- 関ヶ原で勝ち天下を統一したのは岡崎
- 歴史的に三河の中心はどう見ても岡崎
- 世界で最も平和な国を作ったのは岡崎
前回、岡崎公園でのお花見のもようをレポートしましたが、そこで見た「家康のふるさと」「江戸時代 二六五年の平和は 岡崎から」といった文字に、岡崎の家康公に対する思いを感じると同時に、今でも、実は江戸時代が一番素晴らしい時代だったと思っているであろう岡崎の自尊心を感じることができました。
実際のところは、お隣の豊田市が自動車産業で発展するなど、近年は三河で、そして愛知県でだんだんと扱いが微妙になってきている岡崎市。きっと豊田市のことなど、「この前まで挙母町だったくせに」くらいに思っていることでしょう。日本の…とは言えなくても、西三河の中心であり続けたい岡崎。
かつて、日本が最も心豊かだった時代を切り開いた人物を生んだ岡崎。それはもう自尊心というより、意地に近いのかもしれません。それなら、その意地を見せてもらいましょう!ということで、岡崎城周辺を散策してみます。
岡崎と龍
岡崎市を車で走っていますと、「竜南」や「竜海」「竜東メーンロード」といった、「竜」のつく地名を良く見かけます。岡崎城は通称「龍ヶ城」と呼ばれていて、本丸には徳川家康公と本多忠勝朝臣などを祀る「岡崎東照宮・龍城神社」が鎮座しています。
15世紀前半、西郷頼嗣によって明大寺の地にお城が築城されます。その後、家康の祖父である松平清康が城を奪い取り、現在の地に拡張して移し「岡崎城」と称します。それが1531(享禄4)年の出来事です。その竣成の日、龍神が出現したことから別名を「龍ヶ城」としたのです。しかし、龍が現れたのはその時だけではありませんでした。
その11年後の1542(天文11)年12月26日、この岡崎城内で徳川家康が誕生するのです。その、家康が誕生した朝のこと。この龍城神社の場所にある井から、金の龍が昇天し、水が噴き出したというのです。その後、井は「出世開運龍の井」として崇められたと伝えられています。
と、説明看板はあるのですが、肝心の井が見つからない…。もう、水も龍も枯れちゃったのかな…。
家康の人柄がわかります
岡崎城のふもとには、龍と亀が彫られた「東照公遺訓碑」があります。そこに書いてあることを見ると、家康の人柄がわかると言うものです。
「人生は重荷を負って遠い道を歩くように、不自由が常。」
「堪忍が全てで、いかりは敵。」
「勝事ばかりを知ると、害が身にふりそそぐ。」
「人を責めずに自分を責めろ。」
「人はただ 身のほどを知れ 草の葉の 露も重きは落つるものかな」
もうね…。明らかに信長や秀吉とは全く異なるということが、よくわかります。だからこそ、天下泰平の江戸時代がやってきたというわけですね。
岡崎は勝ちだけを考えない
お城に上ってみます。入城料は200円(小人100円)です。城内には「藩政と支配」「城下町の文化と産業」「城と城主」といった展示があります。家康の生誕地をウリにしている割には、家康に関する展示はほとんどありません。
では何が展示してあるのかといいますと…、立体模型と当時の人々が暮らす様子が同時に見られる「ビジオラマ」や絵図などで、江戸時代の岡崎と、その周辺の事情がわかるようになっています。まあ、要約しますと、「昔から岡崎は三河の中心である」ということでしょうか。
確かに、岡崎城は家康出生の地ということで「神君出生の城」として神聖視されていたそうですが、その後は本多氏(康重系)、水野氏、松平(松井)氏、本多氏(忠勝系)と譜代大名が城主となっていることから、家康だけの岡崎城というわけではないですからね。展示がそうなるのも無理は無いでしょう。
でも、家康に関してもっと知りたい!という人のために、お城の北側にその名も「三河武士のやかた家康館」という展示施設があるので、後ほど行ってみます。この岡崎城とセットでお得な入場券もあります。
天守閣からは、自称西三河の中心都市…じゃない、自他とに認める西三河の中心都市である岡崎の中心市街地を、北に見渡すことができます。松坂屋やシビコ…昔は一大ショッピングソーンだったのでしょうけど、今では南に見えるイオン岡崎ショッピングセンターの方が元気なようですね。まあ、岡崎のなかで勝ち負けを競っても…ねぇ。
さすが八丁味噌
岡崎公園には、八丁味噌を使った田楽やおでんを出すお店がいくつかあります。それもそのはず、そもそも八丁味噌というのは、この岡崎城から西へ8町行ったところにあった「八丁村」で作られていたことから名づけられたもので、ここはもう本場も本場です。
そもそも、名古屋の人たちが名古屋まつりなどで、徳川家康のことを郷土の英傑として祭り上げることも岡崎の人は気に入らないのでしょうし、さらには、この八丁味噌が今や名古屋の代名詞となっていることに、岡崎の人は、大豆をつぶして八丁味噌を作りながら、苦虫をかみつぶすような思いを抱いていることでしょう。
平八郎と能楽堂
では、家康の功績を見るために家康館のある城の北側へと向かいます。するとそこには、鹿の角の形をした兜をかぶる、本多平八郎忠勝の像が。
本多忠勝は、ずっと家康に仕えた武将で、家康の居城の城下に常に住んでいたとのこと。関ヶ原の戦い以降は、伊勢桑名藩初代藩主となり桑名で人生を終えています。
この像を見ていた女の子たちが、「平八郎?あー、あの乱を起こした人?」というのを聞いて相方がぼそっと、「それは大塩だろ」とツッコミ。
そしてその奥には、徳川家康が生まれた場所でもある、岡崎城二の丸能楽堂があります。照明、音響設備、能道具などが完備されていて、有料で一般の人も借りることができます。この日は、小学生のクラブ活動の発表会として雅楽が予定されていました。小学校に雅楽クラブがあるというのがすごいですね。
あれ?家康は?
本多忠勝もいいけど、家康は?と思ったら、花時計の方の高い位置に銅像がありました。やっぱり扱いが違いますね。
この銅像は家康公350年祭を記念して1965(S40)年に作られたものなのですが、実は、この岡崎城自体が再建されたのは1959(S34)年。
明治維新によって、家康が築いた江戸幕府が倒れると、新しい時代にお城は不要だということで、全国でお城が壊されたのです。もちろん、神君が出生しただなんて、そんなことは新政府には通用しません。岡崎城も1873(M6)年から取り壊されてしまうのです。
この時壊されたのは、お城だけではなかったでしょうね。岡崎の人々の誇りもズタズタにされたことでしょう。
言いたいことがよくわかります
では、「三河武士のやかた・家康館」へ行ってみます。大人350円(小人200円)ですが、岡崎城との共通券ですと、大人500円(小人270円)で両方見ることができます。
これが結構、本格的な展示でびっくりしました。家康の生い立ちや功績はもちろんのこと、それを支えた三河武士たちの活躍もしっかり網羅。言いたいことはもちろん、「天下をとったのは三河」そして「三河の中心は岡崎」です。
面白いのが、展示のメインは「決戦!関ヶ原」という、関ヶ原合戦を動くジオラマで再現したもの。これがわかりやすい!関ヶ原町の歴史民俗資料館よりもよっぽどわかりやすい。
しかも、このジオラマ専用のパンフレットまで別刷りで用意してあるという力の入れよう。そりゃ関ヶ原は、三河そして岡崎が天下を取った瞬間ですものね…。
人生の戦いを勝ち抜かん!
館内は撮影禁止なのですが、兜や剣、火縄銃などを自由に触ることができる体験コーナーでは、写真を撮ることができます。周囲の子どもたちよりも、大人の方が楽しそうに兜をかぶったりしているのが印象的…と思ったら…。
相方も、兜をかぶって、剣をもって、火縄銃を構えて、馬に乗っておおはしゃぎ。
体験コーナーには、家康の等身大パネルが置いてあるのですが、その背の小ささにびっくり。160センチ無かったんですね。相方が横に並ぶと、相方よりちょっと大きい程度なのです。まあ、江戸時代は平均身長も相当低かったようですから、当時はそれほど小さかったというわけではないでしょう。
笑顔に隠れているものこそ天下を取る秘訣
岡崎公園内には他にも、おみやげ売店や花時計、そして徳川家康が舞を踊るからくり時計があります。最初はしかめっ面で舞う家康が、途中で笑顔に変わります。
実はこの、からくり人形の技術も、愛知のものづくりの伝統なんですよね。その穏やかな表情の裏に隠された堪忍。それが天下を取るのに大切なものだということがわかります。
公園内には、先ほどのカッコイイ徳川家康像とは別に、もうひとつの家康像があります。それが「しかみ像」です。簡単に表現しますと「ショボーン」という顔をしている家康です。
これは、浜松の三方ヶ原で武田の大軍に無理な戦いを挑み、負け戦となって多くの家臣を失った際に、その気持ちを忘れないようにと家康が描かせた肖像画をもとに、作成した像なのだそうです。
家康は、その肖像画を見て反省を繰り返したとのこと。この像を寄贈した、徳川宗家十八代当主の説明には次のように書いてありました。
「自戒の像である『しかみ像』は、やがて戦乱の世を統一し、世界に冠たる平和国家を創り上げる礎になったと云われます。」
家康の堪忍は、自らの反省から来たものだったのですね。負け戦を反省したことが、勝利へとつながり、さらには、これまでの日本の歴史のなかで、いや、世界の歴史のなかでも他に類を見ないほどの平和を創り上げたと…。
なんか…この岡崎だけは、今も江戸時代なんじゃないかと思えるほどに、江戸時代が賛美されているわけですけど、実際はどうだったのでしょうかね。確かに、貧困、失業、自殺…とそんな文字ばかりが躍る現代日本は、世界に冠たる平和国家とは言い切れないですよね。
今こそ岡崎が家康の遺志を継いで、日本の、いや、世界の平和の先導を…と言いたいところですけど、今の岡崎にとってはまずはそれより、中心市街地の活性化が目先の目標でしょうかね…。
コメント
「名鉄瀬戸線100周年」でコメントさせたいただいた
元名古屋市民のmasaです。
各地からの報告ご苦労さまです。
わたし、現在は岡崎市民なので、岡崎の報告を興味深く読ませていただきました。
「江戸時代の幻影を追いかけて」の中で次のように書かれていますね。
→「15世紀前半、西郷頼嗣によって明大寺の地にお城が築城されます。その後、家康の父である松平清康が城を奪い取り、現在の地に拡張して移し「岡崎城」と称します。」←
家康の父は「松平清康」とありますが、松平9代家康の父は8代広忠で、7代清康は家康の祖父です。このページからリンクされている「三河武士のやかた家康館」のサイトでも確認できます。修正をお勧めします。
さらに精力的なレポートを楽しみにしています。
家康の父親は武田信玄だったと武山憲明さんの本で見ました。
>masaさま こんにちは
ご指摘ありがとうございます。
完全に打ち間違いをしておりました。
今後とも、あちこちレポートしていこうと思っていますので、
よろしくお願いいたします。
>びょん吉さま こんにちは
どうなんでしょうね~。