★モリコロパークではありません
★あの大皿は健在
★瀬戸市にとって愛・地球博とは何だったのか
2005(H17)年に開催された愛・地球博(愛知万博)。もう、その記憶も結構薄れてしまったという方も多いかもしれません。あれから7年ですものね。かつて、万博閉幕後に「燃え尽き症候群」となってしまった人たちも、ほとんどは立ち直っていらっしゃることと思います。なかには、あれからずっと世界中の万博を追い続けている人もいるようですが。
さて、その万博会場跡地にある公園と言えば?
「モリコロパーク!」
ですよね。でも、もうひとつ別の公園があるのです。そう、本当ならそこで万博全てを開催するはずだった、瀬戸市の最後の意地。万博に賭けた瀬戸市の思いを、感じ取ってください。
今回は、瀬戸万博記念公園「愛・パーク」に、瀬戸市が求めた万博とは何だったのかを見に行きます。
瀬戸会場って覚えてます?
地元の方は覚えていらっしゃると思いますが、遠方から数回だけ万博に訪れたという方は、訪れることが少なかったのではないか、そんな気がするのですが、愛・地球博には、メイン会場の「長久手会場」とは別に「瀬戸会場」がありました。
瀬戸会場には、「瀬戸愛知県館」「瀬戸日本館」「海上広場」「市民パビリオン」「里山遊歩ゾーン」「ウエルカムハウス」「焼き物モニュメント」がありました。7つです。設置された施設はこの7つで全てです。
そのうち「焼き物モニュメント」こと「天水皿n(n乗)」は今も残され、その周辺に整備されたのが、この公園です。オープンしたのは2009(H21)年3月20日、万博の閉幕から3年半が経過していました。
開催当時は、皿の西側に「瀬戸ゲート」と「ウェルカムハウス」があり、道路を挟んで東側にそれ以外の施設が並んでいました。
瀬戸市は買い取った
現在は、その天水皿nの前に管理棟が建設され、その上が展望台のようになっていて、そこには愛・地球博のマスコットキャラクターであったモリゾーとキッコロのモニュメントがあり、その向こう側に、天水皿nが見渡せるようになっています。
このお皿は、直径30メートルの大皿に、丸皿約3万枚を貼り付けたもので、「せとものの瀬戸」を象徴したオブジェとなっています。制作費には3億円がかかっており、多く個人、企業、団体からの資金で作られたとのことですが、そのうち、結構な額を瀬戸市が負担していると言われています。
この公園が整備されたということは、お皿を瀬戸市が買い取ったの?と思われるかもしれませんが、実はこの公園敷地自体、瀬戸市が愛知県から用地を買い取って整備したとのこと。太っ腹ですね。
なぜ、モリコロパークだけではいけないのか、なぜ、愛知県の公園ではいけないのか、どうして、瀬戸市の公園が必要だったのか。それは、後にわかります。
公園部分は本当に一部だけ
管理棟の上から周囲を見渡しますと、かつて瀬戸ゲートのあった場所は、綺麗に整地され、宅地に生まれ変わろうとしているように見えます。反対に、パビリオンなどがあった場所は、瀬戸愛知県館が県管理の「ムーアカデミー(あいち海上の森センター)」となり、県の体験学習施設として生まれ変わっています。
そうなんです。瀬戸会場跡地も、大半は長久手会場跡地のモリコロパークと同様に愛知県管理の施設になっているのです。なのに、わざわざ、この公園部分約1.28ヘクタールを、県から買い取ってまで瀬戸市管理の公園としているのです。
公園部分を見渡しますと、いかにも公園という配色の「愛・パーク」という看板が設置された複合遊具施設に、つばき園、池にあずまやと、天水皿nを除いては、いたって普通の公園です。近くにある団地の親子連れや、犬の散歩がてら近所の人が遊びに来る程度の、そんな感じです。駐車場が36台分と、公園の規模の割りに多いあたりが、普通の公園とはちょっと違うところでしょうか。
芝生の広がる広場には「地球市民広場」という大層な名前がついていますが、普通の芝生広場です。
ただ、天水皿nともうひとつ、万博に思いを馳せる重要な展示物が、管理棟にあったのです。それでは入ってみましょう。
瀬戸ならではの万博回顧
管理棟には、万博開催当時のグッズやユニフォーム、ハッピなどが展示されています。それらに関しては、瀬戸会場ならではというわけではなく、愛・地球博全体を懐かしむことができる展示内容となっています。
電気事業連合会のパビリオンだった、「ワンダーサーカス電力館」のマスコットキャラクターだった「フク丸」グッズを見ると、ふと、今とあの頃では、電力会社を取り巻く状況は全く変わってしまったな…と思わずにいられません。
注目していただきたいのは、万博開催期間中の展示物ではなく、万博の誘致活動をしていた頃のグッズです。
まだ、万博のシンボルマークが「ドラッグスギヤマ」みたいなマークだった頃のマグカップやお皿、シールなどがズラリ。
そう、これこそが、瀬戸市にとっての夢のあと、なのです。
どういうことかといいますと、これらのグッズをよく見ますと…。
「瀬戸で国際博を」「瀬戸の地に万博を」「EXPO 2005 SETO」
「実現しようEXPO2005・主会場:愛知県瀬戸市南東部」
そうなんです。当初の計画では、万博は全てこの瀬戸市で開催するはずだったのです。
「海上の森」を主会場として、万博会場を整備し、万博が終わった後は住宅地として研究施設として、開発するつもりだったのです。瀬戸市はそれにより人口増、税収増、さらには道路も立体交差の環状線を建設、ここから名古屋そして東名と高速道路で直結するという、構想を描いていたのです。
しかし、この海上の森で「オオタカ」が発見され状況は一変。自然の叡智をテーマにした万博を、自然を破壊して開催するのかという批判。
結局万博は、既存の「愛知青少年公園」を改修してメイン会場とすることとなりました。そこは、瀬戸市ではなく長久手町(当時)。一番熱心に誘致活動をしてきた、瀬戸市を立てる形だったかは知りませんが、申し訳程度の瀬戸会場が作られました。
そう。当初の計画なら、近未来都市となっていたはずの森の横に、この小さな公園だけが、万博の痕跡として瀬戸市に残されたのです。
結果として、森は守られました。果たして、ここに巨大な住宅団地や研究施設が作られていたところで、少子高齢化、産業の空洞化のこの時代、どうなっていたのかなんてことはわかりません。絵に描いた餅を仮定して話すことほど、無粋なものはありません。
1997(H9)年6月に開催国が決まるまで、瀬戸市は熱心に誘致活動を行ってきました。瀬戸市民は「瀬戸で万博」だとずっと思っていました。そして開催国は「日本・愛知」に決まり、万博は当然、瀬戸で開催されるものだと思っていたものが、棚から絵に書いた餅が落ちるように長久手へ。
ただ、あれから瀬戸市は変わったような気がします。
愛知県で5番目に市になったという老舗のプライド、かつては今の豊田市並みだった窯業による産業都市としての自負、衰退する窯業の代わりをも何としてでも獲得したいという意地。それらが全て吹っ飛んでしまったような感じがするのです。
確かに今の瀬戸は、経済的にも産業的にも元気とは言い切れない状況かもしれません。しかし、歴史と伝統と文化そして自然あふれる調和のとれた街であることには、疑いの余地がありません。
この愛・パークから眺められる、広大な海上の森。それまでの高度経済成長から続いた開発から、自然との調和へ。実は瀬戸市は、日本の転換期において、その指針となる最初の大きな選択をしたと言えるのではないでしょうか。
「した」というより「させられた」が正解かもしれませんが。
お皿を作ったのも億単位、公園を整備したのも億単位。瀬戸市って、貧乏なフリして実はもってるよね。
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