築城430年祭で盛り上がってるはずだった…越前大野城

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  • 築城430年祭で城下町に新しい風が…
  • うぐぴーとうめぴーとながちかぴーが説明
  • 岐阜県と福井県の間にある壁を直視

 九頭竜線こと越美北線のヘッドマークに見た、「越前大野城・築城430年祭」という文字と、うぐぴーとうめぴーのイラストに誘われて、大野市中心部へとやってきました。大野市は「北陸の小京都」…いや、「越前の小京都」と呼ばれ、城下町の風情が色濃く残る街として知られています。

 そんな越前大野に城が完成したのは、1580(天正8)年。今年で430年です。大野市ではこれを記念して、今年3月21日から来年の2月5日まで、「築城430年祭」を開催していまして、1年を通して多彩なイベントを開催しているとのこと。訪れたこの日は、大型連休の祝日。賑わう城下町の様子を見にやってきたのですが…。

オープンしたばかりの越前おおの結いステーション

 大野城の近くまで車で行きますと、綺麗に整備された一角が現れました。これは、今年の4月にオープンしたばかりの、大野市の魅力を発信する拠点施設「越前おおの結(ゆい)ステーション」です。

 ここには、電波時計と半鐘からなる「時鐘」のほか、休憩所と情報案内所「輝(キラリ)センター」「越前おおのまちなか交流センター」などが整備されています。「ゆい」に「キラリ」にと読み方がわかりにくいですし、「おおの」がひらがなであるセンスもよくわかりませんが、一番わからないのは、連休の祝日に、記念イベントを開催している、オープンしたばかりの新施設の駐車場がガラガラであることと、その駐車場が無料だったということですかね…。

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大野藩と教育

 この結ステーションでも、地元の物産が販売されているほか、近くにある平成大野屋は、大野市民と大野市によるまちづくり会社が運営する喫茶、お土産販売スペースとなっています。そこで目に付いたのが「伊藤慎蔵先生顕彰碑」です。

 伊藤先生は、1856(安政3)年に大野藩主土井利忠の招きによって、大野藩洋学館の教授となり、大野の地に新学問の気風をおこし、全国から集まった館生を教育して、新時代の指導者を育成したとのこと。全国から新しい時代の学問を求めて、大野に生徒が集まるほどだったのです。この碑は、それを記念したものだそうです。実は、大野藩は教育に相当力を入れた時代があるのです。それは、この大野城に行くとわかります。

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急がば近道?

 この結ステーションから大野城を見ますと、結構距離があります。すると相方が「もう少し近くまで車で行きたい」というので、地図を見ますと、お城の裏側にも駐車場があり、そこからの方が距離が近そうです。

 大野城の西側にあったのは亀山公園。駐車場も整備されています。車を止めて、大野城への西登り口を見て…びっくり。

 確かに、お城の天守への距離が近いことは間違いないのですが、大野城は、といいますか、お城というのは見晴らしの良い、丘の上に建っているのが普通です。それで、距離が近いとなれば…ものすごい急坂。この階段の迫力、半端じゃありません。

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2人の像が登場しました

 はぁはぁ言いながら、急で長い階段を上りきりますと、そこに登場したのは、先ほどの伊藤先生のところで名前が登場した、土井利忠の像が現れました。

 利忠は大野土井家の7代目藩主です。7代目なのに像になっているのには、ワケがあります。実はこの人物、財政再建を成しとげた人なのです。「財政再建を成しとげる」…なんていい響きなのでしょうか。

 利忠は、44年の在位の間、門閥を問うことなく優秀な人材を次々と登用し、洋学館を開設したり、洋書を購入したり、西洋医学を採用するなど、教育政策に力を入れたほか、藩の店「大野屋」を全国展開するなど、商売にも長けており、金融業もこなしていたとのこと。また、軍制改革にも力を入れ、とにかく全てにおいて改革を断行し、大野藩を莫大な財政赤字から立て直したのです。さらには、将来も見据えており、教育政策は庶民も巻き込み、誰もが教育を受けられるようにと、藩校「明倫館」を開設したのです。

 今の日本に、降臨してくれないだろうか…。

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 一方、さらにお城の近くにあるもう一人の像は、この越前大野城を築城した金森長近です。長近は織田信長の部将で、1575(天正3)年に信長から大野郡の3分の2を与えられ、このお城を築城しています。同時に城下町の建設を進め、今の町割りの基礎は長近が整備したときのものとなっています。

 ちなみに本能寺の変後、長近は豊臣秀吉に仕え、飛騨国を与えられると、大野から飛騨高山へと移り、高山でも城と城下町を整備したとのことです。当時のほうが、この福井・大野と飛騨の距離感が、今よりも近かった…ということなのでしょうか。それとも、たまたま?

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いぜ天守へ…ってこのお城、注目は石垣

 それでは、いざ大野城の天守へと上ってみることにしましょう。まだまだ坂や階段は続きます。大野城はかなり高いところに築城されています。ここで注目すべきは、天守よりも石垣です。

 大野城の石垣は、「野面積み」という古い形式が作られており、16世紀後半のままの姿を今も見せてくれます。この形式は、自然石を加工しないで積み上げたもので、見た目は粗雑ですが、水はけが良く、実際にはとても丈夫な造りと言えるのだそうです。

 時代の流れとともに、これ以降は「打ち込みはぎ」や「切り込みはぎ」といった、石をたがねで加工して、形を整えてから積み上げる工法へと移って行ったそうです。丈夫な造りだったはずなのに、形式として廃れていったのはなぜなのでしょうかね。やはり、どこのお殿様も、石垣の見た目にもこだわるようになったのかもしれません。

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 でもここで、そのエピソードをくつがえす看板が。

「頭上注意・石垣が風化しています。落石に注意して下さい。」

 あれ…丈夫な造りじゃなかったの?いえいえ、さすがに築城430年ですから…無理はありません。

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天守は個人が再建した?

 さて、この石垣は築城当時のままなのですが、天守は戦後建てられたものです。名古屋城のように、第二次世界大戦の戦火で焼失したとかではなく、一度1775(安永4)年に焼失するも再建されたものの、明治時代に入り、不要ということで壊されてしまったのです。その後は、石垣だけが残された状態となっていました。

 しかし、そこへ救世主が。1968(S43)年、武士を先祖にもつ萩原貞という人物の寄付金のよって、鉄筋コンクリート製で復活するのです。しかし、推定再現されたもので、復元再建ではなく、お城の格好をした資料館、というのが正解のようです。それは残念。

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 そんな資料館の内部には、築城した金森氏と、長年大野藩主を務めた土井氏に関する資料が展示されていて、築城430年祭のキャラクターである、うぐぴーとうめぴー、そしてながちかぴーがイラスト、マンガで説明してくれます。あ、長近は「ぴー」の付くキャラクターにはなってないか…。

 この説明が、子どもにもわかりやすいくらいに書かれていて、資料がすっと頭のなかに入ってきます。しかし、予算の関係か、手間の関係か、全ての展示物にはまだイラスト・マンガは配されておらず、中途半端な状態となっていました。そのうち、全部の展示物に付くのですよね…?あれ?もう築城430年祭って始まってるんだよね?

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北陸の?越前の?

 それにしても…静か。

 私たちは普段、平日にこういった場所に取材に訪れることが多いのですが、この日は大型連休のなかの祝日。それを忘れさせてくれるくらいの静けさです。これぞ、北陸の小京都、越前の小京都の風情というべきでしょうか。

 この大野の城下町を表す言葉として、「北陸の小京都」「越前の小京都」という2つの言葉があるのですが、北陸…というと、金沢のイメージが強いですよね。大野市を「北陸の小京都」と呼ぶのは、金沢を差し置いてということになりますから、それはかなり強気と言えるのかも知れません。さすがに、金沢にこの静けさはないでしょうね…逆に。

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それにしても…

 街の中心部を歩いてみても、それにしても静か過ぎます。いや…。これは、島根県や鳥取県に行った時にも感じたことなのですけど、地方の実情というのはこうだということなのでしょう。

 何だかんだ言っても、私たちが普段行動範囲としている東海3県というのは恵まれていて、日本海側の地方都市というのは、いくらイベントを開催していても、連休でも、祝日でも、こういう状態なのですね…。

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岐阜県との間にある壁

 大野城の天守から大野の街並みを見下ろしますと、岐阜県境に広がる山脈が目に入ってきます。九頭竜ではその山の真っ只中だったので逆に実感できませんでしたが、改めて見ると、この山を越えて道路や鉄道を建設することは、そうそう容易いことではないな…と。

 それなりの需要が無ければ、やはりやるべきことではないのかもしれません。電波もこの山を越えることはできず、福井側では岐阜のテレビやラジオも入らず、逆もそうです。

 富山県へは、岐阜県側からも買物に行く人がいるそうですし、愛知県側は言わずもがなです。福井と岐阜の間にある壁は、この山脈の何倍も高い気がしました。

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 岐阜から福井にやってくる際には、油坂峠を越えてきましたが、実はもうひとつ、岐阜県と福井県を結ぶ峠があります。それは「温見峠」。

 温見峠は、地図で見ると、国道157号線が大野市と本巣市を結ぶ格好になっていますが、国道とは名ばかり。すれ違うのもやっとどころか、ガードレールも無く、舗装も危うい状態の、いわゆる「酷道」と呼ばれている、到底実用にはならない道路です。いや、この現実のなかで、道路があるだけでも奇跡的なことか…。ちなみに、同じ福井県と岐阜県の境でも、高山市や関市との間には、道路さえありません。

 この日は、4月末にもかかわらずまだ、温見峠は冬季通行止だったため、その酷道を通って岐阜へと帰ることはできませんでしたが、その温見峠の手前にある、悲しい伝説の残る湖へと行ってみることにします。

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