お伊勢さんといったらやっぱり手こね-おかげ横丁は昔からのままの姿ではない

広告

写真

広告

おかげ横丁(三重・伊勢市)

先日の記事で、三重テレビの番組を見て久しぶりに伊勢へ行きたくなったというお話をしましたとおり、伊勢神宮内宮の門前町である「おはらい町」へと行ってきました。伊勢神宮にはたまに行くのですが、さすがに遠方なのでそれほど頻繁に行けるわけではありません。
すると、行く度におはらい町がだんだんと賑やかになっているのがわかるんですよね。江戸時代の街並みに戻す取り組みを官民一体となって取り組んだ結果観光客が増え、三重県で唯一地価が上昇に転じています。今回はそのおはらい町と、中心にある「おかげ横丁」を訪れてみました。

無電柱化に石畳…なのはもともとではない

あいにくの天気だったのですが、お休みということもあって本当に多くの人が訪れていました。今年のお木曳行事(陸曳)が終わったばかりなので、ひょっとして空いているのではないかと思ったのですが全然そんなことはありませんでした。おはらい町通りは旧参宮街道の終点。

江戸時代にはお伊勢参りにやってきた人々をもてなした旅館などの建物が今もずらりと並びます。それらの建物を生かした街づくりが行われており、1992(H4)年には電線の地中化による無電柱化、その翌年には石畳舗装工事を行い、江戸時代の風景を再現しています。このあたりの建物は「軒がんぎ板」という垂木の鼻隠しがあるのが特徴で、街並みがずっと続いているような印象を受けます。

写真

やっぱり食べたくなる手こね寿司

さて、おはらい町通りにやってきたらやっぱり食べたくなるのはあの伊勢名物です。もちろん、赤福や岩戸餅、神代餅といった甘いものも良いのですけど、私たちはやっぱり伊勢といえば「手こね寿司」です。おはらい町通りにあり、五十鈴川に面している「すし久」に入りました。

お昼時はものすごい待ち時間になりますので、午前11時頃に入店されることをオススメします。すし久の建物は明治4年に建てられたもので、五十鈴川に架かる宇治橋の古材が使われているのだとか。2階の大広間は昔の旅館を思い起こさせます。

すし久はかつて料理旅館だった時代もあり、店内には昔の講札が掲げられています。講とは簡単に言うと、その昔、伊勢神宮に行きたくともなかなか一人で行くことは難しく、参宮したい人が集まって共同でお金を集めて、庶民は伊勢参宮を実現したのです。積立貯金旅行といった感じでしょうか。その講の指定旅館にはこの講札が掲げられていたというわけです。講は戦後GHQによって解体させられました。

ヅケのカツオの絶妙な味付け加減

さて、手こね寿司です。海女さんが使う手桶をかたどった容器に、冷たいご飯とヅケのカツオが乗っかっています。この味付け加減が絶妙なのです。タレは秘伝の醤油だれ。ご飯にも適度に味が付けられていて、ショウガがアクセントになっています。桶は上げ底になっていますが、これがもし上げ底じゃなかったらとても食べきれる量ではありません。

竹の平膳には炊き合わせに小鉢、そして温泉たまごに漬物、赤だしがついています。伊勢で赤だしというのが、意外だなぁといつも思いながらいただきます。松の平膳にはさらにお刺身がついて2,100円です。おなかいっぱい。

写真

2階の窓からは五十鈴川の流れを見られます。この風景は今も昔も変わらないのでしょうね。江戸時代はこの流れを見ながら、長旅の疲れを癒していたのでしょう。すし久は伊勢芋を使った麦とろろごはんも有名です。腹ごしらえも済んだところで、おはらい町の中心にあるおかげ横丁へといってみましょう。

写真

常夜灯も実は新しい

おはらい町通りの中ほど、赤福の前にある常夜灯がおかげ横丁の目印です。この常夜灯は1993(H5)年の第61回式年遷宮の記念に赤福の10代目が建立したものです。おかげ横丁はその年に誕生した「まち」です。約2,700坪の敷地内に伊勢路の代表的な建築物を移築しています。

江戸後期から明治初期の風情をテーマにしているので、文明開化を感じさせる建物もあります。このおかげ横丁の事業主体は1707(宝永4)年創業の赤福です。赤福が300年商売を続けることができたのも、お伊勢さんの「おかげ」という意味と、江戸時代の「おかげ参り」からおかげ横丁と名付けられました。

ちょうどこのときはおかげ横丁で「夏まちまつり」が開かれていて、べっこう飴のお店や射的、似顔絵書きなど多彩な出店が並んでいて、本当に多くの人でごった返していました。

写真

かつては庶民の夢

江戸時代のお伊勢参りは庶民の夢でした。しかしもちろん徒歩ですし、先述のお伊勢講などでお金を出し合って何とか一生に一度いけるかどうかというものでした。移動制限があったにもかかわらず、全国から伊勢へと多くの人がやってきたといいます。そのため伊勢の人々には「おもてなし」の心が脈々と受け継がれているのだそうです。

年月をかけて、おはらい町通りが次第に昔の姿にそして次第に賑やかになっていく様子を見ていると、再び伊勢が昔のような賑わいに戻りつつあるのではないかという気がします。実際、10年ほど前、私が大学生だった頃に訪れたおはらい町と今とでは全然印象が違います。

次回2013(H25)年の式年遷宮に向けて行事は始まったばかり。江戸時代の街並みに戻りつつあるおはらい町は、江戸時代の賑わいを取り戻すことができるでしょうか。私たちは手こね寿司が食べたくなった頃、また伊勢に来ます。

関連情報

伊勢志摩への旅行・観光なら伊勢神宮内宮前おかげ横丁
伊勢志摩に位置するおかげ横丁は、伊勢神宮のおかげ参りブームが起こった江戸から明治期の伊勢路の建築物を再現しています。三重県や伊勢地方の魅力を凝縮しています。

コメントはこちらから

Loading Facebook Comments ...

コメント

  1. 柴田晴廣 より:

    toppyさん
     江戸からの伊勢参りは、吉田から東海道を外れ、牟呂(豊橋市牟呂町)から船でというのが、一般的なコースであったようです。
     「ええじゃないか」は、この牟呂の八幡宮に御札が降ったことにはじまります。
     牟呂の隣の羽田の八幡宮の当時の神官は、羽田野敬雄(たかお)、平田派の高弟で、彼の思惑と、旅人を伊勢へ船で送る牟呂湊の海運業者の思惑が一致したとする説もあります。
    (2006/06/20 5:21 PM)

  2. トッピー@管理人 より:

    >柴田晴廣さま
    こんにちは。「赤福餅はええじゃないか」というフレーズを見ただけでも、伊勢と豊橋が古くから繋がりのあった名残を感じますね。先日も豊橋で伊勢との交流を深めるシンポジウムがあったとか。伊良湖と鳥羽を結ぶ橋の建設計画をもう一度!ですかね。
    (2006/06/22 11:43 AM)

  3. 柴田晴廣 より:

    toppyさん
     豊橋を基点とする国道259号の終点は、鳥羽です。
     伊良湖から先は、フェリーが国道扱いになっているわけです。
     以前、友人がパワーボートを所有していたときは、よく鳥羽まで行きました。
     伊良湖から鳥羽までフェリーで約一時間、パワーボートだと、田原から出港しても一時間とかかりませんでした。
     海の道を考えれば、東三河から伊勢は、名古屋より近い関係にあるように思います。
    (2006/06/23 8:41 AM)

  4. トッピー@管理人 より:

    >柴田晴廣さま
    こんばんは。伊勢の朝熊山から伊勢湾を眺めますと、いかに渥美半島と三重県が近いかを実感できますね。
    (2006/06/26 8:29 PM)

  5. 柴田晴廣 より:

    トッピーさん
     伊良湖岬から目と鼻の先の神島は、行政上三重県ですからね。
    (2006/06/28 5:52 PM)

  6. トッピー@管理人 より:

    >柴田晴廣さま
    こんばんは。先日、鳥羽の答志島に行ってきましたが、やはり愛知県は本当に近くに見えましたね。
    (2006/07/09 12:54 AM)

タイトルとURLをコピーしました