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今も聞こえる鳥の声

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 今回は地下鉄桜通線桜本町駅から、次の鶴里駅方面へと歩きます。この界隈は南区の北東角に当たり、瑞穂区と天白区の影響を受けています。南区内では最も静かな住宅街といった様相です。比較的新しい住居も建ち並び、整然と区画整理されているようにも見えますが、鳥栖には歴史を語るものが所狭しと配されています。ただ、宅地化によって遺構は消えつつあります。桜本町駅を出て、環状線沿いにある箱舟幼稚園の北側の道を東へと歩きます。箱舟幼稚園はその名のとおり教会に併設されている幼稚園です。そして朝9時から営業しているカラオケ喫茶を越えると、こんもりとした小さな山が見えてきます。

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▲地下鉄桜通線が地下を走る環状線。
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▲桜本町駅横にある箱舟幼稚園と石川病院。
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▲幼稚園の北側の道を歩いていきます。

 その小さな山は古墳です。古墳の手前には南北に塩付街道が走っています。古墳の上には神社が祀られています。鳥栖神明社です。そのため、この古墳は鳥栖神明社古墳と呼ばれています。神社にお参りするには急な階段を登らなくてはなりません。そのためか、拝殿の両側には木製のベンチのようなものが模られています。境内はかなりの樹齢と思われる木々で覆われていて、昼間でも静かです。名鉄桜駅の近くにあった桜神明社も古墳の上に建っていました。南区の東側には古墳がたくさん残されています。鳥栖界隈にはもうひとつ、同じように古墳の上にある神社があります。ちなみに鳥栖は「とす」ではなく「とりす」です。

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▲かなり深い森が登場。
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▲その森は古墳。古墳の上には鳥栖神明社が祀られています。
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▲拝殿にベンチ。作りつけのようです。

 鳥栖神明社の北側の道を東に歩き、鳥栖のヒイラギと呼ばれる木のある角を北に曲がって少し歩くと医王寺があります。戦国時代、ここには新屋敷西城がありました。城主は山口新太郎と伝えられていますが、詳しいことはわかっていません。1878(M11)年までこの界隈は新屋敷村と呼ばれ、その名を地名に残していました。かつては城址の名残があったそうですが、今は案内看板にその事実が記載されているのみです。

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▲曲がる目印、鳥栖のヒイラギ。
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▲新屋敷西城のあった医王寺。
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▲医王寺本堂。城跡であることを示すのは看板のみ。

 再び鳥栖のヒイラギまで戻り、そこから東に歩くと参道が藤棚で覆われた成道寺があります。こちらも城址に建つお寺で、ここは取隅城、後の鳥栖城址と伝えられています。先程の新屋敷西寺とわずか150メートルほどしか離れていません。どちらのお城に力があったのか気になります。常に火花が散っていたのかな。この成道寺には名古屋市内最古の石仏が安置されています。座像と立像の二体です。かつてはお寺の墓地に置かれていたそうです。そのうち一体に「鳥住伝心浄本庵主、永正十二乙亥正月十二日」と刻まれています。永正12年とは1515年。約500年前に作られたものです。この石仏は鳥栖城城主、成田公夫妻の墓碑と伝えられています。

 鳥栖城は安永の頃(1772-1781)、城主だった成田甚右衛門が禄を返上して農民となり、廃城となっています。先程の石仏に刻まれた文字のうち「鳥住」は、当時のこのあたりの地名を指していて、現在の鳥栖の由来となっています。新屋敷西城と鳥栖城の勝負、地名を現在に残しているという点で鳥栖城の勝ち。まあ、無理に戦わせることは無いですね。新屋敷とは、農民の出屋敷に由来すると言われています。その屋敷は残されていません。でも「鳥住」の由来は今も残されているのです。

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▲山門前に藤棚のある成道寺。
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▲成道寺本堂。本堂へは裏の駐車場からも入れます。
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▲山門横には他にも石仏が並んでいます。

 成道寺のすぐ東側には、先程の鳥栖神明社よりも大きな古墳の上に祀られた鳥栖八剣社があります。こちらはかなり急な階段になっているためか、ふもとにも賽銭箱が用意してあります。この時も、ふもとでお年寄りが手を合わせてお参りをしていました。確かにお年寄りがこの階段を登るのは、ちょっときついかもしれません。八剣社の拝殿にもやはりベンチのようなものが作られています。ちょっと一休みしたいところですが、拝殿の中で座って良いものでしたっけ。

 ここは古墳の森の中にも入ることができます。子どもの頃だったら思わず探検したくなるような、そんな雰囲気があります。鳥のさえずりも聞こえます。現在も残されている「鳥住」を由来とする地名「鳥栖」。その地名はまだ形骸化していません。

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▲神明社よりもさらに階段が急な鳥栖八剣社。
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▲ようやく登りきると、やはり拝殿にはベンチが。
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▲ちょっとした探検ができそうな森。

 鳥栖八剣社から南に300メートルほど歩くと、このあたりでは鯛取通と呼ばれている東海通に出ます。鯛取通には桜本町の次の駅である地下鉄桜通線鶴里駅があります。鳥栖に鳥がいるということは、鶴里に鶴は…もちろんいません。鶴里の次は天白区の野並駅。桜通線の終点です。その鶴里駅の西側にある交差点から、南に坂を登るとかなり大きなクスノキが見えます。そして地名も楠町になります。

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▲鶴里駅前。鶴はさすがにいない。当たり前です。

 クスノキは村上社の境内にあります。全体を写真に収めようとしても、周囲は住宅街で引くに引けず、写真に入りきらないほどの大きさです。根回りは約13.2メートル、地上1.5メートルの幹回りは約1.8メートル。高さは何と20メートルです。枝張りも南北に約20メートル、東西には約22メートルにも及びます。このクスノキは1987(S62)年、名古屋市天然記念物に指定されています。樹齢は1000年程と言われています。圧倒されます。かつては船が航行する際に目印にしていたとか。

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▲村上社のクスノキ。写真に入りきらない。
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▲クスノキと寄り添うようにお社が。
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▲別の角度から。やっぱり入りきらないほど大きい。

 村上社を越えると道路は下り坂になります。下りきった角を右に曲がると桜台高校につきあたるので、そこを左折します。すると左手に八幡神社があります。ここには時代の違うふたつのエピソードが残されています。八幡社がいつ創建されたかは不明ですが、八幡社ができる前の貝塚が残されています。それは弥生時代後期から古墳時代にかけてのもので、ハマグリ、アサリ、カキなどの貝殻で構成されています。結構いいもの食べていたんですね。貝塚は幅約3メートル、深さは2.5から3メートルの溝の中に形成されていて、弥生時代後期の土器が数多く採集されています。そのなかにあった魚形土器は全国的にも珍しく、名古屋市指定文化財となっています。

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▲二つの顔を持つ八幡神社。
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▲桜田貝塚があることを示す石碑。魚型土器は市博物館に。
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▲県民俗無形文化財指定の「神影流・櫻棒の手」発祥の地でもあります。

 そしてもうひとつ、ここはかつて見晴らしの良い場所として有名でした。その景色は万葉集に歌われています。

「桜田へ 鶴鳴き渡る 年魚市潟 潮干にけらし 鶴鳴き渡る」

 この歌は年魚市潟勝景跡の白毫寺でも紹介しました。年魚市潟自体の景色はあちらの方が見渡せたと思われますが、桜田、つまり桜村の田んぼはこのあたりの光景を指します。そのためこの八幡神社の場所は「桜田勝景跡」と呼ばれています。この高市黒人の歌の歌碑が八幡神社の境内にあります。

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▲万葉集「あゆち潟」の碑もあります。

 このあたりは車で走り抜けると、ただの静かな住宅街にしか見えません。そんな住宅街のなかに城址やかつての勝景跡、貝塚がびっしりとあるのです。そしてこの先には、車からも見えるほどの大きな遺跡がありますので、さらに南へと歩きます。

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