トッピーの放送見聞録 放送事情レポート

ちぎられた電線...本州で一番電波が飛んだFM局の末路・幻となった地デジとFMの送信所…三国山

記事公開日:2012年2月12日 更新日:

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★名古屋のFM局のアンテナはどうなる
★かつてもうひとつ名古屋にはFM局があった
★電波が飛びすぎて...電波が飛んだのに...

 前回「名古屋のもうひとつのテレビ塔はどうなるの?」では、中京テレビの放送センター「東山タワー」を取り上げました。

 中京テレビとテレビ愛知がアナログテレビ放送の電波を発射していた「東山タワー」。アナログテレビの電波を発射するという役目を終えたものの、現在もそこから、NHK名古屋FM放送、FM AICHI、ZIP-FMが電波を発射しています。

 しかし、中京テレビが本社の移転を発表。東山タワーの存続がどうなるのか...というところで思い出したのです。そう、名古屋には、もっと電波の飛ぶ、別の場所から電波を出していたFM局があったのです。あそこから電波を出せばいいのではないでしょうか!ところが、そこには...。

地上デジタル放送の電波が最初に発射されたのは...

 名古屋市内から北東へ。地上デジタル放送の電波が発射されている、瀬戸デジタルタワーを越えて、さらに北東へ。瀬戸市と岐阜県土岐市の境にある三国山へと向かいます。

 標高701メートルの三国山。一時期は2つのFM局が電波を発射し、地上デジタル放送の実験電波も発射されたところです。しかし今は、放送に関する電波は一切発射されていません。なぜ、発射されていないのか、ひとつずつ見ていきましょう。

 三国山から、放送にまつわる電波が最初に発射されることになったのは、1999(H11)年4月1日のことでした。「通信・放送機構(TAO)東海地上デジタル放送研究開発支援センター」による実験施設が置かれることになったのです。現在も、その送信タワーは残されています。

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 この施設「東海地上デジタル放送研究開発用共同利用施設」の概要を見てみましょう。名古屋市西区城西の名古屋送出センターから、STLによってこの三国山送信所へとデジタル実験の放送内容が送られ、ここから1kwにてデジタル放送実験の電波が発射されました。この三国山が本局という扱いでした。

 三国山送信所からの電波は、額田町(現・岡崎市)の「本宮山中継局(テレビ愛知豊橋中継局併設・300w)」岐阜市の「上加納山中継局(岐阜放送本局併設・100w)」津市の「長谷山中継局(三重テレビ本局併設・100w)」、移動型中継局(10w)へと送られ、広く東海3県に渡る、地デジ電波の伝播実験が行われたのです。

 同時に、名古屋送出センターと光ケーブルで「東山中継局(東山タワー・100w)を結び、別系統で同じ内容を送出することで、同一チャンネル、同一内容での電波発射技術(SFN)の試験も行われました。東山中継局からの電波を受けての、1wのギャップフィラー装置も運用されました。

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 この実験は4年半に渡って行われ、実際に地上デジタル放送が始まった2003(H15)年12月に利用終了。2004(H16)年3月末に閉所されます。しかし、タワーは取り壊されること無く、翌年、再利用されるのです。

瀬戸から東山そして瀬戸

 東海3県の地上デジタル放送は、三国山を本局として実験が行われたのに、実際には、瀬戸市内の平地に建てられた「瀬戸デジタルタワー」からの電波発射となったのはなぜでしょうか。当初の計画は、実験と同様、この三国山から名古屋の地上デジタル放送電波が発射されるというものでした。

 それが「土岐地区テレビ塔建設構想」です。「土岐地区」という名がついていますが、ここは愛知と岐阜の県境ですから、もしこれが実現していたら、愛知県と岐阜県のテレビ局が同じところから電波を発射することになっていた可能性があります。

 ところが計画は白紙となります。各家庭がアナログと同じアンテナで受信できるようにと「東山デジタルタワー」が計画されるのです。結局それも様々な反対運動で実現不可能となり、行き場を失います。しかし、地上デジタル放送は2003(H15)年12月に東京・名古屋・大阪でスタートすることは既に決まっていたため、場所の選定には時間をかけられず、唯一受け入れを表明していた瀬戸市に落ち着いた...というわけです。

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 つまり。通信・放送機構による、三国山からと東山からの地上デジタル放送電波の実験のうち、その場所からの飛び方を検証した内容については、全く役に立つことなく、実際には全然別の場所からの電波発射となり、特にテレビ愛知については、後手後手の対策となったのです。

 なぜ、三国山へのテレビ塔建設が白紙になったのでしょうか。諸説ありますが、ここからの電波が飛びすぎ、関西の地デジへの影響が懸念されたとの説が有力です。

期間限定のFM局が電波を発射

 その、通信・放送機構による地デジ実験アンテナ塔を再利用したFM局があります。2005(H17)年2月25日から9月25日まで、77.3MHz(200w)で電波を発射した「2005年日本国際博覧会・愛・地球博」FMラジオイベント放送局「FM LOVEARTH(エフエムラヴァース)」です。

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 FM LOVEARTHは、CBC(中部日本放送)とZIP-FMによる共同運営となっていて、楽曲は全てハードディスク送出、環境をテーマにした万博であったことを反映して、省力化が徹底されていました。

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 この地方での初のイベントFM局は、1989(H元)年の地方博・世界デザイン博覧会による「FM-DEPO」でしたが、名古屋市内から発射されたFM-DEPOの出力が300wであったのに比べ、FM LOVEARTHは国を挙げての万博にもかかわらず200w。これより大きな出力を出すと、既存局への混信が想定されたといわれています。このことからも、三国山の電波環境がいかに良すぎるかということがわかります。

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 ここまで、地デジ実験とイベントFMの放送電波を見てきました。これらは、どちらも一時的なものです。しかしかつてこの三国山からは、一時的なものになるはずではなかったFMラジオ局の電波が発射されていました。いよいよ本題です。

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かつてあったのは...RADIO-i(レディオ・アイ)

 地デジの実験が始まった翌年、2000(H12)年4月1日。この三国山に本局送信所を置いて放送を開始したのが、RADIO-i(レディオ・アイ)こと愛知国際放送です。

 RADIO-iは、阪神・淡路大震災を機に、新たに設けられた「外国語FM局」という制度に基づいて開設されたFMラジオ局で、免許エリアは「名古屋市・瀬戸市・豊田市・岡崎市・常滑市・豊橋市・浜松市」の7都市でした。そのため、このエリア内に本局を置かねばならず、三国山といっても岐阜県側にあった既存の送信鉄塔群ではなく、愛知県側に少し入ったところに、ポツンと自社鉄塔を構え、そこにアンテナを設置したのです。

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 免許エリアは7都市といっても、実際にはピンポイントでカバーするわけではなく、この三国山からの電波で、のちに国際空港が設置されることとなる計画のあった常滑市をしっかりカバーする必要がありました。そのため、東山タワーに本局を設置していた他のFM局が出力10kwであったのに対し、RADIO-iは半分の5kwとされたものの、特定方向への実際の電波の強さを示す実効輻射電力(ERP)は51kwで、これはNHK-FM、FM AICHI、ZIP-FMの39kwに比べても強いことがわかります。

 特に、瀬戸から見て常滑方向の電波が強く出されていたため、その延長線上の三重県・奈良県、そしてさらには和歌山県や高知県でも聞くことができたといわれ、RADIO-i自身も「本州で最大面積のエリアをカバーするFM局」と自称していました。

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名古屋財界の総力を結集

 災害時には外国人の情報源となるため、また、普段からも国際都市・名古屋に住む外国人のためという大義名分から、このRADIO-iへは、名古屋財界の総力を結集といっても過言ではないほどのメンバーが出資を行いました。

 興和を筆頭に、ジャパンタイムズ、トヨタ自動車、敷島製パン、中日新聞社、東海銀行、名古屋鉄道、中部電力、シーキューブ、エフエム愛知、電通など計26社です。

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理想では食べられなかった

 放送内容も「ON AIR RESORT」をキーワードに、心地のよさを追求し、作り手が納得のいったものを流すというものでした。入るCMの数も少なく、充実した音楽ラインナップと、まさに理想のFMラジオを具現化したような、リゾート気分あふれるFMステーションでした。

 しかしです。CMが少ないということは、収益も少ないということでした。実際には少ないどころか、2000(H12)年の開局から一度も黒字を計上することはなく、毎年のように億単位の赤字がつみあがっていきました。

 2008(H20)年、このRADIO-iの先行きを決定付ける出来事がおこります。それは、株主のうち興和を除いた全社が手を引くことを決めたのです。興和以外の出資者は、それらを全て興和に譲渡。RADIO-iは興和の100%完全子会社になるのです。そうです。名古屋財界が逃げ...いや、興和に託して去っていったのです。

 興和といいますと、医薬品を思い浮かべますが、放送機器の製造も行っていまして、RADIO-iをそのショールームとして、RADIO-iに放送機器の販売事業も請け負わせます。

 あれから4年。現在、興和のサイトからは放送機器の紹介ページが削除されているところをみると、興和はこの頃から、放送機器部門の縮小を考えていたのではないでしょうか。放送機器自体から手を引くとなれば、毎年億単位の赤字を出す放送局を抱えている意味が全くなくなります。

 RADIO-iは2010(H22)年1月。大胆な番組改編を行います。4月の10周年を控え、開局からずっと使用してきたジングルやニュース・交通情報のインフォメーションBGMを一新。番組もガラっと大きく変わりました。思えば、これが最後のリストラ策だったと。しかし、それでもスポンサーは集まらなかったようです。

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日本初の閉局

 10周年を迎えてから2ヶ月がたった6月15日。RADIO-iが放送を終了するというニュースが報道されます。2010年3月期の純損失は2億1000万、累積赤字は28億8000万円にも達するという衝撃の数字でした。

 CBC(中部日本放送)が日本で初めての民間放送として開局して以来、我が国では放送を終了した民間放送局というのは、合併や事業譲渡を除いて前例がありません。RADIO-iの閉局は、日本の放送史上初のこととなりました。

 国の免許事業である「放送」。その免許を国に返上して放送を終了する。市町村単位の小さなFM局での前例はありますが、これだけの大規模局、しかも、本州で最大のエリア面積を誇るFM局であったにもかかわらずの閉局。この衝撃は相当なものでした。

 興和が100%子会社とした時点で決まっていたのか、興和が放送機器事業を縮小すると決めたから決まったのか、それとも、最後のリストラ策をもってしても効果が無かったからあきらめたのか、どの時点でこの「閉局」が内々に決められていたのかはわかりません。

 RADIO-iの放送免許だけを引き継ぎたいという会社の名乗りは、複数のジャンルの会社から挙がったようですが、それは実現することなく、2010(H22)年9月30日。RADIO-iはその10年半の歴史に幕を下ろしたのです。

 しかしこれは、最初で最後の事例となりそうです。翌2011(H23)年6月に改正放送法が施行され、1つの放送局が4つまで電波を持つことが可能になり、既存の放送局に放送免許を譲渡して、会社を清算するということが可能になったのです。

 実際に、RADIO-iと同じ「MEGA-NET」系列のFM COCOLO(関西インターメディア)は、この4月1日にFM802に放送免許を譲渡し、会社は清算する方向で話が進んでいます。

 放送局がなくなる。この、日本で唯一の貴重な体験したのは名古屋っ子だけ、ということになりそうです。

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RADIO-iアンテナは今

 かつてその、RADIO-iが電波を出していたのがこの三国山です。昨今、埼玉のNACK5、東京のJ-WAVE、そして神奈川のFm yokohamaと、関東では次々とFMラジオ局の送信所移転が持ち上がっています。インターネットによるサイマル放送がスタートしたものの、肝心のラジオ放送が都市雑音や高層ビル建設によって、聞きにくくなっているのです。経営環境が厳しくなっているからこそ、より、広範囲に電波を飛ばそうとしているのです。

 これは名古屋も他人事ではありません。さらにここへ来て、FMの電波が発射されている東山タワーの去就がどうなるのか...。

 となれば、NHK名古屋FM放送もFM AICHIもZIP-FMも、かつてRADIO-iが電波を出していた三国山から電波を出せばいいじゃない!どうせ設備も使われずにほったらかしなのだろうから!ということで、RADIO-iの送信所を見に行きました...。

 そこには...更地。

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 そう、かつてRADIO-iが電波を発射していた送信タワーは、跡形も無く撤去されていました。しかも、タワーそのものどころか、土台も、そして囲っていたフェンスも、何も残されていませんでした。

 FMラジオが、放送局が無くなるってのは、こういうことなんだと。

 今も残っている通信・放送機構の送信鉄塔と対照的です。そう、実験が終わったのでもなく、期間限定のものが終わったわけでもなく、倒産したのですから。何もありません。RADIO-iなんてFM局は、実は幻だったのではないか、都市伝説だったのではないか、本当にそんなFM局が名古屋にあったのだろうか...とさえ思えてしまいます。

 ただ、唯一残っていたのが電柱でした。そこには「愛知国際放送引込1」の文字。そのNTTによる標章だけが、かつてRADIO-iというFM局があったということを示す唯一の存在でした。

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 その電柱には、無残にちぎられた電線が束ねられていました。

 名古屋のFM3局が、もし、この三国山から電波を出すとなれば、新たなタワーの建設から着手しなければなりませんね。通信・放送機構のタワーは岐阜県側にあるので、愛知県のみをエリアとするFM局がアンテナを乗せることはできません。

 RADIO-iとは何だったのか。ラジオの凋落が激しいだとか、リーマンショックの影響だとか、もっともらしいことが言われていますが、そもそも開局した2000(H12)年から一度も黒字を出していないわけです。しかも、放送局のカラーに沿わない番組やスポンサーは受け入れない方針であったともいいます。

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 そして何より、名古屋財界のバックアップがある日突然打ち切られ、引き取り手が名乗り出たのにフェードアウト。

 ハード面で言えば「晩節を汚されるよりは無くしてしまえ」ソフト面で言えば「お金よりも理想を追い求めた結果の消滅」。そもそもが、一度も黒字を達成できていないのですから、それが10年間存在したということは、誰かがずっと身銭を切り続けたわけです。それが興和であり、名古屋財界だったのです。

 理想を追い求めているだけではご飯は食べられない一方で、理想を唱えながら死んでいく美しさ。国の放送免許事業であるからこその成り立ちとその最期。RADIO-iに学ぶこと、思うことは、放送好きという範疇にとどまらず、人間がお金を稼いで生きていくとはいかなることなのかという思考にまで達します。

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「名古屋が元気」「元気な名古屋」といわれた、2005(H17)年の愛・地球博を中心とした10年間、その名古屋の「元気」が見せてくれた幻のラジオ局、それがRADIO-iだったのではないでしょうか。採算度外視、作り手の追い求める理想だけが具現化され、お金に左右されない選曲、ダイエット食品も健康器具も売らず、保険の勧誘も無いラジオ。

 ただそれが、ラジオとして正解だったのか、間違いだったのか。簡単には判断できるものではないでしょう。そもそも、外国語FM局をスポンサー収入による民営にしたこと自体が制度として正しかったのかどうか。

 ただひとつ確実に言えることは、今後、日本中どこを探しても、RADIO-iのようなラジオには二度と出会えないということです。

追記

跡地には、東海ラジオとCBCラジオのFM補完中継局(ワイドFM)の送信所が建設されました。
東海のワイドFMアンテナ設置完了!標高701mの三国山から全方向に電波を発射

関連情報

取材協力

KAZ Communications
なにかな

RADIO-i送信所跡地(愛知・瀬戸市)MAP

35.254057, 137.189538

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