三重県と言いますと、お伊勢さんを中心に県民意識の高い県という印象があります。中心の津や伊勢から離れている地域を見ても、名古屋に近い北勢地域でもイントネーションは完全に名古屋と違って三重ことばですし、比較的大阪に近い伊賀上野でも、上野城と津藩の初代藩主・藤堂高虎との繋がりが深いためか、いかにも三重という雰囲気があります。
しかし、その伊賀市の隣にある名張市だけは空気が違います。高度経済成長期に大阪のベッドタウンとして開発されたという経緯があるため、大阪志向が高いのはもちろんですが、それだけとは思えません。そこで今回は、名張の昔からの市街地である中心部を歩いてみました。そこには、相続争いと冷遇の末の開発という歴史が…。
藤堂家は藤堂家だけど…
近鉄大阪線名張駅、その西口から北西方向へと歩き、消防署を左に曲がりますと、小高く丘になっている場所があります。現在は名張小学校や名張中学校が大部分を占めていますが、その丘全体が「名張城跡」であったとされる場所です。
ほとんどが学校となっているのですが、現在も当時の面影を残しているものがあります。それが小学校の向かいにある「名張藤堂家邸跡」です。
名張藤堂家邸は、1636(寛永13)年に藤堂高吉の屋敷として建てられたもので、1710(宝永7)年の名張大火で焼失、再建されたものの、さらに明治に入ると取り壊されてしまい、現在では往時の20分の1という規模でしか残されていませんが、1991(H3)年に今は東京に住む名張藤堂家から、「豊臣秀吉朱印状」「鉄唐冠形兜・一の谷形兜」「朱具足」「備前無銘刀」「藤堂高吉公一代記」「羽柴秀吉・丹羽長秀の書筒」が寄贈されていて、一般公開されています。(200円)
でも、名張藤堂家ということは、津藩藤堂家の一門というわけで、津との関係は親戚筋になるから、津と名張のつながりも深いんじゃないの?と思ってしまうところですが、名張藤堂家の始まりである藤堂高吉、彼は養子だったのです。しかも、当初は藤堂高虎の後継ぎとして迎えられたはずなのに…。
できちゃったんですか!ああ…
藤堂高吉は、織田氏の家臣であった丹羽長秀の三男として生まれ、幼名を「仙丸」と言いました。仙丸は、豊臣(羽柴)秀吉の命により、秀吉の弟である秀長の後継ぎとして養子に入ります。しかし秀吉は気が変わり、甥の秀保を秀長の後継ぎにしようとし、仙丸を家来に嫁がせようとします。ところが、秀長は仙丸のことを気に入っており、この仙丸の扱いをめぐって秀吉と秀長は対立します。
しかし結局、秀吉の命により、仙丸は秀長の家来であった藤堂高虎の養子となり、藤堂高吉と名乗ることとなります。このとき、高虎には実子が無く、後継ぎとして迎えられました。関ヶ原の戦いでも高虎と高吉は一緒に東軍として戦い、活躍を認められた高虎は愛媛の今治城主となり、城下に高吉も屋敷を構えます。
ところがその翌年、高虎に実子高次が生まれると高虎は手のひら返し。高虎は津藩の初代藩主となり、高吉はそのまま今治に残ることとなるのですが、高虎は、高吉の参勤交代も認めませんでした。もちろん、高虎が家督を継がせたのは実子の高次でした。
そして高虎が亡くなると、高吉は高次の家臣となり、今治から伊勢へと左遷され、さらにはこの伊賀国名張に左遷され、名張藤堂家の祖となるのです。
そんな藤堂高吉を祀っているのが、名張藤堂家邸跡のすぐ西側にある寿栄神社です。
でも高吉は頑張った
どう考えてもこの名張の地への移封は左遷なのですが、それでも高吉はめげることなく、今治にいた頃からの家臣や商人、職人らをこの名張の地へと集め、城下町としての本格的な体制を作ったのです。いわば、現在の名張の発展があるのも、この藤堂高吉のおかげと言えるのです。
寿栄神社には、江戸時代後期のものと伝えられる名張藤堂家伝来の「具足」と、戦国時代のものといわれる「備前長船の刀剣」が所蔵されています。
そして神社の門として1935(S10)年に移築されたのが通称「太鼓門」と呼ばれる、名張藤堂家邸の旧正門です。かつては現在の小学校校庭の位置にあったもので、三重県指定史跡となっています。
発展に礎は対立の礎?
現在の太鼓門がある場所から風景を眺めてみますと、名張の城下町を一望することができ、さらに周囲を見渡すといかに名張藤堂家邸が広大な敷地にあったのかがよくわかります。実はこの地形も、攻撃を防ぐための意図的なものとのこと。
今では「中奥」「祝間」「圍」など奥住居の一部と桃山式枯山水の庭園が残っているだけですが、この当時の上級武家屋敷が残っているのは全国的にも珍しいのだそうです。
藤堂高吉は1670(寛文10)年に92歳で亡くなるのですが、その後も享保の時代まで、藤堂家本家と名張藤堂家の対立は続きます。
名張の発展の礎を気づいた藤堂高吉。しかし、その高吉と高虎の間にあった手のひら返しと、高次からの冷遇。このあたりに、津と名張の微妙な温度差の根源があるのでしょうね…。
犠牲は忍者だけではなかった
せっかくなので、名張藤堂家邸跡を歩いてみます。今では大部分が学校や保育園などに姿を変えているのですが、名張小学校の南側に赤い鳥居と祠、そして石塔が建てられています。実はこれ「無縁萬霊塔」。
1579(天正7)年、伊賀流忍者の一人が裏切り行為を行います。伊賀忍者の団結力が衰えだしたことを織田軍に密告し、侵略を進言するのです。織田軍は即座に攻略へと向かいます。「天正伊賀の乱」です。
当初は織田軍が劣勢となるのですが、信長が本気を出すと、名張の柏原城は最後の防戦地となり、寺社は焼かれ、忍者だけでなく多くの村人が命を失いました。その頃のものと思われる無縁塔や石仏がこの周囲一面からたくさん発掘されたものの、今更誰も弔う人がいないのはあまりにも寂しいということから、1954(S29)年にこの地に集められ無縁萬霊塔として建立されたものなのです。
名張というとあまり忍者のイメージは無かったのですが、同じ伊賀ですものね。こういった悲しい歴史も残されているのです。
では城下町・宿場町風情へ
それでは、名張藤堂家邸跡を後にして、城下町そして宿場町として栄えた市街地へと降りていってみましょう。名張小学校から南西へと坂を下っていきますと、総合福祉センター「ふれあい」の角に大きな道標があります。
そしてその先にはまるで水路のような城下川が流れていて、大手橋を渡ると旧「初瀬街道」です。初瀬街道は、伊勢街道から松阪市六軒で分岐して、青山峠を越えてこの名張へと繋がり、さらに奈良の初瀬へと繋がっていました。
このブログで以前「いつきのみや歴史体験館」のところで紹介しました、かつて飛鳥奈良時代から南北朝時代まで、天皇に代わって伊勢神宮に仕えた「斎王」が通ったのもこの道と伝えられています。
今回は、名張の発展の礎が手のひら返しと冷遇の末のものだったですとか、かつて壮絶な戦場となった場所であったですとか、どちらかといいますと暗い話ばかりになってしまいましたので、次回は城下町・宿場町風情を味わうことで、明るい話にしたいな…と思いながら散策を始めたのですが、さらに気分は…。
というわけで、初瀬街道名張宿探訪はまた次回です。
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