おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第4章 名古屋の文化・風習

ドラゴンズ・誕生から日本一まで

記事公開日:2004年10月16日 更新日:

おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第43回

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 名古屋を語るにあたって、中日ドラゴンズを外すことはできません。

 2004(H16)年10月1日、ドラゴンズファンの名古屋っ子で埋め尽くされたナゴヤドームにおいて、中日ドラゴンズは6度目のリーグ優勝を果たしました。私もその日はドームに赴き、落合監督の胴上げを目の当たりにしました。

 この日、急遽ローカルで生中継を編成したCBCテレビの視聴率は平均で33.4%、瞬間最高視聴率を記録した胴上げの場面は57.4%に達しました。在宅率を考えれば、この日は名古屋のほとんどの家庭でドラゴンズ優勝決定のシーンが見られていたことになります。

名古屋っ子が大好きな中日ドラゴンズ

 昨今、プロ野球の人気低迷が囁かれるようになり、視聴率は右肩下がり傾向にあります。2004(H16)年は落合監督の就任が話題となり、そしてチームの成績が上がるにつれて名古屋での中日戦視聴率は上昇し、年間平均で16.3%を記録しましたが、関東地区での巨人戦は平均12.2%で過去最低となりました。

 これは中日にとっても決して他人事ではなく、2002(H14)年には中日戦の東海地区における視聴率もほぼ同じ水準にまで下がったことがありました。

 それでも、名古屋では東京からのネット番組を休止して中日戦の中継を編成することが多いですし、ラジオでは中日戦しか流れない日がほとんどです。今回は名古屋とドラゴンズ、名古屋とプロ野球の関係を紐解いていきたいと思います。

ドラ優勝の瞬間
▲2004(H16)年10月1日。中日ドラゴンズリーグ優勝の瞬間。

伝統の一戦は名古屋から

 1920(T9)年、合資会社日本運動協会の設立によって日本のプロ野球はスタートします。その後、天勝野球団というチームも設立されるものの、関東大震災などの影響によって1929(S4)年に一度解散となってしまいます。

 そして1934(S9)年、読売新聞を母体として大日本東京野球倶楽部が設立、続いて1935(S10)年には阪神電気鉄道が中心となって大阪野球倶楽部(翌年愛称を大阪タイガースに)が結成され、初戦は7月、東京と大阪の中間となる名古屋の山本球場(のちの国鉄八事球場)で開催されました。巨人対阪神の伝統の一戦、初戦は名古屋だったのです。しかし、まだ名古屋には球団がありませんでした。

 翌1936(S11)年には阪神電気鉄道のライバル会社である阪急が阪急軍(大阪阪急野球協会)を、一方東京では国民新聞社による大東京軍(大日本野球連盟東京協会)、有力政治家と西武鉄道(現存企業とは無関係)を母体として東京セネタース(東京野球協会)が設立されます。

ようやく名古屋にプロ野球チーム

 そして名古屋には2チーム、名古屋新聞社の名古屋金鯱軍(名古屋野球倶楽部)と新愛知新聞社による名古屋軍(大日本野球連盟名古屋協会)が誕生します。大日本東京野球倶楽部は東京巨人軍となり、東京巨人軍、大阪タイガース、阪急軍、大東京軍、東京セネタース、名古屋金鯱軍、名古屋軍の7チームで日本職業野球連盟が結成され、この年から現在のようにペナントレースがスタートしました。

山本球場跡
▲山本球場跡には、選抜高校野球発祥の地のモニュメント。

中日ドラゴンズの誕生へ

 ここからは名古屋にあった2チームを見ていきます。名古屋金鯱軍は、戦争の影響で東京セネタースから日本語の名前に変更した翼軍と1941(S16)年に合併し、大洋軍(のちの大洋とは無関係)となり名古屋を離れました。

 このとき名古屋新聞社は経営から退いています。大洋軍はその後福岡の西日本鉄道の手に渡り西鉄軍となるものの、1943(S18)年に解散となってしまいます。また親会社であった名古屋新聞社も、1942(S17)年の新聞統廃合令によって名古屋軍の親会社であった新愛知新聞社と合併し、中部日本新聞社となります。こうして名古屋は、プロ野球チームも新聞もひとつになったのです。

名古屋軍は産業軍へ

 ところが、中部日本新聞社は合併によるコストの増大で球団を維持する力が無くなり、名古屋軍は1944(S19)年に理研工業の経営となり産業軍とチーム名を変更、選手は工場で働きながら試合をするという形になりました。そして戦争は激化し選手も戦争に行くようになり、11月にはプロ野球の休止が決定します。

 翌1945(S20)年8月に終戦を迎えると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の意向もありプロ野球再開に向けて急ピッチで話は進み、翌年4月には公式戦が再開されます。しかし、同じくGHQの意向のひとつであった財閥解体により理研工業は解体されてしまいます。

新聞よりも先だった「中日」

 そこで再び中部日本新聞社が登場します。何とか球団経営をする土壌が出来上がり、1946(S21)年、産業軍は中部日本と改称、翌1947(S22)年には中部日本ドラゴンズ、1948(S23)年には現在と同じく中日ドラゴンズとなります。親会社である中部日本新聞が中日新聞になるのは1965(S40)年のことですから、「中日」という名前は新聞よりも先に球団名として生まれたことになります。

こうして中日ドラゴンズの名が誕生したわけです。当時の球団の勢力についてですが、プロ野球のペナントレースが1936(S11)年に始まって以来、名古屋軍、産業軍、そして中日ドラゴンズは優勝とは全く無縁で、巨人と阪神の優勝争いが繰り広げられていました。

ドラゴンズはセ・リーグへ

 そして1949(S24)年のシーズン終了後、新規参入を巡って球界を二分する騒ぎとなります。当時球団は8チームの1リーグ制。新聞社を母体とする読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、鉄道系の大阪タイガース(阪神)、阪急ブレーブス、南海ホークス、東急フライヤーズ、あとは映画会社母体の大映スターズと繊維会社が母体の太陽ロビンスで構成されていました。

 ここで登場するのが正力松太郎氏です。正力氏はかつて大日本東京野球倶楽部を創設し、読売新聞の全国拡販に力を入れ、日本テレビの開局を成し遂げた人物でした。その正力氏が、8チームから10チームに増やし、将来的には2リーグ12チームという構想を明らかにし、新規参入を各方面に打診したのです。

 そこで毎日新聞が新たに球団を持ちたいと加盟申請をしたのですが、読売新聞と中部日本新聞は同業者が参入することに反対。そこに太陽が加わり、新規参入反対派の巨人、中日、太陽と賛成派の大阪(阪神)、阪急、南海、東急、大映に分裂します。

 このまま行けば賛成多数で参入を認めることになると思われた矢先、巨人が中心となって新リーグを作るのではないかという話になると、大阪(阪神)は伝統の一戦と言われる巨人戦を失うことを恐れ寝返ります。そして巨人、中日、太陽、大阪(阪神)によるセントラルと、阪急、南海、東急、大映による太平洋(パシフィック)に分裂し、日本のプロ野球は2リーグ制に移行したのです。

セントラルリーグは8チームで発足

 セントラルリーグには新規参入球団として市民球団の広島カープ、山口県下関市を本拠とした大洋漁業の大洋ホエールズ、選手は公務員扱いだった国鉄スワローズ、福岡・西日本新聞社の西日本パイレーツが加わり、太陽レーヨンから映画会社の松竹の手に渡り名称を太陽から松竹に変えた松竹ロビンズとあわせて8チームで発足。地方都市にまで球団が広がり、ますますプロ野球人気は高まります。

 西日本パイレーツはわずか1年でパリーグの西鉄と合併、松竹ロビンスはその後大洋ホエールズと合併し、現在の6球団の形になります。そして中日ドラゴンズですが、1951(S26)年には鉄道会社としてのプライドがそうさせたのか、名鉄(名古屋鉄道)が中日ドラゴンズの経営に参加し、名称を中日ドラゴンズから名古屋ドラゴンズに変更します。しかしそれほどメリットが無かったのかわずか3年で撤退。再び中部日本新聞の一社経営となり中日ドラゴンズに戻ります。

中日ビル
▲節目の試合のときには、中日ビルにドラファンが集合します。

 そして名前を戻した1954(S29)年、西沢道夫、杉下茂などの活躍によりリーグ初優勝。その勢いで日本シリーズも見事勝利、初めて日本一の栄冠を手にし、名古屋の街は歓喜の渦につつまれます。しかしそれから50年。未だ日本一には手が届いていません。今のところこれが最初で最後の日本一なのです。

※2007年に日本一になりました。

 こうして中日ドラゴンズは名古屋の人気球団となるのですが、果たして本当に名古屋っ子は皆ドラゴンズファンなのか。名古屋っ子にとってのドラゴンズとは一体どんな存在なのか。マスコミとドラゴンズの関係など、次回はそのあたりに迫ります。

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▲プロ野球がニックネーム制を導入した1947(S22)年、当時の中部日本新聞社長が辰年生まれだったのでドラゴンズ。

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