西区[1] 那古野
元禄に作られた土蔵が並ぶ-四間道・浅間神社
地下鉄桜通線国際センター駅で下車し、堀川沿いを北へしばらく歩くと西区に入ります。そこにはかつての城下町風情が残されています。この城下町、自然発生したわけではなく意図的に作られたものなのです。
名古屋城のところでも触れましたが、家康は清須(現在の清州)から名古屋への遷府を行い、名古屋城を築城しました。その際に清須からあらゆるものをこの地に移したのが「清須越し」です。移されたのは神社・仏閣だけではなく、城下町が造成されると、それまで清須にあった地名までもがこの地に移されたのです。
▲四間道界隈です。他の都市ならうまく観光地化してそう…
区画整理が行われるまでは、当時の由緒ある地名を残していたのですが、現在は信号交差点や公園の名前に残されているのみです。後ほどご紹介します、明道町や鷹匠町といった名前も地名には残されていません。
さて、堀川沿いの中村区と西区の境にあるのが中橋です。ここからは「四間道」という土蔵造りの建物が並ぶ通りです。その入口となる中橋のたもとには浅間神社があります。
この神社の創建は不明ですが、木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)を祀った古社です。この地に移ってきたのは1647(正保4)年と「尾張誌」に記録されています。境内には当時からのクスノキやケヤキが計7本あり、保存樹に指定されています。
▲中橋にある浅間神社です。樹齢300年を越す木々に囲まれています
松坂屋の伊藤家と区別するために川をつけた-那古野界隈・川伊藤家
この浅間神社の向かいに土蔵造りの建物があるのですが、どうやらお店のようです。「那古野茶龍」と書いて「ナゴノサロン」と読みます。土蔵造りのダイニングカフェで、この時はランチタイムということもあり大変賑わっていました。日本好きな外国人の方を連れて行ったら喜ばれそうです。
▲ダイニングカフェ・那古野茶龍。古い蔵を改築してあります
では、そこから四間道を歩きます。この地は清須越し以降、商家が軒を連ねるようになりました。堀川の水運を利用して米穀、塩、味噌、酒、薪炭などをここから城下に供給していました。
しかし1700(元禄13)年、大火があり一帯は消失してしまいます。その教訓から尾張藩は約40年の歳月を費やし、道を四間(約7メートル)に拡張、そしてその道の東側すべてを全部土蔵造りとしたのです。四間道の名の由来はそこにあります。
川伊藤と呼ばれた当時の商家「伊藤家」も木造瓦葺きの住宅とともに土蔵が残されています。土蔵は防火壁の役割も持たせてあり、幸運にも戦火で焼失することなく現在も当時の面影が残されています。
では、少しわかりにくいのですが那古野1丁目33番地の角を左に曲がります。伊藤商店と伊藤家の間の路地に入る形となります。このあたりは今でも伊藤さんが多いようです。
▲堀川に沿って土蔵が並びます。このあたりが伊藤家
神さまを家に呼んじゃった-屋根神さま
すると、二階に社のミニチュアのようなものがつけられた長屋がありました。「屋根神さま」です。その屋根神さまを右に曲がると子守地蔵尊があります。お祈りをしていると地元の方に声をかけられました。この界隈の街並みを見ていること話すと、屋根神さまの資料を下さり説明をしていただけました。
▲ここを左に行くと子守地蔵尊。二階に屋根神さまがいます
屋根神さまは名古屋独特なもので、幕末頃から祀られるようになったものです。ほとんどは三神が祀られています。津島神社、秋葉神社、熱田神宮が多く、なかには伊勢神宮や国府宮を祀っているものもあります。
当初は疾病流行の恐怖から身を守るために天王信仰が起こり津島神社のみが祀られ、続いてこの地にあった大火から、火ぶせ(防)の神である秋葉神社が、さらに明治時代に入り日清・日露戦争への出征兵士の無事を祈って熱田神宮を祀るようになったそうです。
▲この社が屋根神さま。この日、飾りつけはされていませんでした
神社へお参りするときだけでなく、庶民の生活を普段から守って欲しい、そして常にお参りができるようにと祀られたのが屋根神さまです。現在でも西区のあちこちに残されていますが、建物の取り壊しとともに数は年々減少しているそうです。
なかには建物が焼失してしまい、屋根神さまだけが地面に残されているところもあります。普段は扉が閉められているところも多いですが、毎月1・15日の月次(つきなみ)祭の際には提灯などが飾られます。
ここ掘れと言ったお地蔵さん-子守地蔵尊・旧芸者街
そして、その路地の奥に祀られているのが子守地蔵尊です。このお地蔵さんはもともとここにあったわけではありません。1858(安政5)年頃、井戸水をくみ上げるため現在のお堂の20メートルほど南、今のマンホールの少し北側に井戸を掘っていたところ、地中から30センチほどのお地蔵さまが出てきたのです。
お地蔵さまには1710(宝永7)年という刻銘があり、発見より150年も前に作られたことになります。かつて、庄内川が氾濫して洪水となったときに上流からこの地に流れてきて埋もれてしまったと推測されています。
たった30センチのお地蔵さまが、たまたま掘った場所から出てきたのは、お地蔵さまにあった、ここを掘って祀って欲しいという意志がそうさせたのだと信じられており、1895(M28)年には現在の御堂が建設され今も大切にされています。
▲子守地蔵尊です。地中から甦ったという生命力にあやかりたい
このお地蔵さまのある路地には、入口の扉に「いとう」と名前が彫られた家があります。そこにはガラスがはめ込まれており、扉が表札代わりとなっています。
実はこれ、ここには芸者がいますよ、という表札で、これを見て扉を叩くという仕組みだったそうです。かつてこの地は名古屋一の芸者街だったそうなのですが、現在はこういった面影が残るのみです。
▲こちらが表札代わりの「いとう」。昔は芸者さんが沢山歩いていたのでしょう
この他にも、庄内川の両岸の歴史、小田井人足の由来、洗堰緑地や庄内緑地公園の興味深いお話を聞くことができましたので、その都度ご紹介させていただきたいと思います。本当にいろいろとご親切にありがとうございました。
お名前は教えていただけませんでしたが、たぶん伊藤さんだと思います。このあたり本当に伊藤さんの家ばかりでしたから…。
橋のたもとにも神さまを-五条橋
では、四間道を北へと歩きます。すると円頓寺商店街の入口とぶつかります。そしてその右側が五条橋です。五条橋も、もともとは清須城の横にあった橋の名で、清須越しの際にこの地に名前が移ってきたのですが、実際に清須の橋から一部橋材を移築したとのこと。
▲五条橋のたもとにある屋根神さま。もとは長屋の二階にあったそうです
家康は細かかったのですね。よほど清須を気に入っていて、そのまま名古屋に清須の風情を移したかったのでしょう。
▲五条橋。コンクリート舗装と言っても昭和初期ですからこんな感じです
そしてその五条橋は、1938(S13)年に現在のコンクリート製に架け替えられているのですが、その前の木製橋にあった擬宝珠は今も名古屋城に保管されています。コンクリート製ではありますが昭和初期建造であり、充分歴史を感じさせます。また、橋のたもとには屋根神さまがあり、橋を守っています。
▲四間道から少し外れても、那古野界隈は古い街並みが残ります
那古野には城下町が今も当時のまま残されています。しかしそれほど観光地化されておらず、街を歩いている人は皆無でした。
先ほども書きましたが、これは歴史的にも重要な街並みですし、充分観光として楽しめます。ぜひとも名古屋在住の外国人の方を連れて行きたいところです。あまり知られていないのが残念でなりません。観光の際には、当時の建物そのままで営業している喫茶店で休憩されてはいかがでしょうか。
▲こちらは昔の建物をそのまま使っている喫茶店
ただ、やはりここは名古屋。当時は広いとされた四間(7メートル)も、車がすれ違うには少し狭く感じます。にもかかわらず、両側から車がビュンビュン通るので、散策は気をつけてくださいね。名古屋っ子はスピード緩めませんから。
では、かつての城下の盛り場へと向かいましょう。
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