おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第2章 名古屋の味

名古屋コーチンを食べまくる!?

記事公開日:2004年4月3日

おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第19回

イラスト

「名古屋コーチン」

 現在では名古屋名物のひとつとして、不動の地位を築いています。しかし、私はどうもピンとこないのです。確かに昔から、鶏の手羽先や、もも肉のから揚げは好きでよく食べていました。しかし、名古屋コーチンのそれが家の食卓に並ぶことはありませんでしたし、かつてはそんなに名古屋コーチンの名を聞くことがなかったのです。

 名古屋コーチンという看板を掲げる店を、幼い頃に街中で見た記憶がありません。名古屋コーチンは高級な地鶏です。我が家は貧しかったから、食卓に並ぶことがなかったのでしょうか。幼い頃の私には興味が無かったから、看板が目につかなかったのでしょうか。そもそも名古屋コーチンとはどんな鶏なのでしょうか。

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純血名古屋コーチンの誕生

 名古屋コーチンは「名古屋種」という品種名の地鶏で、食用としてだけではなく、卵もよく産む卵肉兼用種です。体は赤褐色で、尾っぽにかけて黒くなっています。肉は脂が適度にのっていて、コクのある味わいと弾力のある食感が人気です。

 また、卵もよく産むだけでなく、とても滑らかな舌触りと、少し桜色がかった味の濃い黄身は評判となっています。名古屋の名物料理は庶民的なものが多い中で、この名古屋コーチンは地元名古屋でも高級食材として扱われています。

国産実用品種第1号

 名古屋コーチンは、全国の地鶏の代表とも言える存在です。なぜなら国産実用品種第一号だからです。では、歴史を紐解いてみましょう。

 時は、明治の初めに遡ります。明治以前、日本では食用の養鶏はあまり一般的ではありませんでした。しかし、名古屋周辺に限っては、古く安政のころから養鶏が行われていました。もともと名古屋っ子は、鶏肉を好んで食べていたのかもしれません。

 元尾張藩士の海部壮平・正秀兄弟は、明治維新によって武士の職を失いました。彼らが新たな職として始めたのが養鶏業です。まずは弟の正秀が養鶏に取り組みました。武士を辞め、最初はお店を開いていた兄・壮平も、それを廃業して養鶏に取り組みました。当初は名古屋在来の地鶏を育てていたのですが、体は1kg程度と小さく、卵もなかなか産みません。そこで交配をして体を大きく、そして卵をたくさん産む品種を作ろうと考えました。

 二人はそれぞれ、さまざまな交配を試しましたが、中国から輸入したバフコーチンと、名古屋在来の地鶏の交配が成功し、体が大きく、卵もたくさん産む「薄毛」が誕生したのです、それが1882(明治15)年のことです。

注目されたサムライ養鶏

 兄は現在の小牧市池之内で、弟は現在の名古屋市栄2丁目でそれぞれ助け合いながら養鶏に取り組みました。この薄毛は注目され、問い合わせが殺到します。特に兄は近所の農家にも養鶏を進め、池之内地区は一大養鶏地として全国に知られるようになり、各地から多くの人が見学や購入に訪れたそうです。こうして「サムライ養鶏」は広がっていきました。

 その後、薄毛は京都・大阪でも育てられるようになり、この時初めて「名古屋コーチン」と呼ばれるようになりました。1905(明治38)年には品種登録され、1920(大正8)年には現在の「名古屋種」に改名されました。

 鶏肉のことを名古屋では「かしわ」と呼びます。その由来は色や形などさまざまな説がありますが、もともとはこの名古屋コーチンを指す言葉だったとも言われています。名古屋から大阪にかけては、鶏肉を「かしわ」と呼ぶことが多く、この名古屋コーチンの広がりと似ています。その後、名前が一人歩きして鶏肉全般を指すようになり、辞書にも載るまでになったのだと思われます。

アメリカからやってきたブロイラーそしてレグホン

 名古屋コーチンは成鳥で2~4kg、卵は年に200個ほど産み、それまでの地鶏とは比べられないほどの改良となりました。ところがです。戦後、食料増産政策が進められると1953(昭和28)年には、アメリカから冷凍ブロイラーがやってきました。最初は「硬い・まずい」と言われ、「鶏肉といえば名古屋コーチン」という地位に、何ら影響はありませんでした。しかし1965(昭和40)年頃になると、卵用種として年に240~280個もの卵を産む「白色レグホン」が輸入されるようになりました。

 さらには、アメリカからブロイラーの雛が大量に輸入されました。ブロイラーは約8週間で出荷でき、名古屋コーチンの120~150日とは比べものにならない効率の良さに、全国各地の養鶏業者がとびつきました。

さんわ
▲名古屋コーチン料理の「三和」テレビCMでもお馴染みです。

鶏に求められた効率

 次第に、ブロイラーが鶏肉市場のほとんどを占めるようになります。ただ卵は、それまでの色のついた卵に対して、白レグホンの白い卵には抵抗が見られたのですが、時の流れとともにその抵抗も薄れ、卵売り場から地鶏の卵は姿を消し、白一色となっていったのでした。そして全国の養鶏業者は、ほとんどがブロイラー・白レグホンに転向、それはこの地方も例外ではありませんでした。

 なんと全ての業者が転向し、名古屋種は養鶏場から、市場から姿を消してしまうのです。名古屋コーチンは過去のものとなってしまったのです。

 そして数年経った1973(昭和47)年、ふとある名古屋っ子が思い出すのです。

「そういえば最近美味しい鶏肉を食べていないな...。久々にコーチンを食べたいな...。」

 しかし、名古屋っ子がそう気づいたときには、もう遅かったのです。既に名古屋コーチンは絶滅状態でした。もう食べられないとなればさらに食べたくなるものです。その声は次第に大きくなっていきます。

農業センター
▲名古屋コーチンを現在も研究する、名古屋市農業センター。

名古屋コーチンを取り戻せ!

 この年、まず動いたのが名古屋市農業センターでした。名古屋コーチンの種鶏の確保に乗り出します。それと同時に、再度名古屋コーチンを交配によって復活させるべく研究がスタートします。

翌年には養鶏農家や食鳥処理業者、そして料理店によって「名古屋種改良研究会(同年名古屋種振興会に改称)」が組織され、のちに販売店も加わり、商品としての名古屋コーチンの普及方法の研究が始まります。しかしなかなか事はうまく進みません。時間は過ぎていきます。8年後の1981(昭和56)年には「名古屋コーチン普及教会」を設立し、流通経路の確保に本腰を入れます。

 そして、探し始めてから10年経った1983(昭和58)年、岩手県に名古屋コーチンの純血種が残っているのが発見されます。さらに1984(昭和59)年には愛知県農業総合試験場が、遺伝資源として保有していた名古屋コーチンを、食用として復活させることに成功します。

 折りしも日本はバブル真っ只中。グルメブームが巻き起こっていました。「絶滅しかけた幻の鶏」という肩書きを持つ名古屋コーチンにとっては絶好のチャンスでした。マスコミでも多く取り上げられ、その貴重さと味の良さで、たちまち人気となったのです。

一過性に終わらなかった名古屋コーチン

 バブルが崩壊した現在も、ブロイラーには無い名古屋コーチン独特の味を求める人々は絶えることなく、名古屋名物のひとつとして人気を保ち続けています。私の幼い頃の記憶に、名古屋コーチンが無いのは当たり前なのです。その間、名古屋コーチンは名古屋、いや世の中ら姿を消していたのですから。

 名古屋コーチンを食べるたびこの歴史を思い出します。人間の都合で変えられる生態系、交配させられ絶滅させられ、人間に翻弄された鶏たち。そんな経緯に思いを馳せながら、時には味噌煮込みの中で、また時にはすきやき、しゃぶしゃぶで、そして時には串焼きで「かしわ」にお目にかかれることを嬉しく思います。

常に合理化、利益追求

 こんなにおいしい名古屋コーチンを、名古屋っ子はなぜ、絶滅状態にまで追いやってしまったのでしょうか。

 部品の在庫を持たず、生産工程で必要になったときに必要量だけ調達する、というトヨタ自動車のカンバン方式に見られるように、名古屋っ子はビジネスにおいて合理性、利益率を常に追求しています。その名古屋っ子の現実主義が、名古屋コーチンを絶滅させてしまったのかもしれません。

 しかし名古屋の先人が苦労の末に開発し、「名古屋コーチン」と呼ばれ「名古屋種」として登録されている「名古屋」の誇りである地鶏を、いとも簡単に地元ほとんどの養鶏業者が放棄してしまうとは驚きです。

 絶滅しかかったの理由は、本当に飼育放棄だったのでしょうか。そのあまりのおいしさに、名古屋っ子が全ての鶏を食べ尽くしてしまったという説もあるとか...。もちろん冗談でしょうけど、でも、このおいしさならあり得るかも...と思えるほど絶品ですよ。これからは、食べ尽くさないように気をつけないといけませんね。

イラスト
▲名古屋コーチンを食べる時は、存在していること自体にも感謝して...。

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