夢を見続け40年・最後は朽ち果て…横浜ドリームランド

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横浜ドリームランド跡地(横浜・戸塚区)

我が国のテーマパークの草分けとして、かつて存在した「ドリームランド」。このサイトでは以前、奈良県にあった奈良ドリームランドの跡地を紹介したことがありました。私はドリームランドが営業していた頃には訪れたことがなく、廃墟としてのドリームランドを目の当たりにしただけでしたが、その感想を書いたところその記事は反響が大きく、開業当時を知る人からたくさんのリアクションをいただきました。

今はまだ残っている、奈良ドリームランドの「夢の跡」は今後どうなってしまうのか。

その未来を予測する上で、奈良よりも先に閉園したもうひとつのドリームランドの跡地を見に行ってきました。そこには、遊園地だけでなく、もうひとつの大きな夢があったことがわかったのですが、遊園地もそれも今はもう…。

もうひとつのドリームランド

横浜市戸塚区。ここには1964(S39)年から2002(H14)年まで「横浜ドリームランド」がありました。奈良に遅れること3年後に開業し、奈良よりも4年早く閉園したことになります。かつての姿を知る友人に案内され、「ここに横浜ドリームランドがあったんだよ」と言われたのですが、そこには大きな住宅団地とバスターミナル、横浜薬科大学と整備中の公園があるのみ。名古屋でもよくある、丘陵地の文教地区と住宅街という姿でしかありません。

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しかし、横浜薬科大学を覗いてみると、何やらシンボルタワーのような建物が。図書館なのですが、それにしても変わったデザインです。実はこれ、ドリームランドにあった「ホテルエンパイア」の建物をそのまま使っているのです。そしてその近くにある大学の建物は旧ドリームボウル。大学となった今もここにはドリームランドの面影が。と言いますか、面影はそれだけしかありません。

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ドリームランドの面影は?

かつて遊園地があった場所は、この横浜薬科大学と横浜市の俣野公園などに姿を変えており、もはやここに遊園地があったと思わせてくれるものはほかに無いのか…。

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と思って周囲を見渡すと、バス停の名は今も「ドリームランド」。

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さらには、横浜銀行の入ったドリームビルや、集合住宅ドリームハイツと、夢のある名前が溢れています。このドリームハイツは、遊園地があった頃からあるもので、当初はこのドリームハイツの部分も含めて巨大な遊園地だったものが、ある出来事によって来客が減少したことで、敷地の半分を売却せざるを得なくなったため、70年代に住宅地に姿を変えたものだったのです。

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ある出来事とは。

公共交通になるはずだったモノレール

この横浜ドリームランドは、最寄の大船駅から離れた場所にあり、遊園地が開業した2年後の1966(S41)年に、来場者の利便性を向上するためと、アトラクションとして5.3キロメートルのモノレールを敷設したのです。奈良ドリームランドの場合は、未来の乗り物としてモノレールが敷地内を走っていただけだったのですが、横浜の場合は実際に公共交通としてモノレールを走らせたというわけです。

しかし、モノレールはわずか1年半弱で休止に追い込まれます。運行休止勧告が下されたのです。設計時よりも実際は車両がかなり重く、橋脚などに亀裂が入ってしまったのです。

そのため、ドリームランドへのアクセスはバス路線のみとなったのですが、この付近は渋滞が頻繁に発生し、その影響で客足が遠のいてしまったと言われています。

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モノレールは1967(S42)年に休止したのですが、再開することで「渋滞知らずの通勤」を謳い文句にドリームハイツの入居者募集を行った経緯もあり、HSST(リニアモーターカー)などとしての復活が模索され、モノレールの橋脚はずっと放置されていました。

長年残されていたモノレールの橋脚

では、その橋脚が残っていた4年前の写真をご紹介しつつ、当時に時間を戻してみましょう。2003(H15)年2月当時、横浜ドリームランドは既に閉園していたものの、ドリームボウルはまだ営業しており、観覧車などの施設はそのまま残されていました。

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この頃は、ドリームランドの跡地を中古車オークションの「USS」が買い取っており、オークション会場として使用することになっていて、現地事務所なども設置されていました。しかしこの計画は住民の反対により中止になり、現在の横浜薬科大学に落ち着いています。

大船駅からドリームランドへと続くモノレール。この時は既に運行が休止されてから36年の月日が経過しており、街中をまったく生気の無いコンクリートが駆け抜けているという異様な光景が見られました。

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36年という月日は半端なものではありません。駅舎は既に朽ち果てる寸前。遊園地を楽しみに乗客がモノレールを乗り降りした期間はわずか1年半。それから36年の間、少しずつ朽ち果てながらも、ずっと再開という夢を見続けていたのです。

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使われたのは1年半だけ…のこされていた36年

20代、いや30代の人でさえ、このレールに車両が走っている姿を見たことが無いのです。そんなものが街の中を、住宅のすぐ横を駆け巡っていました。放置され続けるレールとは対照的に、レールの周囲はどんどん宅地化が進んでいきました。一戸建て住宅の横の急勾配をカーブしながら縫っていきます。この急勾配も再開のネックでした。

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ドリームランドは夢の跡となったにもかかわらず、かつて時代の最先端として生まれたモノレールは、数十年の時を経て再び最先端な乗り物である、HSST(リニアモーターカー)に生まれ変わるという夢を最後まで見ていました。

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実はこの時、既に再開計画は断念という決定が下されており、廃止が発表されていたのですが、まだ免許は残っていました。しかし、とうとうこの後、免許も失い、土地は売却され、橋脚は撤去されることになります。街のなかを縦横に走る廃墟。初めてそれを目にする者は驚くものの、ここではそれがあって当たり前だったものが、とうとう姿を消すことになったのです。

夢見た後に…

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そして今では、かつて橋脚があった場所は真新しい住宅街などに姿を変え、36年に渡って何も通ることのなかったレールの橋脚によって湾曲させられていた道路も、跡形はほとんどなく改良され、今では本当にここにモノレールの路線があったのかと、思わず疑ってしまうほどに何も無い普通の住宅街となっています。

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首都圏でテーマパークの先駆けとして、ランドマークとなるホテルを兼ね備えた一大リゾート地と、最寄り駅を結ぶ最新鋭のモノレール。当時のそのワクワク感を知る人も、今では40代後半以上ということになります。

奈良ドリームランドは夢の跡でしたが、横浜ドリームランドは夢の後。

もはや、現地を訪れてもその夢の残骸に触れることもできません。でもその夢は、間違い無く数年前まではここに存在していたのです。遊園地が消え、ボウリング場が消えても、地域の人々の足として、数十年の時を越え、リニアモーターカーに生まれ変わるという夢を見ていたのです。

でも結局、夢は夢のままでした。

さて、遊園地とモノレールの組み合わせといえば、同じ神奈川県でもうひとつ思い浮かべる場所があります。小田急の向ヶ丘遊園へと足を進めます。

取材協力

KAZ Communications ♣ MyFM 883
 

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コメント

  1. シンゴ より:

    初めてコメントさせていただきます。
    先日この公園を訪れたのですが、
    小奇麗な公園墓地や大学、野球場などが整備され
    地域住民の方の憩いの場となっているようで
    施設の跡地利用の仕方としては、非常に好感のもてる
    ものになっていると感じました。
    愛知県でも桃花台線廃止問題などがある様ですが
    計画と時代の流れに誤差が生じたときに
    後に残るものが地元に愛されるものであって欲しいと
    の思いを強くしました。
    (2007/12/10 8:58 PM)

  2. トッピー@管理人 より:

    >シンゴさま はじめまして こんばんは
    そうですね。公園も大学も、周囲の住宅に溶け込んでいて、なおかつ舗装なども落ち着いた感じで静かな環境が形成されていましたね。もしあれが、中古車のオークション会場になってたら…全然違っていたのでしょうね。
    桃花台線の場合は、純粋に路線跡のみが空く格好になるので、どうなるかわかりませんけど、確かに、地元の人に愛されるものに生まれ変わることが、理想ですよね。
    (2007/12/12 11:33 PM)

  3. KEN より:

    初めてコメントさせていただきます。
    愛知出身で今大船に住んでいます。モノレール再開運動
    の署名もしましたが、残念ながら夢叶わずでした。
    書かれている通りにいろいろな土地の再利用は進んで
    います。跡地が大学ということで住民も安堵している
    のですが、実は大きな問題が一つ残っています。
    モノレールは大船駅前の酷い交通渋滞の緩和を期待されて
    いたのですが、こちらは解決の目処が立たないままです。
    やはり計画が頓挫し、それをなんとか修正しても
    歪は残ります。桃花台線は歪が残らないといいですね。
    (2007/12/14 1:05 AM)

  4. トッピー@管理人 より:

    >KENさま はじめまして こんにちは
    大船駅からドリームランド跡地まで私も車で移動したのですが、確かに、結構時間がかかりましたね。モノレールならわずか8分だったそうですから、そのアドバンテージは大きかったでしょうし、渋滞緩和策としては大きな意味があったはずですよね…。
    車で移動するより時間がかかり、名古屋への接続も不便だった桃花台線なんかよりも、はるかに利用価値のあるものだったと思います。と言いますか、桃花台線計画は無茶すぎです。リニモが同じ轍を踏まないことを期待したいです。浮上式だから大丈夫だと信じたい(笑。
    (2007/12/14 12:04 PM)

  5. ビアンキ乗り より:

    >管理人様、ごぶさたいたしております。
    二か月前、旅行でドリームランドモノレール沿線跡地から湘南海岸サイクリングを愛用のロードバイクで走る前、ドリームランド跡地を偲びながら回りました。小さいころ行っていたドリームランドの変わり果てた姿を見て「こんなふうになろうとは」と悲しくなりました。でも時代の変化だから仕方がないことは仕方がないのですが、もうひとつのモノレールの欠陥に問題さえなければこんな運命にはならなかったはずです。
    現実、遊園地自体はなくなりましたが、ドリームランドの信号標識と、ホテルエンパイアだった横浜薬科大学図書館棟が見られただけでも感動しました。

  6. トッピー@管理人 より:

    >ビアンキ乗りさま こんばんは
    お久しぶりです。
    もうすっかり、風景が変わってしまいましたものね、
    当時を偲ぶのも、なかなか難しくなり、
    寂しい気持ち…お察しします。
    でもそのなかでも、当時の面影があるのは嬉しいですよね。
    一方でまだ、往時の姿が残っている奈良は、
    今後どうなっていくのか…気になりますね。

  7. ドリームボーイ より:

    はじめて書かせていただきます。
    私は、深谷町という自宅から歩いてドリームランドまですぐの所に半世紀以上住んでいます。
    当時、ドリームランドはひとつの大きな山というか丘でした。そのあたりで、近所の悪ガキどもと遊んだものでした。
    4~5才の頃、母からこんどあの丘に遊園地が出来るらしいと聞き、本当に喜んだものでした。家から見える観覧車が下から上へと出来上がって行くのを見て、指おり数えて開園を待っていました。
    開園の日に行ったので、当時は敷地面積がたいへんに広く、今のドリームハイツ及び深谷台小学校のあたりまで、反対側は春日神社のあたりまであり、園内を歩いて反対側の端近くのアトラクションへ行くのがしんどかったのでそれを解消するために、外側をぐるりと走る外周列車という汽車が走っていました。また、園内移動ではある一定距離を空中にワイヤーを張り、それを伝って行くカプセル型のペダルでこぐ二人乗りの乗り物がありました。かなり高さがあったので、子供心に怖かったのを覚えています。また、馬車も走っていました。夏はプール、冬はスケートと良く行ったものです。
    そのうちにモノレールが開通する話があり、また楽しみが増えました。しかし、実際に乗ったのは数えるほどでした。やはり近場の人は、普段の足というよりは、大船駅を往復する娯楽の移動物というのがありました。
    しかし、輝いている当時とは違ってモノレールはいつの間にか不通になり、国道一号線の松並木を横切って通るレールを含むほとんどが残され、ドリームランドの敷地は半分くらいに狭くなり、ドリームハイツという市と県の団地が出来、小学校、幼稚園とが次々に出来て、当時の中学校の友人達が各地から引越して来ました。そこには中学の後輩で今は著名な、クレイジーケンバンドの横山氏がご両親と住んでいて、遊びに行ったものです。
    ドリームランドとの縁はかなりあり、十代後半当時、エンパイヤホテルで働いていた知人の伝もあり、そこのビアガーデンでバンド演奏のアルバイトを夏休み中やっていました。部屋も安く泊まらせてもらったり、上のレストランで食事も良くしました。ここはゆっくりと一時間で一周まわり、景色も順繰りに変わって行き楽しめました。今でもこのような施設は無いのではないでしょうか。
    それがあれよあれよという間に閉園となり、今は大学と公園、墓地、野球場と当時をうかがい知るものは、エンパイヤホテルとボウリング場の一部(今は大学の私有物)でしかありません。あとはバスの行き先の名前でドリームハイツ等だけです。
    寂しい限りです。
    本当に夢の国になってしまいました・・。
    しかし、思い出はいつまでも胸の奥にあります。

  8. >ドリームボーイさま コメントありがとうございます
    その歴史を、ずっと近くで見届けていらっしゃったのですね。
    開園をまって、その開園の日に訪れられた感動の様子が、
    文面から伝わってきました。そしてモノレールの開通、
    そのワクワク感、すごかったのだろなあ…と。
    知らなかったお話を聞かせていただきまして、
    ありがとうございます。
    お話を伺えば伺うほど、全盛期の頃に行ってみたかったな…
    という思いに駆られます。
    当時のドリームランドほどの場所は、
    確かに今の日本には見つけられないでしょうね。
    幻の夢の国…改めて、その思いが募ります。

  9. ビアンキ乗り より:

    管理人様、ながらくごぶさたいたしております。
    夕方のニュースで興味深く見ていました。奈良市が公売物件として最低入札価格7億3000万円といった激安で入札者を募集したのですが、買い手はつきませんでした。
    それは奈良市特有の問題が潜んでいるようです。
    ①1970年に市街化調整区域内に入ってしまったことによって、跡地利用に制限がかかり、商業施設などの誘致ができず、市街地としての開発を禁止されています。
    ②跡地開発も現実問題、医療・福祉施設としての再開発しかできない理由があるそうです。
    ③開発するには、周囲の景観に合わせることと遺跡確認調査をする必要があります。
    そういった問題が潜んでいても、何らかの形で奈良の新たな街づくりを真剣に考えなくてないけないと思いました。

  10. トッピー@管理人 より:

    >ビアンキ乗りさま コメントありがとうございます
    結局まだ買い手は見つからず、
    横浜のようになるのはまだまだ先のことになりそうですね。
    奈良の姿はまだこれからも今のまま…。

  11. みもざ より:

    ドリームランドは確かに夢の国でしたね。子供が小さい頃連れて行ったのが最初ですから40年近く前です。それまでの遊園地とは違い、入場門を過ぎると両側に楽しい店が並びその先の遊園地の楽しみを掻き立てていました。アメリカのディズニーランドをまねたのでしょうが私たちにとってはそこに行ける優越感のような気分もありました。閉園になる時の記念時期にも行きましたが、通算では10回ほど行ったと思います。遊園地以外の素晴らしかったところはホテルエンパイアで一階の庭園には素晴らしい鯉が泳いでおり高級感があふれ、そこを抜けてエレベーターで最上階のレストランで食事をしました。1時間で一周する展望レストランでその眺望はすばらしく本当に好きな空間でした。今でも建物は残り当時の華やかな姿をしのばせますが、離れたところからでもよく見えるこの高層建物は本当に私にとっての夢の跡そのものです。東京のディズニーランドの巨大さに完敗して消えていった私たちの夢ですが、常に新しいもの、便利なもの、優れたものを追い求めるのは人間の本能で
    すから誰を責めることもできません。時代の流れというしかありません。夢はいつかは終わるものです。

  12. トッピー@管理人 より:

    >みもざさま コメントありがとうございます
    開園当時のお話ありがとうございます。本当にその時代にはその名のとおり、ドリームだったんですね。営業中に一度も行けなかっただけに、その「夢」にどうしても思いを馳せ続けてしまいます。

  13. ミカ・ライコネン より:

    初めまして管理人様。横浜ドリームランド、完全閉園されてからもう10年以上も経つのですね。大船近くに産まれ住んで5月に4度目の干支を迎えますので、ほぼ半世紀「夢の国」の近くに住んで居ることに成ります。
    両親が運転免許を持たず自家用車も無かった我が家では子供の頃余り遊びに行った記憶は無いのですが、入門すると丸く広いコンクリートの半円形の階段が有り、その付近でイギリスの衛兵を真似た衛兵風の行列が時間ごとに交代のアトラクションを行っていた記憶があります。
    現在程ではないとしても第二次オイルショックで両親離婚の原因に為った不景気の始まりの小学5年生の時、遊びにバスで行った時には、バスの停留所の目前に有ったモノレールの車両置き場には朽ちる寸前のモノレールの車両が打ち捨てられていました。羽田に通うのと同じござ式のモノレールだったらしいですが、開通1年半で運行停止に為って、其れから15年位そのまま打ち捨てられていた計算に為ります。20年余前、鎌倉市と戸塚の間の住宅街に、当時生業としていた電話の配線工事で出向いた際、モノレールの橋脚の違跡を目にしましたが、余りに低い位置に有り、造りもみかん畑のトロッコ並みの強度にしか見えず、あれでは運行停止も仕方無い、と感じました。
    その後転職する前に一時期湘南台の工業団地迄で通っていまして、東俣野のその付近をオートバイ通勤で通る度、ドリームランドってどう成ってるのかなぁ、と薄れて行く記憶を呼び起こす様な思い出があります。因みに薬科大学の所有物と為り、未だ図書館として残るエンパイヤホテルの建物、小田急線の六会駅近辺の車窓から見る事が出来ます。

  14. 親父ライダー より:

    はじめまして、管理人様。
    横浜ドリームランドには良い思い出がたくさんあります。
    37年生まれの私には、幼稚園の遠足を初めに小中学生時代まで家族で何回も行きました。
    幼稚園の頃は、自家用車が三菱コルト600という車で両親と後部座席に姉弟3人ぎゅうぎゅう詰めで出かましたっけ。
    途中で日産プリンススカイライン1500になり、幾分楽になったのですが、夏場はエアコン等無くて三角窓全開でした。
    今では考えられないですね~。
     アトラクションの正確な名前は覚えていませんが、大好きだったのは
         ・回転するタコの足先につけられたゴンドラ?
         ・乾電池型のロープウェイ
         ・ゴーカート
         ・鏡の迷路
         ・お化け屋敷(父親の背中にしがみついてい た)
         ・アフリカ探検の船
         ・宇宙旅行
         ・馬やラクダに乗ったこと
    コメントを考えている内に、当時のことが思い起こされて懐かしいです。
     園内のレストランのテーブルの上には、小型のガチャポン?が置いてあって(中身はピーナッツ)機械のてっぺんに付いている紙皿に受けて食べた思い出があります。
    確か10円だったと思いますが、たくさん出るわけではないので子供3人に何度もせがまれる両親は大変だったかも。(出てくるのが面白いだけで、少ししか食べない)
    ドリームランド外周を汽車が走っていて2か所だったと思うが途中に駅があった。
     駐車場の隅にヘリコプターが駐機され、有料で遊覧飛行していました。
    両親に乗りたいとせがみましたが、かなり高額だったようで最後まで乗れませんでした。
     帰りに、下り坂の途中に夜店が出ていて「アメリカン・ドック」を初めて食べた時の美味しさは忘れられません。
     やがて27歳で結婚、長女をドリームランドに連れて行ったのですが、ずいぶんと狭くなっていて、アトラクションも変わっていたり、色あせていたり時の流れを実感しました。
     あの時、河童の着ぐるみを見つけ抱き付いて見上げると
    ニキビ面のお兄さんが困った顔で見つめて、頭をなでてくれたっけ。
     元気にされているのかなぁ。
     また行きたいなぁ。
    あっ!もうないんだ。
    つまらない思い出話に付き合っていただき、ありがとうございました。

  15. 義行 より:

    モノレールは交通に便利な物でしたので現在の技術で蘇らせて欲しいですね、ドリームランドが閉鎖された事は惜しかったですね。

  16. Jirotinho より:

    幼稚園の遠足でモノレールに乗り遊園地に行きました。
    大きくなってからは、ヘリコプターの遊覧飛行かな。。

  17. 114.149.97.45 より:

    あのモノレールって1年半しか運転してなかったんですね
    子供の頃に家族で乗った記憶がありますが貴重な体験になるのですね

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