★上陸できるのは南側の一角です
★当時の生活に思いを馳せながら
★不便な部分もあったけど心も物質的にも豊かな暮らしだった
かつては炭鉱の島として栄えたのに、1974(S49)年に無人島となって以来、ずっと上陸が禁止され、35年ぶりに上陸できるようになった「軍艦島」こと長崎県の端島。長崎港から船に乗って1時間、ようやく到着しました。この日、雨は降っていなかったものの、風が強く波があり、上陸できるかどうかはギリギリだったのですが、何とか上陸できることになりました。
波があるとなぜ上陸できないのか。それは、軍艦島の船着き場である「ドルフィン桟橋」に着いてすぐにわかりました。軍艦島は、周囲わずか1.2キロの島に、最盛期は5,000人以上が暮らし、人口密度は東京都区部の9倍、それは世界一を誇っていた島です。
ですから、港に大きな面積を割くことなどできず、この桟橋も島の外側にあり、どうやって船を接岸するのかと言いますと、ある程度近づいたら係員が桟橋に飛び乗り、手作業によってロープで船と桟橋をくくりつけるのです。これは…波が高かったら無理です。
それでも島は大きくなっていた
接岸作業には10分程度かかり、それから上陸となります。軍艦島に滞在できるのはわずか1時間、それはもちろん、下船乗船の時間も含まれていますので、本当にわずかな間のみです。わずかなのは時間だけではなく、上陸できる場所はあらかじめ決められた見学コースの部分だけで、それは島の南西の一角のみです。
でも、それは島の現状を見て仕方の無いことだとすぐにわかりました。もともとは、現在の3分の1程度の小さな島だった端島は、何度も繰り返された埋め立て工事によって大きくなったもので、海岸線は直線、しかも護岸堤防で覆われており、余白と言えるような場所はありません。そんな狭い空間に所狭しと建造物が建てられ、それらの全てが今、現在進行形で崩れかかっているのです。万が一のこと…いや、部分的な崩壊は万が一とは言えない程に起きやすい状態なのです。では、そんな廃墟の島に足を踏み入れます。そこにあった暮らしに思いを馳せながら、見学していきます。
まずは労働の現場から
島は、中央が「丘」のようになっており、それを境に東西に別れていて、西側は「住居エリア」そして東側が北端の小中学校を除いて「炭鉱エリア」となっていました。ドルフィン桟橋の目の前にある「第1見学広場」。ここはまさに炭鉱の入口。労働者がこれから仕事に向かうという場所だったところです。
ブロワー室など、鉄筋コンクリート製だった建物の外側は残っていますが、レンガだった部分は無残にも崩れ去っています。
さらに、地下深くから掘り出された石炭を運んでいたベルトコンベアーは、その骨格部分だけが残されているのみで、その姿は何か別なもののような感じさえします。かつてはここを「黒いダイヤ」と呼ばれた良質な石炭が流れていたのでしょう。
そんな「黒いダイヤ」を掘る仕事に従事していたわけですから、労働者の賃金は高く、軍艦島の人々は比較的裕福な暮らしをしていたと言われています。ガイドの方のお話によりますと、昭和30年代で住居の家賃は10円、電気・ガス・水道料金が5円ではあったものの、実質的には三菱が負担していたそうです。そう、ここは三菱の社有地だったわけですから、全てが実質会社支給だったのです。
労働が厳しかった鉱員家庭の生活水準は高く、庶民の間では高嶺の花だったテレビの普及も早く、高層住宅の屋上には八木・宇田アンテナが乱立していたそうです。そんな豊かな暮らしぶりの一方で、不便なことももちろんありました。その不便さは、とてつもないものでした。
豊かな暮らしと隣り合わせの不便さ
では続いて、会社事務所と総合事務所のあった第2見学広場へと足を進めます。事務所の建物は、レンガ造りの部分が一部残っている一方で、鉄骨部分も壊れかかっており、一目見て崩壊が進んでいる状況であることがわかります。
何が不便だったのか。それは買物でしょうか、通勤でしょうか、はたまた娯楽でしょうか。いえ、そうではありません。困ったのは2つの「水」の問題です。パイプラインが完成する1957(S32)年までは、海水を蒸留したり、船で真水を運んだりしていて、「水1滴は絹1枚」といわれ、1日に1家族に支給された水は桶1杯分だったそうです。
パイプラインが開通した後は、1日あたり1,350トンの送水が行われるようになり、水道環境は改善されたものの、それでも水は貴重なものに代わりなかったようです。
そしてもうひとつは、海に囲まれた外海であることの宿命。「台風」です。酷い時には、西岸を襲った波の着地点が東岸だった…つまり、島の高層住宅全体が大きな波をかぶるといったこともあり、桟橋が流出してしまうこともあったそうです。
無人島になって35年。建物の損傷が激しいのは、台風などの影響も大きいといいます。
日本初の鉄筋コンクリート高層アパートとプール
では、最後の見学場所である「第3見学広場」へ。ここは島の南西にあたる場所で、右手が会社部分、そして左手にようやく住居部分が見えてきます。
この第3見学広場の目の前には、下請住居や倉庫があったようですが、それらは全て崩れており、その先にある鉱員住宅まで瓦礫の山となっています。そして気になるのが、その反対側、背後にある「プール」の跡です。
海がこんなに近い…というよりも、海に囲まれた小さな小島なのに、プールが必要なの?と思ってしまいますが、先述のとおり、軍艦島は高い護岸に囲まれていて、海は遊泳禁止となっていました。夏休みには海水浴に船で他の島に出かけたほどなのです。なので、このプールは重要な施設だったというわけです。もちろん、真水ではなく海水プールでした。
この第3見学広場からは、鉱員住宅だった7階建ての30号棟と、6階建ての31号棟、そして職員住宅だった5階建ての25号棟を見ることができます。この30号棟こそが、日本で初めて建設された鉄筋コンクリート造高層アパートです。当初は4階建てだったものがすぐに7階建てに増築されたものです。
そんな高層アパートが建てられたのは1916(T5)年。大正時代に7階建てです。小さな限られた面積の島に、労働者を住まわせるためには、上へ上へと空間を広げていくしかなかったのです。
お寺や神社はあったのかな…?
当時の暮らしぶりはどんなものだったのかといいますと、島には神社やお寺もあり、お祭りや花火大会も開かれたとのこと。閉ざされた空間に多くの人が暮らしているわけですから、皆が顔見知りで、それは大きなひとつの家族のような、強固な結びつきのコミュニティが形成されていたそうです。
端島神社は1号棟という建物の名になっていて、木造だった拝殿は全壊してしまっていますが、本殿と境内だけは今も残っています。その一方で、お寺は敷地を確保することができず、島唯一の泉福寺は23号棟の2階にあり、墓地は島内にはありませんでした。
火葬場は、船でやってくる途中に見かけた、公園の跡が残る隣の中ノ島にあり、そこで火葬された後は、四十九日法要を済ませると、実家のお墓へと埋葬されることになっていたそうです。
当時のくらしぶりは?
買物などはどうしていたのかといいますと、島へは毎日食料が船で運ばれ、島のなかで開かれたマーケットで食料を買うことができたそうです。運搬に経費がかかったにもかかわらず、全て三菱の手による、社員の需要のための輸送であったため、本土に比べて物価は総じて安かったとのこと。
奥さまの用事は買物だけでは当然済みません。島には郵便局や警察の派出所、町役場の端島支所もあり、それらの役場に従事する公務員も軍艦島に住んでいました。三菱の社有地に公的な施設があり、公務員が住んでいるというのも不思議な感じがしますが、5,000人も暮らしていれば、それは絶対必要になりますものね。もちろん、学校の先生が住む教員住宅もありました。
食料品が買えて、郵便が出せて、役所の用事が済ませられても、それでもやっぱり、奥さまはもっといろんな買物がしたくなるというもの。軍艦島の人たちは、月に2~3回は船に乗って島外に買物に出かけていたそうです。そうでもしないと、奥さまたちはストレスが溜ってしまいますものね。女性にとって買物は最大のストレス発散ですから。
奥さまのストレス発散だけではいけませんよね。もちろん、毎日炭鉱で働くご主人だってパーっと発散したいものです。そんな施設も島には当然揃っていました。
まずは映画館。テレビがやってくるまでは最大の娯楽だったようで、荒波で、食料を運ぶ船が島に接岸できない時でも、何とか手渡しで、映画のフィルム3本だけは渡した…なんてエピソードも残っています。
そして理髪店にパチンコにスナック、雀荘、卓球場に弓道場など。仕事の疲れを癒すスポットは全て島の中に揃っていました。もちろんそれらも全て、三菱が経営していました。しかしです。これだけで男のストレス発散は止まりません。
なんと…売春宿もあったというのです!もちろんそれも、三菱の経営だったそうです。まあ、閉鎖された空間で、逆に何か事件が起こってもいけませんからね。労働者の息抜きも含めて、全てを島内で完結させる必要があったというわけです。
子どもたちはどうだったのか
さて、子どもたちはどのように暮らしていたのかといいますと、島で生れた子どもたちは、9階建ての屋上にあった「屋上幼稚園」に通い、7階建ての「端島小中学校」へと進学しました。学校にはちゃんと体育館やグラウンドもあり、運動するスペースは確保されていました。
遊び場はもちろん、高層住宅が立ち並ぶ住居エリア一帯です。全てが屋根に覆われていて、雨の日でも傘を差すことなく駆け回ることができたため、いつでも鬼ごっこができたことに加え、8階や9階といった高さのある階段を走り回るわけですから、それは縦横無尽な鬼ごっこが常に展開され、体力はついていったことでしょう。
そんな、絆の深い、コミュニティが形成されていた一方で、中学を出る子どもたちには、大きな運命が待ち構えていました。そう、この島には高校がないのです。これだけ絆が深く、知らない人はいないような環境で育った子どもたちが、島を離れ、親元を離れ、遠くの高校の寮などに入って一人暮らしをするというのは、相当精神的に堪えたことでしょう。
しかしその「島を離れる」という事態が、子どもたちだけでなく、島全体の大人に降りかかったのが、1974(S49)年の閉山でした。そもそも、この軍艦島で働いていたのは、どういった人たちだったのか。労働はどういうものだったのか。次回は、暮らしぶりやノスタルジーとはうって変わって、労働者としての軍艦島を、船に乗って軍艦島を周遊しながら考えてみたいと思います。
次回「第3回」につづきます。
コメント
軍艦島の事このあいだ人類滅亡スペシャルで特集してたの覚えてます確かオイルショックが原因でみんな引っ越したといってたような、、、、、、、
であのあと廃墟になったときいています。
確かに日本にこんな島があったのを
初めてしりました。廃墟が好きなので行きたいです
>ゆうかさま こんばんは
オイルショックと時期は重なりますが、
石炭から石油へと、エネルギーの主役が移ったことが、
直接的な原因ですね。
この廃墟は、ひとつの職場でもあり住居でもあり、
街であった「島」がある日突然廃墟になったものが、
そのまま残されている特異な例なので、
ぜひ一度、実際にご覧になられることをオススメしますよ~。