おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第42回
名古屋をテーマにしたご当地ソング、前回は1976(S51)年に発売された「名古屋っ子/無有」までをご紹介しました。石原裕次郎さんを起用すれども売れず、若手アーティストの歌も売れず、名古屋のご当地ソングはどうやっても売れないという定説がレコード業界で広まったのか、名古屋の歌はパタリと発売されなくなってしまいました。
とうとう作られなくなった名古屋の歌
その状態に風穴を開けたのがオリンピックです。名古屋が1988(S63)年のオリンピック誘致活動に乗り出すと、1981(S56)年「名古屋オリンピック音頭/川崎英世・小林真由美」が発売されました。時代背景もあるのでしょうが、オリンピックで「音頭」という感覚がいかにも名古屋らしいといいますか、これでは垢抜けません。
それどころかオリンピックが逃げてしまう気がします。と思っていたら実際にソウルへとオリンピックは逃げてしまい、この歌は名古屋の黒歴史になってしまいました。
この年、1971(S46)年に神戸一郎さんが歌った「なごやブルース」がリメイクされ、天知茂さんの歌で発売されます。このなごやブルースは今でも歌い継がれていて、その後も城ゆきさん、ハニーシークレッツ、最近ではロス・プリモスさんと真咲よう子さんがデュエットで2000(H12)年に発売しています。
名古屋のカラオケ愛好家に歌われているご当地ソングとしては、この曲が一番メジャーなのかもしれません。このリメイクを除き、いよいよレコード会社の名古屋離れは本格的なものになり名古屋をテーマにした新曲を見ることはできなくなってしまいました。
レコード会社が作らないのなら
そこで立ち上がったのが行政です。愛知県・名古屋市・NHK名古屋放送局などが共同で愛知県および名古屋をテーマにしたご当地ソングを作ろうということで、「愛知・名古屋マイソング」という公募によるご当地ソング製作コンクールを1984(S59)年開催しました。
第1回の最優秀賞は「みんな名古屋で」。この歌は地元出身のチェリッシュに歌われ、NHKのローカル放送で頻繁に流され、全国ネットの「みんなのうた」でも申し訳程度に流されました。レコードももちろん発売されましたが残念ながらヒットには繋がりませんでした。
「♪遠い夢を追いかけて、旅立ってしまっても、きっと帰っておいでよ、みんな名古屋で待ってる~。」という歌詞は、名古屋を離れ東京で一人頑張る名古屋っ子に対して歌われたもので、「叶いもしない夢、夢、夢、言って東京なんかに住んどらんと、夢よりも現実を見て名古屋に帰って堅実な生活をしよまい。」と、東京で頑張っている名古屋っ子をわざわざ引き戻そうというものでした。
毎年開催された愛知・名古屋マイソングでしたが…
愛知・名古屋マイソングはその後も毎年公募が行われ、1985(S60)年は名古屋に転校してきた少年の目線で歌われ「♪名古屋の仲間に僕も入れてもらったよ~」という衝撃的な歌詞が印象的だった「拝啓、ここは名古屋です/川崎少年民謡隊」が。
1986(S61)年は「♪お久しぶりだね、ヘイ名古屋。今日からは生まれ故郷ここで暮らすの~。」と、前々年のチェリッシュの歌を聞かされ夢をあきらめさせられ、東京から戻ってきた名古屋っ子のことを歌った「おひさしぶりだねナゴヤ/さとう宗幸・石川ひとみ」が。
1987(S62)年は「♪お母さん聞いてください、私名古屋に嫁いでいきます~。」という、他地域の親が娘に一番言われたくない歌詞を歌った「わたしの名古屋/水谷麻里」がそれぞれ最優秀賞を受賞しました。
この年は優秀賞に輝いた「あなたの街名古屋/きくち寛」も1989(H元)年の世界デザイン博キャンペーンソングに採用されました、しかし、どれも名古屋っ子でさえも記憶にあまり残っていない曲ばかりです。私は物好きなので全て記憶にありますけどね。どれかひとつでも口ずさめる曲はありますか?
この4年間の受賞曲にはどれも「名古屋」とストレートなタイトルが入っていて、歌詞の内容もいかにも名古屋っ子が考えた名古屋の自慢という印象が拭えませんでした。愛知・名古屋マイソングといっても結局は名古屋なのです。愛知というタイトルの曲はひとつもありませんでした。
「愛知」と言われてもピンと来ないということでしょうが、結局「名古屋」でもピンと来ることはありませんでした。それは当然です。どの曲にも、名古屋は素晴らしいけど他の街はだめという思いがストレートに出すぎです。今聞くと、どれもネタかと思えてしまうほどの歌詞です。しかし、「名古屋」というのは語呂も悪いですね。「私の名古屋~、あなたの名古屋~。昨日の名古屋~、明日の名古屋~。」ってすごく歌いにくそう。カラオケも当時はテレビで流れていましたけど…。
そして第5回となった1988(S63)年の最優秀賞に輝いたのは「Hey!Mr.PureTown/長山洋子」でした。直訳すると「やあ、純粋な街さん」という名古屋のことを歌っているのかどうか微妙なタイトルのこの曲で路線変更するも結局花開くことなく、この愛知・名古屋マイソングはこの年をもって終了となってしまいました。もうこれで、名古屋の歌が作られることは無いだろうと思いきや…。
▲愛知・名古屋マイソングを募集していた当時のNHK名古屋放送局局舎。
デザイン博が最後のチャンス?
1989(H元)年、名古屋市は市制100周年という大きな節目がやってきました。そしてそれを記念して「世界デザイン博」が開催されることになりました。この博覧会にオリンピック誘致失敗の慰め的な性格があったことは否めませんが、それでも名古屋を盛り上げようとちらほらと歌が出ました。
まず1986(S61)年に「なごやマル八音頭/三波春夫withマル八オールスターズ」(※マル八は○の中に八の文字が入っています)が発売されました。また音頭?と思われるかもしれませんが、この曲は名古屋出身のロックバンドセンチメンタルシティロマンスが楽曲を担当し、新境地を開拓しました。
そしてデザイン博の公式テーマソングとして「DREAMS COME TRUE~この街のどこかで~/斉藤さおり」が作られ、名古屋ご当地ソング史上初めてのポップスが発売されました。この曲はご当地ソングというよりもデザイン博のテーマソングという性格が強く、名古屋ならではと言える歌詞は「♪空へ飛んでしまいそうな、ハイウエイ続いてるこの街が好き~」という部分程度でした。
しかし世界デザイン博は、開催直前に天皇陛下が崩御されたことで日本全体がお祭り自粛モードのなか開催されることとなり、その前年のドラゴンズ優勝でもビールかけが自粛となるなど名古屋にとっては不遇の時期でした。
▲夢の跡。デザイン博跡地。名古屋はデザイン都市になった…のか。
誰も好き好んでは作らない…
時代は平成に入りNHKから見放された名古屋市は単独で曲を作りました。「どんとこい名古屋」と「城~男は黙って城になれ」という2曲です。歌ったのは神野美伽さんでした。しかし、「日本一だよ名古屋のお城 城がなければただの街」と真実をズバっと歌ってしまったために、市が主導で作ったにもかかわらず市長が激怒してしまうという結果に終わりました。
▲城が無ければ…そんなことを考えてはいけません。何も無いんだから。
もうこれで名古屋の歌は本当に終わりだろうと思っていたところに、怖いもの知らずの新しいテレビ局、テレビ愛知が立ち上がりました。
テレビ愛知は1983(S58)年と最後発で名古屋に開局したため、名古屋に定着するために様々な作戦を展開していました。その一環として1992(H4)年、開局10周年記念に名古屋の歌をヒットさせようと、演歌部門とポップス部門でそれぞれ100万円の懸賞金を用意して募集をかけました。すると応募が殺到し応募総数は832点。
演歌部門は「ふれあい/伍代夏子」、ポップス部門は「夢の降る街/鈴木ユカリ」が受賞し発売となりました。「ふれあい」はそこそこ売れ、名古屋のカラオケ新定番の地位を確立するまでになりました。
調子に乗ったテレビ愛知は1997(H9)年、今度は開局15周年を記念してまたまた100万円の懸賞金を用意して公募、「名古屋のひとよ/真咲よう子」、「奥飛騨星の宿/城之内早苗」を発売しました。奥飛騨は名古屋の歌にするのは無理がありますね…。そんなテレビ愛知も懲りてしまったのかこれが最後となり、開局20周年の2003(H15)には曲を作ることはありませんでした。
自発的に作られたものが…無い…
このように見てきまして、ひとつお気づきになることがあると思うのですが、名古屋をテーマにした曲は、名古屋の自治体や企業が牽引役にならなければ製作されることはないということです。アーティストが好き好んで名古屋をテーマにした曲といえば、「名古屋っ子/無有」と「名古屋はええよ!やっとかめ/つボイノリオ」だけです。やっとかめのほうは、「燃えよドラゴンズ」でも有名な山本正之さんが作詞作曲を手がけられています。
いよいよ2005(H17)年には「愛・地球博」が開催されます。公式テーマソングはまるでスキャットで、何を歌っているのかよくわからない歌なのでヒットは難しそうですが、「やっとかめ」がインターネットで火がつき、ドラゴンズの調子がいい今こそ、山本正之さんに何かを期待したくなります。やはり、自慢でもなく自嘲でもなく、企業や自治体主導や懸賞金目当てでなく、心の底から名古屋を歌った歌が登場することを願って止みません。
万が一名古屋でヒット曲が登場したとしても、結局名古屋だけで盛り上がって全国的にヒットすることはないでしょうね。歌よりもまず、そのテーマにしようとしている名古屋を魅力的な街にすることが先決です。となると「名古屋はええよ!やっとかめ」の歌詞の最後ではありませんが、ヒット曲が誕生するのは、「未来の首都・名古屋」が実現するのと同じ位難しいことなのかもしれません。
▲「愛・地球博」名古屋市パビリオンの総合プロデューサーは藤井フミヤさん。歌は作ってくれないよね…。
コメント
その昔三重県に住んでいた頃、名古屋の名物を列挙した歌と自分の恋人は看護婦でナイスナースであると自慢する歌がNHKラジオから流れてました。
ともに「さすが名古屋」と感心させられる曲だったのですが、ご記憶にないでしょうか?
>やんさま こんばんは
はっきりとどの歌かというのはわかりませんが、
ひょっとすると、八事裏山フォークオーケストラの曲か、
そのメンバーだった伴良一さんの歌かもしれません。
曖昧な回答ですみません。
せめて、時期がわかると手がかりになるのですが…。