、実務とスクーリングの場が求められていたのです。国は当時、12チャンネルをそのスクーリングの場としようとしたのです。
財界からの寄付で運営するつもりだった
では、この「科学テレビ」を運営するお金はどこから出ていたのでしょうか。もともと科学技術振興財団は、財界からの寄付により、国民一般に対する科学技術知識の普及、職場における技能者の再訓練、科学技術教育の機会均等という3つの目的を達成するために設立された団体でした。
そのテレビ事業本部である「科学テレビ」についても、財界が結成した「科学テレビ協力会」から月2億円の収入があるのみでした。経済界の資本に加え、番組制作にはNHK、朝日新聞、日本経済新聞が人材投入まで行い協力しました。
開局から1年で13億8千万円の赤字に
財界が資本と月々の援助金を出し、視聴率度外視の質の高い科学技術番組を放送する。そんなテレビ局が果たして成り立つのでしょうか。無理はすぐに表面にでてきました。科学テレビは、毎月数千万円の赤字を出していきます。
やがて景気に陰りが見え始めると、「科学テレビ協力会」からの援助も少なくなっていき、開局からたったの1年で、13億8千万円の赤字を抱え込んでしまうのです。そして1966(S41)年、1日の放送時間は、たった5時間半に、500人いた従業員は300人へと追い込まれていきます。
科学テレビを他のテレビ局が「救済」
見かねた他のテレビ局、NHK、日本テレビ、TBS、フジテレビ、NETが、1967(S42)年に「科学テレビ協力委員会」を結成し、少しでも番組を一般的なものに近づける工夫がなされました。
各局の再放送番組や、プロ野球、映画を増やしたのです。また、財団法人では番組制作事業の運営で、いろいろな制約や支障があったため、テレビ事業を円滑に進めるために、1968(S43)年「株式会社東京12チャンネルプロダクション」が設立されました。社員のほとんどは財団のテレビ事業本部の職員が兼任し、財界各社の出資による資本金10億円の会社となりました。
科学テレビがエログロ番組を放送するという構図に
番組を一般的なものに近づける、再建策とはいえ、科学技術振興財団が「ハレンチ学園」や「プレイガール」を放送するというのは異常事態です。

▲視聴率28.4%を出した「ハレンチ学園」テレビ東京に未だこの数字を超える、レギュラー番組は存在しない。(出典:テレビ東京)
しかし科学テレビは、それ以上に異常事態だったのです。まず、財界各社の寄付による財団形式なので、経営責任の所在が不明確であり、経営の意思決定が遅れがちであったうえに、営利企業ではないため、職員の意識も、利益を生み出そうというものにはならなかったのです。赤字は累積していきます。
このまま閉局か?身売りか?と囁かれていたところに、そうです、あの新聞社が一肌脱ぐことになるわけです。
科学テレビ・東京12チャンネルに教えられたこと

理想だけでは食べていけない



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