- JOCKが放送を開始したは1925年(大正14年)
- 史上初の中継放送や初のプロ野球中継は名古屋から
- 太平洋戦争が開戦すると電波管制体制に
名古屋に放送局が誕生・日本初の中継
この「東海3県放送史」は名古屋を中心とした東海3県(愛知・岐阜・三重)のラジオ・テレビの歴史を振り返ってまとめる企画です。時系列に追うのではなく、トピックスごとに記事をアップします。
まずはこの地域の放送の原点です。いかにしてラジオ放送が始まったのか、そして戦時中はどのような経緯を辿ったのかを振り返ります。テレビの放送が始まるのは戦後です。戦前、戦中のラジオ放送についてまとめました。
呼出符号「JOCK」、現在のNHK名古屋放送局が初めて名古屋でラジオの放送電波を発射してから、日本初の民間放送局である中部日本放送(CBC)が誕生する前夜、終戦までを紐解きます。まずはNHK名古屋放送局が社団法人名古屋放送局として開局するまでの動きを東京・大阪と合わせて記します。
名古屋放送局(JOCK)開局
834kHz 1kW
1923年(大正12年)、日本における放送事業許可の基本方針が、法律の枠内での「民営」と決まります。現在のNHKの形態とは異なります。そして逓信省が「放送用私設無線電話規則」を制定すると、放送事業をやりたい!という許可願いが相次ぎます。
1924年(大正13年)2月1日。神野金之助(2代目)さんを総代とする「名古屋無電放送株式会社」が放送用私設無線電話の施設願いを提出、これがわが国における放送事業出願の第1号と言われていますが、出願以前から許可願いが相次いではいたわけです。
神野金之助さんは名古屋鉄道の前身である名古屋電気鉄道の設立に関わり社長となった人の長男で、この当時は名鉄の役員をしていました。のちに名古屋テレビ塔を建設、東海テレビ放送の設立にも関わります。
2月9日には前名古屋市長で弁護士、大喜多寅之助さんの「名古屋無線電話株式会社」が、5月21日には元衆議院議員でのちに名古屋市長となって名古屋汎太平洋平和博覧会を開催する大岩勇夫さんの「名古屋無線電話株式会社(同名)」が相次いで放送事業をやりたいと出願。
すると5月27日、逓信省は「1地域1局」を原則とすると発表。
名古屋は3社がひとつにまとまります。東京も同じくいくつもの出願者がひとつにまとまるのですが、大阪だけは統合工作があり難航激しく対立が起きてしまいます。
7月には犬養毅逓信大臣が「放送事業は営利法人から公益法人に変更する」と表明。
すると10月10日、名古屋は3つの会社がひとつになった「社団法人名古屋放送局」での出願に変更します。こうして名古屋放送局は誕生したのです。
日付 | 動き | 周波数・出力 |
1925年(大正14年) 3月1日 |
(社)東京放送局(JOAK)試験放送開始(芝浦) | 800kHz 220W |
3月22日 | JOAK 仮放送開始(芝浦) | |
5月10日 | (社)大阪放送局(JOBK)試験放送開始(三越屋上) | 779.2kHz 500W |
6月1日 | JOBK 仮放送開始(三越屋上) | |
6月17日 | (社)名古屋放送局(JOCK)局舎落成(南外堀) | |
6月23日 | JOCK 試験放送開始 | 834kHz 1kW |
7月12日 | JOAK 本放送開始(愛宕山)移転・増力 | 1kW |
7月15日 | JOCK 本放送開始(南外堀) | |
1926年(大正15年) 8月20日 |
(社)日本放送協会設立 JOCKは「東海支部」放送上は「名古屋中央放送局」に |
|
12月1日 | JOBK 本放送開始(上本町)移転・増力 | 1kW |
大阪の本放送開始が名古屋よりも後になっていますが、戦前の資料の時点で東京も大阪も仮放送開始をもって開局という扱いになっています。このようにして東京、大阪、名古屋の順に放送が開始され、日本放送協会という組織が発足して今のNHKの原型が日本三大都市圏からスタートしたのです。
名古屋放送局は南外堀町に建設されました。当初はラジオの放送電波もそこから発射され、1955年(昭和30年)に東桜放送会館ができるまでラジオ・テレビともにここで番組が制作されました。中部地方のラジオ・テレビ発祥の地として「NHK放送記念碑」が今も遺されています。
1925年(大正14年)10月31日、名古屋放送局が名古屋第3師団練兵場から天長節祝賀式の実況を放送。これが日本初のスタジオの外からの「中継」となりました。
芸どころ名古屋らしいエピソードもあります。1926年(大正15年)8月2日、開局1周年記念特番として市内電話線を使用して御園座の演芸大会を有線中継。これが日本初の劇場中継となりました。また12月11日には新守座から「東西大歌舞伎」を有線中継。こちらも日本初の歌舞伎の中継となったのです。さらに放送開始3周年を記念して「放送連絡舞踊・長唄」として「CK音頭」が制作され、開局記念日の1928年(昭和3年)7月15日に豊橋市小公園にて披露されました。
第2放送の開始と出力アップ10kW化
昭和に入ると名古屋の次に京城局(JODK・現在のソウル)が開局し、札幌、仙台、熊本、広島とネットワークが広がります。そして東京・大阪・名古屋の出力が10kWに増力され周波数がたびたび変更に。さらに第2放送を開始して「二重放送」がスタート。語学などの講座番組が放送されるようになります。
810kHzに変更
10kWに増力(送信所が桶狭間に)
日付 | 動き | 周波数・出力 |
1928年(昭和3年) 4月15日 |
名古屋 周波数変更 | 810kHz |
5月20日 | 東京(新郷村)・大阪(千里村) 送信所を移転し周波数を変更、同時に10kWに増力 |
東京 870kHz 10kW 大阪 750kHz 10kW |
12月27日 | 名古屋 桶狭間放送所開設 10kWに増力 | 10kW |
名古屋放送局第2放送開局
1175kHz 10kW
日付 | 動き | 周波数・出力 |
1931年(昭和6年) 4月6日 |
東京 第2放送開始 | 590kHz 10kW |
1933年(昭和8年) 6月26日 |
名古屋・大阪 第2放送開始 | 名古屋 1175kHz 10kW 大 阪 1085kHz 10kW |
この当時は第2放送には単独の呼出符号は割り振られておらず、JOCKに第1放送と第2放送があるというカタチでした。
1929年(昭和4年)10月2日、伊勢神宮の遷宮祭を中継で実況放送。1932年(昭和7年)には動物園にマイクを持ち込み、動物の鳴き声とともに解説を放送したり、その翌年には名古屋市動物園(鶴舞公園)から「動物祭」を中継、さらに1935年(昭和10年)6月7日には鳳来寺山から「仏法僧」の鳴き声の中継に成功し好評、話題となります。
一斉周波数変更と国による関与開始
名古屋第1が730kHzに
名古屋第2が990kHzに
放送局 | 放送 | 周波数・出力 |
東京中央放送局 | 第1放送 | 590kHz 10kW |
第2放送 | 870kHz 10kW | |
大阪中央放送局 | 第1放送 | 690kHz 10kW |
第2放送 | 940kHz 10kW | |
名古屋中央放送局 | 第1放送 | 730kHz 10kW |
第2放送 | 990kHz 10kW |
それまで、組織としては「東海支部」、放送としては「名古屋中央放送局」だったものが、1934年(昭和9年)5月16日に組織として「名古屋中央放送局」に改組。9月21日には室戸台風で名古屋・大阪・岡山局の電波が止まり、これにより非常用発電機の設置が決まります。
1936年(昭和11年)2月9日には鳴海球場から名古屋金鯱軍 対 東京巨人軍の野球の試合を実況中継(名古屋ローカル)。日本の放送史上初の職業野球(プロ野球)中継となりました。
その後、1937年(昭和12年)12月28日より東京中央放送局が150kWに増力します。(第1 川口・第2 鳩ヶ谷)
第1放送が「全国放送」に
第2放送が「都市放送」に
1939年(昭和14年)7月1日にそれまでの第1放送が「全国放送」、第2放送が「都市放送」と改称され、国が番組編成に関与するようになります。
1940年(昭和15年)9月1日が津出張所と岐阜出張所の開設日とされています。それ以前にも津、岐阜、そして豊橋、松坂屋内、下前津、西裏(新栄)に出張所が存在した記録はあり、それまでの出張所はサービスセンター的な扱いで、この日から放送局としての機能を持ったと考えられます。しかし電波を発射する設備は持ちませんでした。現在もこの日を両放送局の「開局日」としています。
1941年(昭和16年)に文部省用語用字統一方針により「ラヂオ」「スタヂオ」を「ラジオ」「スタジオ」に改定。そして太平洋戦争が開戦し、電波管制の時代になります。
電波管制による第2放送休止と全国同期化
1941年(昭和16年)12月8日に太平洋戦争が開戦。午前7時に開戦を伝える臨時ニュースが放送されると、その後の放送はすべて東京発の全国放送となり、都市放送(現:第2放送)は中止となります。そしてその翌日、電波管制により全国同一周波数放送となります。これは敵の飛行機がラジオの電波・周波数によって場所を把握し結果として誘導することになるのをおそれたものです。全国の送信所が同じ周波数で電波を出す同期放送を実施したのです。
放送電波管制により
全国放送(現:第1放送)が全国同一周波数に
860kHz
※東京は150kWから10kWに減力
※全国各地混信防止のため夜間は500W以下に
※都市放送(現:第2放送)は休止
全国同一周波数を
1000kHzに変更
夜間は出力を抑えたものの、電波が遠方に飛ぶことから予想よりも激しく混信が発生し受信しづらい状況となったため、全国を5群にわけて夜間だけ群別同一周波数に切り替えます。
昼間は全国1000kHzのまま夜間は群別同一周波数放送に
・第1群北部軍管区
(樺太・北海道・東北北部)
750kHz
・第2群東部軍管区・東北部
(東北南部・新潟)
700kHz
・第3群東部軍管区
(関東・長野・山梨・北陸東部)
800kHz
・第4群中部軍管区
(東海・福井・近畿・中国東部)
900kHz
・第5群西部軍管区
(中国西部・四国・九州)
1000kHz
1942年(昭和17年)1月23日、夜間の受信環境が改善できたことから東京・大阪を除いて各中央放送局の夜間出力を2kWに増力します。さらに2月10日には5kWへと増力します。これらの動きと並行して、 電波管制に伴う措置、同一周波数化による混信によって受信しづらくなった場所に50Wの臨時放送所が設置されます(終戦までに全47ヶ所)。東海3県では岐阜県高山市と三重県津市・上野市に開設されました。
・1月 津臨時放送所開局(出力50W 呼出符号なし)
※1945年7月28日に空襲で消失と同時に廃止
・10月2日高山臨時放送所開局(出力50W 呼出符号なし)
・10月15日上野臨時放送所開局(出力50W 呼出符号なし)
※電波管制下のためいずれも昼1000kHz 夜900kHz
ちなみに静岡県では1931年(昭和6年)3月21日に静岡放送局(JOPK)が、1933年(昭和8年)7月19日に浜松放送局(JODG)がそれぞれ東京の直轄局として開局。そして1941年(昭和16年)12月9日に熱海臨時放送所が開設されるのですが、この熱海臨時放送所は名古屋中央放送局の管轄になります。熱海は戦後、1947年(昭和22年)12月24日に廃止。現在のNHK静岡放送局・熱海ラジオ中継局(1963年設置)とは繋がりがありません。
その後、本土空襲に対しての警戒がさらに必要という情勢から電波管制が強化され再び夜も全国同一周波数での放送に。
再び昼夜とも全国同一周波数に
1,000kHz
そのため夜は放送が聴きづらい状態に戻ります。すると、この電波管制による防空効果に疑問が持たれ始めます。敵機は果たして本当にラジオの電波を頼りに飛行することがあるのか?ということ。その一方で地区ごとに確実に空襲に関する情報を届ける必要が生じたため、全国同一周波数放送はとりやめ、一日を通して群別の同一周波数放送となります。
昼夜とも群別同一周波数放送に
そして1945年(昭和20年)1月1日より「空襲警報放送」「警戒警報放送」が実施されるように。5月14日には名古屋大空襲により名古屋城が消失した際に近くにあった名古屋中央放送局も消失。予備演奏所からの放送に切り替わり、事務所は「名古屋日本徴兵館(中区錦)」に置かれました。桶狭間ラジオ放送所には簡易宿泊設備やスタジオも兼ね備えられていました。
終戦
電波管制解除
名古屋第1が730kHz 10kWに
名古屋第2が990kHz 3kWで再開
1945年(昭和20年)8月15日に終戦を迎え、9月1日には元の周波数で放送が再開されるのですが、第2放送用の10kWの送信機は進駐軍に接収されてしまったため、第2放送は3kWでの再開となりました。
このあと「NHK」という呼称が導入され、1950年(昭和25年)に社団法人日本放送協会が解散し、放送法に基づく特殊法人日本放送協会が設立され現在の体制になります。
名古屋では1951年(昭和26年)9月1日に日本初の民間放送である中部日本放送(CBC)が開局するのですが、実はその前に別の放送局の電波が出ることになります。進駐軍放送、AFRS(Armed Forces Radio Service)名古屋局です。戦後の流れについてはまた改めて…。
参考資料
・NHK名古屋放送局80年のあゆみ(日本放送協会)
・昭和六年ラヂオ年鑑(日本放送協会)
・昭和八年ラヂオ年鑑(日本放送協会)
・昭和十七年ラジオ年鑑(日本放送協会)
・ラジオ年鑑 昭和22年(日本放送協会)
・ラジオ年鑑 昭和23年(日本放送協会)
・日本放送協会史(日本放送協会)
・NHK年鑑1954(日本放送協会)
・NHK年鑑1955(日本放送協会)
・NHK年鑑’77(日本放送協会)
・放送の「地域性」の形成過程~ラジオ時代の地域放送の分析~
(放送研究と調査 2017年1月号)
・NHKラジオ放送にまつわる話(京滋ミーティング)
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