没後に出身県が変わってしまった島崎藤村-馬籠宿

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馬籠宿(岐阜・中津川市)

 中山道六十九次の43番目の宿場町「馬籠宿」。木曽十一宿のなかで最も南にある宿場町で、起伏のある坂道の両側に昔ながらの建物が今も広がります。

 平地にある東海道の宿場町とは趣が違い、坂道に沿って流れる小川には水車も見られます。そんな山間の宿場町にとって、数年前に大きな出来事がありました。それは、ずっと昔から引き継いできたアイデンティティを、根本から覆されてしまうような大きな出来事でした。

 しかしそれは住民が望んだことでもあります。かつての宿場町の面影に思いを馳せながら、面影は変わらないのに、大きく変わってしまった馬籠を見ていきます。

馬籠宿をゆっくりと散策

 中山道木曽路「馬籠宿」。600メートルに渡って広がる宿場町の両端には、無料の駐車場が完備されています。今回は南側にある馬籠館の横にある無料駐車場に車を停め、坂道を下から上に歩いていくことにします。旧中山道は午前10時から午後4時まで車両通行禁止となっていますので、ゆっくりのんびりと散策をすることができます。

 さて、南側から急斜面を登っていきますと、直角に曲がる角があります。これは「桝形」です。意図的に街道を曲げたもので、外敵の侵入を防ぐために設けられました。これは東海道の宿場町などでもよく見られるものです。一度1905(M38)年に道路改修によって消失してしまったのですが、昭和60年代に復元されています。

桝形の角には水車小屋があり、江戸時代の宿場町風情を醸し出しています。しかし実際には江戸時代のままというわけではなく、明治と大正の頃にあった大火で江戸時代の遺構はほとんど焼失しており、現在は復元されたものとなっています。

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 復元されたとはいっても、それぞれかなりの歴史がある建物です。江戸時代に宿場として栄えた頃の文書や書画、焼き物などを展示している清水屋資料館や、栗きんとんでおなじみの創業元治元年の川上屋などがあり、観光地として平日でも多くの人で賑わっています。国道や国鉄の開通によって宿場町としての役割は明治時代に既に終えてしまったものの、かつて賑わった頃のにぎやかな風情を今も残しています。

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馬籠といえばおせんべいそして蕎麦!

 馬籠については、私よりも相方が詳しいので先頭を相方にまかせて、私はついていくことにしました。すると、馬籠といって最初に思い浮かべるのはおせんべい、ということで、数ある煎餅店のなかから「つたや煎餅堂」さんに立ち寄ることにしました。梅風味や青じそ風味といった煎餅の他に、コーヒー風味といった変わったものもあるバラエティに富んだお店で、ぬれせんべいもあります。

 お店のご主人にオススメを聞いたところそれは「割煎」。これは焼いている途中で割れてしまったお煎餅、ではなくて、わざと割って醤油をしっかりと染み込ませたもの。焼きたての暖かい試食をいただくと、その醤油の風味の豊かさが口の中に広がります。もちろん全て手焼き。たまりません。この割煎はもちろんですが、他にもいろんな味のお煎餅を買いました。ぬれせんべいのゆず味を初めて食べたのですが、これまた風味が良くて渋いお茶に合いそうです。ここの煎餅はおみやげにも最適です。

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 私たちは朝から何も食べていなかったので、煎餅を口にしたら余計に空腹感に見舞われてしまいました。そこで腹ごしらえをすることに。木曽路にやってきたらやっぱりお蕎麦を食べたい。ということで、馬籠宿の坂の上にある恵盛庵へ。

 このお店は店内にある石臼で自家製粉しているそば店で、もちろん手打ち。メニューは蕎麦のみ。相方は山菜そば、私はにしんそばを注文。いかにも手打ちという、太目の蕎麦の味はもちろんのこと。山菜はしっかりと具が入っていて食べ応えも充分。丸太の椅子に座って食べる店内の雰囲気も旅情をそそります。

 店のすぐ横には道標があり、石畳の旧中仙道が北へと妻籠宿へと続いています。するとその横に何やら大きな立て札が。何だろうと思ってまじまじと見つめます。

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馬籠の大きな立て札・高札場

 そこには、親子兄弟など親類をあわれみなさい、だとか、主人なる輩は奉公に精を出しなさい、さらには人の売買はかたく停止するなどと書かれています。実はこれ、馬籠宿の高札場です。高札とは江戸幕府のお触れを通行人に示すもので、ここには昔から木曽代官による高札が掲げられていました。

 残念ながらこれは当時のままのものというわけではなくて、復元されたものですが、江戸時代にどういった決まりごとが庶民に示されていたのかを知ることができます。でも、やはり江戸時代に書かれた文章ということもあって、ちょっと全てを理解するのは私たちには難しかったです。

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馬籠出身・島崎藤村

 この高札場の先には展望台があり、そのまま妻籠宿へと旧中山道は続いているのですが、そちらには行かずに再び馬籠宿を散策します。坂道を下り、「馬籠宿」という歌を歌っている谷龍介さんのサイン入りポスターが掲げてある馬籠観光案内所の向かいには、文豪・島崎藤村の生家跡があり、現在そこは藤村記念館となっています。

 島崎藤村といえば詩集「若菜集」でデビューし、代表作ともいえる小説「夜明け前」や、童話もいくつか執筆している作家で、壮絶な人生を過ごしたことでも知られています。

 今、そんな島崎藤村をめぐって、本人の知らないところで困った問題が起きています。

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 藤村は神奈川県で「東方の門」を執筆中に亡くなっていますが、お墓は生地であるこの馬籠にあります。宿場町からは少し離れた永昌寺に眠っています。こんもりとした丘の上にある永昌寺には、藤村をはじめ島崎家代々の墓や、夜明け前の主人公のモデルとなっている、藤村の父親、島崎正樹のお墓もあります。

 墓地は丘の斜面にあるため、墓地からは木曽の長閑な風景を見渡すことができます。先ほどまでの賑やかな宿場町とは一変し、のんびりとした時間が流れます。

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没後に出生地の「県」が変わるとどうなる?

 何が問題になっているのかといいますと、これまで島崎藤村は長野県出身の文豪として扱われてきました。ところが、この馬籠のある長野県木曽郡山口村が岐阜県中津川市と越県合併をしてしまったために、藤村の出生地が岐阜県となってしまったのです。

 江戸時代の木曽地域は尾張藩領に属していましたが、廃藩置県によって名古屋県となり、筑摩県を経て長野県となりました。島崎藤村が生まれたのは1872(M5)年ですから、生まれたのは松本に県庁を置いていた筑摩県、そして4歳の頃に長野県になったいうことになります。

 しかし山口村は地形的にも文化的にも岐阜県側との結びつきが強く、多くの人が買物に行くのは中津川でしたし、テレビの放送も長野県の民放は流れておらず、民放は岐阜県のもののみが視聴できる状態となっていました。そして2005(H16)年2月13日、山口村はわが国において46年ぶりとなる越県合併を果たし、岐阜県中津川市となったのです。

 これにより、島崎藤村の出身地も長野県から岐阜県に変えるべきなのか?というのが問題になっているのです。

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 藤村は夜明け前で馬籠を舞台にしていたくらいですから、地元には愛着を持っていたものと思われます。だとしたらやはり、藤村には自分は長野県人であるという思いがあったのではないでしょうか。生地が違う県になってしまったから出身県も変わる…。まさか藤村は、没後にそんな事態に見舞われるとは思っていなかったことでしょう。

 自分に置き換えて考えてみると、生地が他県になってしまおうとも、やはり精神的には出身県は未来永劫変わらない気がするのですが、でも、実際には馬籠はもう岐阜県なわけで…。

 私の相方は岐阜県民です。岐阜県民としては、馬籠という観光地が岐阜県になったことは嬉しく思うとのこと。自分の県に観光地が増えたという嬉しさから、馬籠に詳しいという面もあるようです。

 島崎藤村の出身県は長野県?岐阜県?

 藤村のお墓から見える木曽の長閑な風景。見た目は変わらないのに、根本が大きく変わってしまった故郷を、藤村はどんな思いで眺めているのでしょうか。

関連情報

馬籠観光協会

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コメント

  1. こんにちはQ より:

    初めまして、Qです。出身県難しいですねw でも、藤村の出生当時の馬籠は筑摩県所属のはず。それも出生前年に名古屋県から編入されています。でその筑摩県は1976年にわずか5年ほどで廃止、飛騨地域と信濃地域(南信地域)に分断、それぞれ岐阜県と長野県に吸収されました。またその当時から、馬籠は飛騨地域と一緒に岐阜県への編入を希望していたんじゃなかったですかね。藤村の家は名家でしたので、その運動にも関わっていたんではなかったかと。そうだとすれば、島崎家130年の宿願とも言えますね。
    (2007/04/01 6:16 AM)

  2. トッピー@管理人 より:

    >こんにちはQさま こんにちは
    ご指摘ありがとうございます。本文中では端折ってしまいましたが、厳密には廃藩置県によって名古屋県となり、分離され伊那県との合併によって筑摩県となった頃、藤村は生まれていることになりますね。仰るとおり筑摩県はその後長野と岐阜に分割合併されていますが、松本に県庁を置く県でしたので、「現在の長野県」という表記をしましたが、誤解の無い様に修正いたしました。ありがとうございます。
    藤村の心情としてはどうだったんでしょうね…。そして今は…岐阜になったことを喜んでいるのか、それとも物心ついた頃には長野県だったから長野県民であるという意識が強いのか。
    別にどっちでもいいんだけど…と静観していたりして。
    (2007/04/01 1:54 PM)

  3. いちみ。 より:

    はじめまして。
    私は人生の4分の3ほどを生まれ故郷の中津川市で過ごしてきました。
    さて、ブログの中で山口村の中津川市への越県合併について触れておられますが、この地域には悲惨な歴史がありますので、それについて簡単に書かせて頂こうと思います。
    馬籠のある地域は、かつては長野県神坂(みさか)村に属していました。
    昭和32年、その神坂村で臨時村議会が開かれ、中津川市との越県合併が賛成多数で可決されます。
    しかし、時の長野県議会は越県合併に反対し、合併の是非を巡って旧自治省も巻き込んでの騒動に発展します。
    こうした中、長野県から「神坂村を2つに分村し、馬籠を含む地域は長野県にとどめ、残りは中津川市と合併させる」という案が示され、今度は村民が分村賛成派vs反対派に分裂し、分村を巡って親兄弟や親友同士がいがみ合うことになってしまいます。
    結局、昭和33年に神坂村は分村されてしまい、馬籠を含む地域は長野県山口村に、残りの地域は中津川市にそれぞれ編入合併されたのですが、その後「二重県境」問題が発生するなど、分村合併を巡る混乱は暫く続きました。
    今回の旧山口村の中津川市への越県合併で、分村によって引き裂かれた旧神坂村が47年ぶりに1つに戻れた訳で、藤村の出身県にまつわる郷愁はそれとして、地元の人たちの間には合併を喜ぶ声が多いのです。
    (2007/06/14 10:29 PM)

  4. トッピー@管理人 より:

    >いちみ。さま はじめまして こんばんは
    詳細な経緯のお話ありがとうございます。そうですね。新聞やテレビの報道などを見ていますと、元々山口村の人々は中津川市への編入を望んでいたというのはよくわかります。合併当時は住民が合併を喜んでいる様子も映し出されていましたね。
    ただ最近では、中津川市に合併したことで行政サービスが低下し、こんなはずじゃなかったという声がよく報道されていますね。まあ、それは越県合併したからというわけではなくて、合併した自治体ではどこでもよくある話なのかもしれませんが…。
    (2007/06/19 3:29 AM)

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