関ヶ原古戦場(岐阜・関ヶ原町)
天下分け目の関ヶ原。
岐阜県関ヶ原町といえば、1600(慶長5)年9月15日に「関ヶ原の戦い」の舞台となった場所。東軍の徳川家康と西軍の石田三成が戦い、その後の歴史を決定づけたものです。さらにはこの戦いでは、全国の大名がそれぞれの軍に二分したことから「天下分け目の戦い」と呼ばれています。
合戦から408年。こんな有名な史跡を抱える関ヶ原に、新たなる敵が現れたとのこと。今、関ヶ原でどんな戦いが起きているのか、史跡を巡りながら2回に渡って見ていきます。
まずは「決戦地」へ
関ヶ原北小学校の南にある、関ヶ原古戦場の「決戦地」へとやってきました。ここは、西軍の石田三成が陣を構えていた笹尾山のふもとの先。西軍の敗色が濃くなるなか、三成の首を取ろうと攻める東軍と、必死で応戦した西軍とが最大の激戦を繰り広げた場所です。
周囲を見渡すと、教科書などで見た関ヶ原の陣形図が想像できそうなくらい、当時の地形が今も残っており、この日は天候が悪いこともあったとは思いますが、寒気がしました。やはり古戦場では相当の数の人が怨念とともに亡くなっているわけで、桶狭間でも感じたようなゾクっとするものを感じます。まあ、気のせいなんでしょうけど…と自分を言い聞かせておきます。
西軍・石田三成陣跡へ
では、その決戦地からほど近くにある、負けた西軍・石田三成が陣取っていた笹尾山へ。三成はこの山に6,000の兵を配して、自分は山頂に、中腹に蒲生郷舎を、そしてふもとには島左近を配置していました。
西軍の陣形は、明治政府の軍事顧問となったドイツ人のクレメンス・メッケル少佐という人物が後に驚くほどに完璧なもので、戦いは西軍有利に進んでいました。そう、あの人が揺れ動いている間は…。
鬼の左近は銃弾で倒れる
ふもとに陣を構えた島左近は、石田三成が家禄の半分を与えてまでも、仕官させたと伝えられる「鬼の左近」と称された人物で、謎に満ちた猛将だったとのこと。この戦いでは石田隊の先手として布陣し、家康の本陣まで迫ろうとしたところで、銃弾を受けて討ち死にしたそうです。
左近の陣跡には、見た目からして痛そうな馬防柵が再現されています。これが結構しっかりと再現されています。もちろん、登ってはいけません。冗談で登っても、本気でグサっとなるかも。
一方こちらは簡易な囲い
馬防柵に対して、一見してすぐに壊されそうな柵が「竹矢来」です。竹や丸太を組んで作った臨時の囲いで、敵の進入を簡易的に防ぐためのものです。三成は正面にこの柵を二重にめぐらして、前面に左近を、中間に蒲生を配しました。
馬防柵ほど頑丈ではありませんが、こちらのほうがとがった部分が前面に向いているので、刺々しい印象を受けます。先端恐怖症の人にはちょっとつらいかも。
なぜ完璧なはずの西軍が負けたのか?
後に外国人が驚くほどに完璧な陣形をとっていた西軍がなぜ負けたのか。それは、小早川秀秋という人物の裏切りが鍵を握っています。
小早川は家康と裏切りの密約を結んでいたのですが、小早川はどっちについたらいいのか、戦いが始まってもずっと迷っていて、なかなか寝返らなかったのです。しかし、それに痺れを切らした家康は、小早川軍に発砲。これにより小早川は寝返り、形勢は一気に逆転するのです。
なにこれ?かぶと?
さて、その笹尾山のふもとには、兜の形をしたオブジェのようなものがあります。はて、これも当時の何かを再現したもの?と思われるかもしれませんが、当然そうではなく、これは2000(H12)年に関ヶ原合戦400年祭を記念して行われた、「関ヶ原石彫シンポジウム2000」の作品のひとつで「無限時空」です。
角は「力強さ」、割り開かれた隙間は「未来への空間」をイメージしていて、新しい何かが生まれでる予感を表す滴を持つ兜、というコンセプトとなっているのですが…。
関ヶ原にこの春開かれた空間とは
そんな未来への予感とは全く逆のことが今、関ヶ原では起きています。実はこの春、関ヶ原町の観光協会が解散してしまったのです。
日本の歴史を語る上で外せない史跡「関ヶ原古戦場」。観光資源としては充分すぎるほどのものがあるにもかかわらず、観光協会が解散という事態に陥っているのは一体なぜなのでしょうか。
観光協会が解散するというのは相当珍しいことで、観光資源に乏しい自治体でも、観光協会は大抵存在するものです。
この観光協会を解散へと導いたものこそが、関ヶ原にとっての新しい敵なのです。それは次回です。
今回は西軍の石田三成陣跡を見ましたので、次回は東軍の徳川家康最後陣跡もある、関ヶ原町歴史民俗資料館へ行ってみます。
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