15.名東区 名古屋を歩こう

高針であることを身を持って知る

記事公開日:2006年6月14日 更新日:

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 前回、国道302号線・環状2号高針橋東交差点を西方向へと曲がりましたが、今回はその交差点を東へと曲がって高針界隈を歩きます。名東本通を東へとさらに歩く格好になります。この道の南側は牧野池、北側が高針です。そして、わずか800メートルほど歩くと日進市境です。田園地帯を宅地化した名東区内にしては珍しく、高針にはお寺や神社が密集しています。それはここにかつて街道が通っていたからです。

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 さて、国道302号線から東へ少し歩くとスーパー西友があります。立体駐車場はあるものの、お世辞にも巨大ショッピングセンターと言える大きさではなく、下町感があります。近くには、輸入小物と木のおもちゃのお店がありましたが、現在は通販のみの取扱いとなっていてお店は営業していません。そういった個人商店も見受けられますが、通り沿いには車のディーラーや、「こだわりの一頭買い」という看板を掲げる魅力的な焼肉店など、ロードサイドスタイルの大型店舗が数多く立ち並んでいます。

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▲立体駐車場もある西友。適度なサイズといったところでしょうか。
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▲名東本通。結構大きなマンションやビルが立ち並びます。
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▲焼肉食べたい...。ロードサイドタイプのお店が多い。

 その西友の手前にある交差点を左折して北へと歩くとすぐのところに、江戸時代の街道の様子が描かれた看板を掲げた和菓子店があります。丸栄堂です。「元祖高針ういろ」が人気商品です。さてその看板の所以ですが、ここにはかつて街道が走っていたのです。「中馬街道」です。名古屋と信州を結ぶ街道で、運搬用の馬で大変賑わっていたそうです。高針には馬と馬方が宿泊する宿があり、宿場町となっていたそうです。中馬とは地名ではなく、農耕用の馬を副業として運搬に使っていた運送業者のことを指し、当時は一人の馬方が数頭の馬をあやつって特産品を名古屋から信州へ、そして信州から名古屋へと運んでいたそうです。馬方は疲れた体をこの高針で癒し、その際に高針ういろを口にしていたのでしょうね。中馬街道の馬による運搬は明治時代中期まで続いたとのことです。

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▲かつての街道風情を描いたのでしょう。他に七福神の絵も。
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▲その絵があるのは、高針ういろで有名な丸栄堂菓子舗。

 その丸栄堂から北へ歩き、最初の角を左折したところに東勝寺というお寺があります。創建はわかっていないのですが、1575(天正3)年に高針城主の弟、加藤勘右衛門(藤原信眤)が東照寺に改号したと伝えられています。後に現在の東勝寺と改称しています。本堂は1787(天明7)年に再建されたものが今も残っています。名灸のお寺としても有名だそうです。お子さまと一緒に行かれる際はお気をつけください。歴史ある本堂で、わんぱくなお子さまが走り回った場合、別の意味で灸をすえられるかもしれません。まあ、それはそれですえられた方がいいかもしれませんが。

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▲一歩奥に入ると、新興住宅地ではないことがよくわかるこの界隈。
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▲名灸のお寺として知られている東勝寺。

 続いて、東勝寺の北側を東西に走る道を東へと歩きます。道路が綺麗に整備されているために一見、新興住宅地の道路のように見えてしまいますが、歩くとすぐに左右にお寺や神社が登場します。それにしてもこのあたりは道路の起伏が激しい。最初に見えてくるのは花園保育園のある済松寺です。済松寺も創建は明らかではなく、さらには誰も住んでいない時代が長かったそうです。1718(享保3)年にそれまで瑞松院としていたのを済松寺と現在の名に改めたものの、その後もまた無住状態となったのですが、大府の鷲羽知観尼が移り住み再興したと伝えられています。現在の本堂は1921(T10)年に再興されたもので、33年に一度だけ本尊の十一面観音がご開帳されます。古くから村の娘たちを集めて茶道や華道、裁縫などを教えており、それが現在の保育園に繋がっているのだそうです。

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▲カーブや急坂があって歩くのが結構大変。
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▲花園保育園の建物が立派な済松寺。

 済松寺の横には、私有地が道路にはみ出したような、車が通れるか微妙な細い道路がありますが、そちらには行かず若干斜め方向へ道なりに歩いていきますと、左手に高針の氏神さまである高牟神社が現れます。創建は不明ですが、1702(元禄15)年の社地覚書に八幡宮として記録が残っています。現在の社殿は1996(H8)年に再建されたもので、境内には高針護国社や白山社などもあります。他にも境内には万葉集の歌碑や緑樹記念碑などもあり、静かな森が形成されています。

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▲突如現れる森、高牟神社の入口。
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▲高牟神社の社殿。完成して10年足らずとあって新しい。
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▲万葉集の歌碑。他にも緑樹記念碑があります。

 さて、ここから再び名東本通方面へと南下します。高牟神社の向かいにある古谷公園の先を南東方向へと歩きます。それまでの新興住宅地風情が嘘のように、道路は細くクネクネと曲がり、古いホーロー看板などが残る町並みとなります。するとまたもや大きな森が見えてきます。蓮教寺です。蓮教寺は長徳年間(995-998)の創始と伝えられています。本堂は1758(宝暦8)年に建立されたもので、その半世紀ほど後に作られたといわれている山門には細かい装飾が施されています。山門にある「蓮教寺」という石碑には円遵上人が1816(文化13年)に書いたという直筆文字が彫られています。

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▲ホーロー看板に畑。懐かしい感じもする風景。
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▲円遵上人直筆文字の石碑がある蓮教寺。
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▲250年の歴史と細かな装飾が刻まれた蓮教寺の山門。

 さらに細い道路を南下します。周囲には畑もちらほらと見受けられるようになり、未舗装の道路も登場して、私が幼い頃に見た、名東区の懐かしい風景らしきものが若干ですが残っています。そしてその急坂にある石垣の上には完全予約制の宮嶋考古資料館があります。ここには縄文中期から古墳時代にかけての土器や刀剣などが展示されています。そして急坂を駆け下りるように下ると名東本通の新宿界隈に出ます。先ほどまでの畑や未舗装道路が嘘のように、周囲にはマンション群が立ち並び、車がびゅんびゅんと走っています。

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▲ちらほらと畑や未舗装道路が登場。
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▲勾配が激しい。石垣の上にあるのは宮嶋考古資料館。
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▲旧中馬街道へ下ると、マンションなどが再び登場。

 それにしても、比較的平坦な名東区のなかで、この高針という地域だけは起伏に富んでいます。この高針という地名がその歴史を語っています。かつて天白区の平針を訪れた際、平地を開墾したことから「平墾(ひらばり)」という地名が名付けられ、それが転じて平針になったというお話をしました。高針は平針のあとに開墾され、平墾に対してこちらは高台だからという理由で「高墾(たかばり)」と名付けられたのです。高針という地名はこの高台の歴史の生き証人というわけです。

 続いては高針ところではなく、もっと高い場所の地名がついている場所へと進みます。それは、富士山どころの高さではありません。あのニューカレドニアよりももっともっと
高い場所です。「なぜ、いきなりニューカレドニア?」と思われた方、次回をお楽しみに。


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