14.天白区 名古屋を歩こう

時を越えて再び交通の要衝に

記事公開日:2006年3月27日 更新日:

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 地図を見ますと、名古屋市農業センターの北側には針名神社と秋葉山があり、山の山頂には慈眼寺があります。しかし道が入り組んでいてよくわからないので注意して歩きます。農業センターの入口の北方向へ、緑地に沿って細い道路が続いているので歩いていきます。しばらくすると道路がY字型になるので、それを左方向へと歩き、十字路を左折すると針名神社があります。本当に森が深く、迷ったら行き倒れてしまいそうな雰囲気ですが、この針名神社は車の御祓いもやっているほどで、実は反対側の西側からはそれなりに太い道路が繋がっていて、大駐車場もあります。

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▲行き止まり...。この道じゃない...。
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▲また行き止まり...。この道でもない...。
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▲ようやく見つけました。針名神社です。

 針名神社の創建は不明ですが、延喜年間(901~922)に作成された「延喜神名帳」に従三位針名天神と記載されているところから、それ以前と考えられています。当初は800メートルほど北にあったのですが、慶長年間(1596-1615)に周辺の集落とともに現在地へと遷されました。この神社は、尾治(尾張)氏の末裔であり、尾張の国を支配していた尾治の針名根連の命を祀っています。また、大巳貴命、少彦名命を併神としていて、1909(M42)年には八幡社を合祀しています。この針名神社のまわりの森にはたくさんの生物が生息しており、毎月第1土曜日には自然観察会も開かれています。ちなみに犬山市には針名根の命と、その父である尾綱根の命を祀る針綱神社があります。由緒とは関係ないですけど、やはり平針にある神社だけに、交通安全をしっかりお祈りしておきました。車の御祓いも行われていますし、ご利益はあると信じています。

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▲深い森を抜けると門が現れます。本殿はさらに奥です。
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▲こちらは針名神社の本殿です。
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▲車の御祓いをここで受けることができます。

 針名神社から秋葉山を登って慈眼寺へと歩きます。車は通れないような細い道路です。車の方は平針交差点側から入ることができます。すると道中に太平洋戦争戦没者慰霊碑などがあります。ここには明治から昭和にかけて戦争に従軍した人々の忠魂碑が建てられています。毎年4月に慰霊祭が行われているとのことです。そして森の中をアスファルトで舗装された坂を登って行くと、急にあたりが開けます。慈眼寺です。

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▲戦没者の忠魂碑です。白いのが太平洋戦争戦没者慰霊碑です。
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▲森の中、アルファルトの坂を登っていきます。

 809(大同4)年に京都御所が炎上した際、鎮火祈願のために遠州秋葉山の三尺坊尊は京へ向かいました。その帰りにここへ立ち寄って「鎮防火燭」の真筆を残しました。それによりこの慈眼寺は建立されたと伝えられています。1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの際には、織田信長がこの慈眼寺に祈願しました。そして勝利を収めたことから、信長は三尺坊尊の尊像を寄進したとも伝えられています。幕末から明治にかけては修験霊場として信仰を集め、現在も毎年12月16日午後6時に火渡り神事が行われています。神仏習合の姿を現在も残しています。

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▲慈眼寺の入口です。さらに坂を登ります。
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▲登りきるとそこに慈眼寺の本堂が。
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▲この場所で毎年火渡り神事が行われます。

 本堂にはふたつの太鼓があります。まずは一見太鼓には見えない真四角の「開運大たいこ」です。太鼓の前には福豆が置かれています。開運大たいこを3回打って、年の数だけ祈念しながら三宝へと豆を移します。すると「福は内、鬼は外」というわけで、厄除け、入学成就、家内安全などにご利益があるそうです。四角いのは「家の四隅を払う」という意味があるとのこと。そしてもうひとつは普通の太鼓。こちらは「大たいこ」です。太鼓の前には黒豆が置かれています。こちらも大たいこを3回打って、黒豆を自分の年の数だけ祈念しながら三宝へと移します。するとその年は「マメで黒字になる」というご利益があるそうです。年の数だけ豆を移すということは、年を重ねた人ほど祈念をする時間が長くなるということですね。確かに、年を重ねるほどお金が要りますものね。お金だけでなく、教養や心も愛も、黒字な人生になりますように...。欲張りでしょうか。

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▲開運大たいこです。3回打って豆を移します。
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▲こちらが大たいこ。こちらも3回打ちましょう。
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▲黒豆を移します。黒字になるにはマメでないといけないということですね。

 慈眼寺の参道を北側に歩いてお寺を後にします。この参道には藤棚としだれ梅、ぼたん桜の並木があり、折々で綺麗な風景を目にすることができます。そして慈眼寺の北側を左右に横切る道路が旧平針街道です。現在は平針駅のすぐ南側を走る片側2車線の道路が平針街道と呼ばれていますが、かつてはこちらの細い道路が平針街道でした。

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▲参道にずらりと並ぶしだれ梅の木。春は美しいことでしょう。
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▲慈眼寺の北側入口です。こちらからの方が迷いません。
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▲現代の平針街道。片側2車線で交通量があります。

 平針街道は1612(慶長17)年に徳川家康の命によって造られたもので、岡崎から名古屋城への近道としての役割を担っていました。開通の際、人馬の継場が必要であったことから、16軒の農家に移転を命じて、街道沿いに住まわせました。平針街道は東海道に対して「姫街道」「脇街道」とも呼ばれ、街道の両側には松並木が続いていました。しかし太平洋戦争中に船の材料などとして伐採されてしまい、今はその面影を見ることはできません。後に足助街道や熱田街道と交わる交通の要所として発展。本陣や脇本陣が設けられるほどの宿場街として賑わったそうです。

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▲旧平針街道。今はもうその面影はほとんどありません。

 平針街道を西へと歩き、地下鉄平針駅から南下する道路との交差点近くに、秀伝寺というお寺があります。このお寺は1498(明応2)年に僧宗栄によって創建されました。しかし1588(文禄元)年の冬に焼失し、廃寺となってしまうのですが、その後1612(慶長17)年に徳川家康の命によって日進村の龍谷寺から満嶺徳充和尚を招いて再興されました。本尊の釈迦牟尼仏は1725(享保10)年に造られたものだそうです。ちなみに、山門近くに蛙の石像があるのですが、この蛙が丸っこくてとってもかわいらしかったです。

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▲徳川家康の命によって再興された秀伝寺。
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▲かわいらしいと言ったら失礼でしょうか。

 平針街道はその先の平針西口交差点で、現在の平針街道と合流し、名古屋城へと続いています。平針街道には松並木も宿場街を思い起こさせるものもほとんど残されていません。御獄神社くらいでしょうか。現在、この平針街道で国道302号は行き止まりとなっていて、その先は草むらになっています。その行き止まり地点にある、草むらに似合わない円形のやたら立派な歩道橋は、国道と合わせて作られている東名阪自動車道が開通する頃、周囲の風景に馴染むことでしょう。再びこの平針が、交通の要衝になる時が間もなくやってきます。

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▲旧平針街道沿いにある御獄神社。
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▲草むらの中を仮の道路が走る、国道302号線予定地。将来は高速道路も。
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▲現在は歩道橋だけがやたら立派に見えます。近い将来道路も立派に。

 天白区、それはまるで20年ほど前の名東区を見ているかのようでした。近い将来大きく変わることでしょう。続いては、私の生まれ故郷であるその名東区へと足を進めます。

>>名東区へ続く


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