14.天白区 名古屋を歩こう

地下鉄の駅前に広がる山村

記事公開日:2006年3月7日 更新日:

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 地下鉄桜通線の終点野並駅。桜通線は、桜本町駅からは東海通の地下を走っているため、野並駅を出ると交通量の多い東海通の喧騒が聞こえてきます。駅の周辺にはずらっと住宅や商店が立ち並ぶのですが、北東の方角に大きな山が見えます。山は交通量の多い東海通沿いに残されている割にはかなり大きく、これまで見てきた市内の緑地とは明らかに違います。森のなかは一体どうなっているのでしょうか。

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▲地下鉄桜通線の終点、野並駅前。
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▲車の往来が激しい東海通。奥に大きな山が見えます。

 野並駅のすぐ南側は緑区の古鳴海です。そして北側は天白区野並。そこは区画整理が終わっています。しかしその奥に見える森も実はずっと野並。こちらは区画整理が済んでおらず天白区天白町大字野並。しかもさらに字の地名がつきます。そのことからもあの山の中は、まだ開発されていないことがわかります。でも駅前に残された山です。それほど大したこと無いのでは...という気持ちも若干抱きつつ出発です。

 野並駅から東海通を東に歩くと、バス停のすぐ横、左手に神社の入口があります。野並八劔社です。トンネル状の緑のなかにある急な階段の先の鳥居をくぐると、小さな入口とは違って広大な敷地が広がります。このあたりはかつて、旧熱田大宮司だった千秋家の領地であったことから、熱田神宮にある八劔社の分神としてこの場所に祀られたのが野並八劔社の始まりで、日本武尊など7祭神を祀っています。かなりの樹齢と思われる大きな木々が敷地を覆っていますが、この神社が駅から見えた森というわけではありません。

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▲バス停の奥にある野並八劔社。ひっそりと小さな神社かと思いきや。
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▲こちらが本殿。大きな木々に囲まれています。
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▲神社の北側。旧鎌倉街道に面しています。

 では、八劔社の北側の鳥居をくぐって細い道へと出て、その道を北へと歩きます。神社の木々が喧騒を遮っているのか、先ほどまでの東海通とは一気に雰囲気が変わって、どこかのんびりとした田舎の住宅地にやってきたかのような錯覚に陥ります。道沿いにはみかん畑のある家などが並びます。実はこの細い路地、かつての鎌倉街道なのです。この街道は街道として整備されたのではなく、多くの旅人が草地を歩き、そこが次第に道となり街道となったものだそうです。当時はそれほどたくさんの人がここをあるいていたということです。

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▲どれが旧鎌倉街道なのかは見た目ではわかりません。
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▲民家の庭に広がるみかん畑。のどかです。地下鉄の駅前とは思えません。
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▲道路は複雑ですが、とにかく東へ、東へと歩きます。

 道は急にいくつかに分かれるのですが、東に向かってまっすぐ伸びている道を選んで歩きます。これが旧鎌倉街道です。どんどん傾斜を登っていきます。すると街道は車がすれ違えない程の細さになります。傾斜を登りきり振り返ると名港トリトンまで見渡せます。じわじわと標高が高くなっていることがわかります。でも、まだ野並駅を出発してわずか15分程歩いただけです。しかし気分としては、1時間以上歩いて郊外に出たかのような感じです。ここから風景はさらに変わります。

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▲すると住宅街のなかを真っ直ぐ東へと通じる道が。
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▲振り返ると結構登っていることがわかります。
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▲次第に周囲は住宅から畑に。地下鉄の駅前とはとても思えません。

 道路の両側にあった住宅地は坂を上りきると無くなり、道路は畑の間を縫うようになり、舗装は半分剥げかかった状態で、自動車で走行するには困難に思えるほどの状態にまでなります。さらに歩くと道路はゆるやかな上り坂になり、舗装は車一台分よりも細くなってしまいます。そして周囲は畑から森に変わり、田舎の住宅地から今度は、山里という風景になります。地下鉄の駅から徒歩20分とは思えません。バスも通っていないかのような山奥風情です。

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▲とうとう周囲は畑から森に。地下鉄の駅前とはとてもとても思えません。

 そんな山道ですが、若干綺麗な道に突き当たりホッとします。左手になにやら大きなグラウンドがあり、看板に相生山緑地とあります。奥様方がスポーツに汗を流しています。しかし駐車スペースは舗装されておらず、都会の緑地という雰囲気ではなく、リゾート地のレジャー用グラウンドといった感じです。本当にここは名古屋市内なのかと疑いたくなってきます。

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▲スポーツに汗を流す元気な声が聞こえる、相生山緑地グランド。

 その相生山緑地グランドの西側に史跡があります。先ほど八劔社のところで登場した千秋家の墓です。塚のようになっていて草が覆っている先には、ずらっと墓標が置かれています。ここには、織田信長から野並など3つの村を領地として与えられた旧熱田大宮司の千秋家をはじめ、その分家の墓標が立てられています。しかしこれらは明治以降に建てられたものだそうです。なぜなら、江戸時代は墓標を建てることを許されなかったからです。江戸時代は塚とその上に植えられた松だけが墓のしるしだったとのことです。

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▲グランドの西側にある千秋家の墓。墓標がずらりと並んでいます。

 千秋家の創始は平安時代末期に遡ります。旧熱田大宮司の尾張員職(かずもと)の娘と、尾張国の目代・藤原季兼との間に生まれた藤原季範は、熱田大宮司を継ぐと号を千秋と称しました。以降は千秋家を名乗り、千秋家は明治時代初期まで世襲で熱田大宮司を務めたのです。その季範の娘が源義朝の子を宿し、源頼朝を熱田神宮の西にある誓願寺で生んだのです。

 すっかり山里のような雰囲気に包まれていますが、この千秋家の墓は直線で野並駅から500メートルほどしか離れていません。しかしまだここは序の口です。ここからは少年時代の冒険心を思い出しながら山を駆け巡ります。相生山緑地の東側の道路へと戻り、今度は北へと歩きます。若干綺麗な道路でホッとしたのも束の間、相生山緑地の先の道路は、相変わらず自動車がすれ違えない細さで舗装は剥げています。下り坂の両側に広がる風景は本当に山村のよう。奥に見える天白ゴルフセンターのネットだけが、かすかにここが名古屋市であることを教えてくれます。坂を下ったところを右に曲がります。道路は真っ直ぐ森の中へと繋がっています。森へと足を進めます。私の身にこの後危険が及ぶとは、まだこの時知るはずもありませんでした。森と言ったって所詮ここは名古屋市内、という甘い考えが私を危険へといざないます。

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▲どこか遠くにでも旅行に来たような気分...。

 野並。野並駅は野並の端に過ぎません。本当の野並はこれからです。

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▲では、さらに東へと足を進めます。

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