12.南区 名古屋を歩こう

その名前を由来とする地名とは

記事公開日:2005年6月21日 更新日:

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 熊野三社から旧東海道を南へと歩きます。熊野三社の鳥居の横には、宿駅制度制定400年を記念して、「東海道」という記念碑が2001(H13)年に建てられています。記念碑には旧東海道を示す簡単な図が書かれており、熊野三社のあるあたりがかつて急だった「山崎の坂」で、南には鎌倉街道、塩付街道が交差していることがわかります。旧東海道を歩き、数百年前からある街道の交差点をたどってみます。

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▲熊野三社の西の鳥居が東海道に面しています。
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▲宿駅制度400年を記念して建てられた記念碑。
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▲かつての街道も今は静かな路地。

 旧東海道は当時のままの道幅なのか、決して広い道路とは言えません。一見、どこかの住宅街の普通の路地に見えてしまいます。次の信号交差点の角にあるコンビニエンスストアは閉店してしまっており、旧街道の賑わいもありません。しかし、よく見ると旧東海道であることを示すものが配されています。まずは地面。地面には「東海道」と書かれ、たくさんの松が並ぶ間を通る道の絵が描かれたパネルが埋め込まれています。さらに、東海道と鎌倉街道が交差している角には道標があります。でもこの道標。どう見ても新しいので、先ほどの記念碑と同時期に設置されたものではないかと推測します。ではそんな昔からある街道交差点から、鎌倉街道を東方面に歩いてみます。

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▲地面を見ると東海道を示すパネル。かつてはこんな松並木が。
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▲東海道と鎌倉街道の交差を示す道標。こちらも宿駅制度400年を記念して。

 鎌倉街道は旧東海道よりも細く、軽自動車もすれ違えるかどうかと言った様相です。当時のままの道幅なのでしょう。すると大きな地蔵堂があります。湯浴地蔵(地蔵院)です。お湯で地蔵を洗って願いごとをしたことから湯浴地蔵と呼ばれています。鉄地蔵という別名もあります。お湯を浴びるというお地蔵さんも変わっていますが、この地蔵堂の前にはカエルが徳利の上に乗っている石像があります。それが私は気になって仕方がありません。しかもカエルは徳利の蓋を抑えているかのようです。お酒は控えめにってことなのかな。この先、東海道を歩いていくと笠寺宿近くにカエルにまつわるエピソードがあります。このカエルはそれに由来しているのかもしれません。カエルのお話は笠寺宿編で。

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▲鎌倉街道は東海道よりも細い。
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▲お湯でお地蔵さんを洗った湯浴地蔵のある地蔵堂。
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▲カエルと徳利。

 鎌倉街道にはこの先、幼稚園のある黄竜寺があり、名鉄名古屋本線が横切っています。その踏切は車幅1.7メートルを越える自動車は通行禁止となっていますのでお気をつけ下さい。なぜ規制しているのか、歩行者の安全性確保とかそういうことではなく、たぶん物理的にそれ以上の大きさの車が通らない幅になっているのでしょう。時折大きな音を立てて、赤い電車が走っていきます。

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▲黄竜寺のマハヤナ幼稚園からは子どもの元気な声が。
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▲車幅1.7メートルって結構厳しいですね。
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▲標識の通り、鎌倉街道はどんどん細くなります。

 では、今度は鎌倉街道を西へと歩きましょう。やはりこちらも道路は細く、「止まれ」の文字がやたらと大きく見えます。もちろんそれは目の錯覚で、道路がそれだけ細いのです。さすがに車の行き来はそんなにありません。するとたくさんの緑に覆われたお寺が見えてきます。白毫寺です。白毫寺は山の上にあり、お寺の向こうは断崖になっています。源頼朝が鎌倉街道を京都へ向かう途中、この山で休んだために桟敷山という名がついていますが、もっと有名な別名があります。さて、このお寺は1571(元亀2)年の創建と伝えられていて、境内には芭蕉の句碑をはじめ歌碑などが複数あります。なぜこのお寺では歌がよく詠まれたのでしょうか。実はここ、かつては景色が綺麗な場所としてとても有名だったのです。昔、熱田から鳴海にかけて海辺が湾入していて、さらにその遠浅の海岸は知多へと繋がっていました。ここからはそれらが一望できたのです。

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▲今度は鎌倉街道を西へ。
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▲「止まれ」の文字が大きいわけではありません。
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▲年魚市潟勝景跡の石碑が建つ白毫寺。

 万葉の歌にも歌われ、歌枕として有名な地です。1973(S48)年には名勝展望地として名古屋市の指定を受けています。その、熱田から鳴海にかけて続いていた海岸は「年魚市潟(あゆちがた)」と呼ばれ、ここは「年魚市潟勝景跡」と呼ばれています。この「あゆち」がある地名の由来となっています。そうです。「あゆち」は「あいち」に転じ、今は県の名前として「愛知」という漢字を当てられています。

「桜田へ田鶴(たず)鳴き渡るあゆちがた汐干にけらしたず鳴き渡る」

「あゆちがたしほひにけらし知多の浦に朝こぐ舟もおきによる見る」

 万葉集に歌われている年魚市潟です。余程美しい景色が広がっていたのでしょうね。その、あゆちから転じたあいちに、「知を愛する」という字を当てているあたりにも、センスを感じますね。ただ、年魚市潟はそれほど広い範囲をさす地名ではないので、県名にするにはどうかという気もしますが、逆にそれは、県を代表するほど景色が美しい場所だったという証拠かもしれません。今はもちろん海岸は見えません。

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▲白毫寺の山門。この先にかつては絶景が。

 ただ、白毫寺の先は断崖になっているのは今も変わらず、お寺の向こうに下るにはかなりの急坂を下らなければなりません。その急坂は細く、二輪車と歩行者しか通行することはできません。歩くにも足を取られます。うわー怖いなあと思つつも坂を下りきりました。振り返って、交通規制標識を良く見ると「二輪車を除いて通行不可」となっていました。歩行者も歩いてはいけないってことだったのでしょうか。私、違反ですかね?

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▲白毫寺の横は急坂。
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▲この標識はこういう使い方でいいのかな?
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▲白毫寺の裏側はこんな断崖になっています。

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