戦国と泰平が隣り合わせ・歴史の証人-国宝松本城

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国宝松本城(長野・松本市)

前回は、天下分け目の「関ヶ原合戦」で知られる岐阜県の関ヶ原町を訪れ、その生々しさを感じましたが、当時の面影を残す建造物などはほとんどありませんでした。まあ、戦いの舞台にそんなものを求めるのは元々無理んなわけですけれども。

そこで、その当時の建造物を見ることで、戦国時代にもう少し思いを馳せてみようということで、今も昔からの姿を残す、長野県松本市の「国宝・松本城」へと行ってきました。

さすが400年以上そこにあり続けるだけのことはあります。まさに戦国時代と、その関ヶ原合戦の後に訪れた泰平の世とが、隣り合わせになっていました。士気の高揚と優雅な気分を一気に味わえる松本城。

しかしそこでまさか、名古屋っ子のがめつさを見ることになるとは。

いきなり感じる戦国時代

入城すると、やはり名古屋城などの再建されたお城とは雰囲気が全然違います。天守の1階は、食糧や弾薬などの倉庫であったと思われる場所で、かつては柱の間に壁があり、それぞれ部屋がわかれていたと推測されています。

その1階を取り囲む周囲の1間通りは、内側の床よりも50センチ低くなっていて「武者走」と呼ばれています。いざ戦闘となった際には、武士が矢玉を持ってその場所を走り回っていたことから、この名前がついたといわれています。

なるほど。この弾薬庫から玉をつめて走り回っていたと。しかも再現ではなく実際にここを走り回っていたのですね。

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防御のための直接攻撃

1階には矢狭間や鉄砲狭間、石落といった、石垣を登ってくる敵に対して、矢や鉄砲を放ったり、石を落としたりする小窓が実にたくさんあります。矢狭間は60ヶ所、鉄砲狭間は55ヶ所、石落は11ヶ所にも及びます。

松本城の天守が築造されたのは、関ヶ原合戦よりも前ですので、その後のお城とは違い、戦国時代をリアルにバトルしてきたお城なのです。それをさらに感じさせてくれるのが2階です。

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ここまでたくさんあると…

天守2階は「松本城鉄砲蔵」と称していて、松本市出身の故赤羽通重夫妻が寄贈した、火縄銃と関連資料のコレクションが展示されています。火縄銃そのものだけではなく、装備品や文書類などもあり、その充実ぶりは目を見張るものがあります。

松本城の天守が作られたのは1593~94(文禄2~3)年と伝えられていて、当時は我が国に火縄銃が伝わってから既に50年が経過しており、戦の舞台は火縄銃たけなわとなっていました。

松本城の天守の壁が厚い塗りごめになっているのは、火縄銃の攻防を想定してのものだそうで、そんな時代を、このお城はくぐりぬけてきたわけです。

それにしても、ここまで銃がたくさんあると、戦国時代の血生臭さをその数によってさらに色濃く感じさせてくれます。

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やっぱりすごく戦略的

天守の3階には窓が一切ありません。言うことを聞かない奴とかの、何かのお仕置き部屋かと思ったらそうではなく、ここは戦の時に武士が集まる作戦部屋だったとのこと。この松本城の天守は外から見ると5重に見えるのですが、実は6階構造。この3階は、外からは存在していないように見せることで、敵にバレないようにしたわけです。

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険しいのは構造上?それとも象徴?

そして4階は書院造り風になっていて、いざという時には城主がいる「御座の間」で、続く5階は重臣たちが戦いの作戦会議を開く場所でした。

それにしても、ここまで階段が本当に急で、お年寄りの方は苦労されていました。松本城の階段はどこも55度から61度と急勾配で、特に4階から5階へと上る階段は最も険しいのです。

まあ実際、5階で作戦会議をしていた、重臣クラスに出世する階段も相当険しかったのでしょうけど。

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天守閣には守り神

いよいよ最上階、天守6階です。戦の時には、ここから周りの様子を見て戦況を判断していたところて、四方を一望することができます。南側には松本市の街並みを見ることができます。築城から400年以上が経過し、周囲の風景は変わりビルがたくさん見られますが、それでも充分に見渡せる高さがあります。また、その向こうには山並みを見ることもでき、山に囲まれた長野県を体感することができます。

また6階には建言書や懇願書などが展示されていたり、二十六夜社が祀られていたりします。天守閣に神さまを祀るとは。やっぱり最後は神頼み?

今では松本城は国宝になっていますが、明治に入ったばかりの頃、もうお城は古い!と、城を破壊・売却という世の中の流れには逆らえず、かなりの危機的状況まで追い込まれたにもかかわらず、市川量造や小林有也らの尽力によって、この松本城は壊されずに済んだことを考えると、二十六夜社はかなりの守護神といえるのかもしれません。

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時代は一気に移り変わり…

では天守閣から隣の「辰巳附櫓」へと足を進めます。ここからは泰平の世が訪れて以降の増築部分になりますので、それまでの戦のお城とは趣が一気に変わります。

その名のとおり、天守の辰巳(南東)方向にある「辰巳附櫓」は、寛永時代に城主・松平直政の手によって造られたものです。2階の「花頭窓」は、禅宗建築として中国から鎌倉時代に伝わり、次第に城郭建築にも取り入れられるようになったもので、内側には引分板戸があって、雨水を流せるようになっています。

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さらに優雅な空間へ

そして、辰巳附櫓と同時に増築された部分が「月見櫓」です。ここはその名のとおり、お月見をするためだけの場所で、徳川家康の孫である松平直政が、三代将軍家光を迎えるために増築したもので、現存するお城のなかで天守と一体になった月見櫓を持つのはここ松本城だけです。

北・東・南に設けられた舞良戸を外すと三方が吹き抜けになります。

風の心地よい季節の夜に、ここから月を眺めたらどれだけ優雅なものか…。想像しただけで気持ちが豊かになります。さっきまでの、鉄砲だの矢だの石落しだの、そんな時代とは全く対照的。歴史の重みだけでなく、深さを感じさせてくれます。

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御殿はありません…

天守閣の周囲には、何も無い場所が広がっています。手前は本丸御殿跡。天守が完成した後に建設された本丸御殿は、城主の居所と政庁を兼ねていたのですが、1727(享保12)年に焼失して以降、再建はされていません。

また、お堀の向こうにある二の丸御殿跡は、本丸御殿が燃えた後に藩の政庁が移った場所で、幕末まで使用されていました。でも発掘されたのは1979(S54)年と意外と最近。

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さすがの名古屋っ子

そんな本丸御殿跡の手前に桜の木が1本あります。これは「清正公駒つなぎの桜」と伝えられているものです。名古屋の中村生まれで、豊臣秀吉に家臣として仕えた加藤清正が、熊本城主となり、熊本から江戸に出向いた際、帰りにこの松本城に立ち寄り、その時にこの木に馬を繋いだとされています。

そこにこんなエピソードが。

当時城主だった石川玄番頭は、遠くからわざわざ寄ってくれた清正に対して、2頭の馬を見せ「土産にどちらでもお気に召した方を1頭差しあけましょう」と言いました。

すると清正は「貴殿の目利きで取り立てた駒(馬)を、我らほどの目利きで選んでは誠に申し訳ない」と言い、

そしてなんと、「2頭とも申し受けるのが礼儀と心得る。」と言って、2頭とも持って帰ってしまったというのです。

さ…さすがの名古屋っ子。

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歴史を乗り越え今がある

このように松本城は、関ヶ原の合戦よりも前の戦国時代から、江戸時代を経て、明治維新を乗り越えて今ここにあり続けているのです。

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そしてそのお城には、戦国時代の生々しい名残と、江戸の泰平の世の優雅な空間が同居しています。まさに歴史の生き証人と言って良いでしょう。

それにしても、金の斧も銀の斧も両方もらっていってしまうという、そんな感じの勢いがある加藤清正はすごいですね。一つ話術の勉強になりました…って…どこで使おうかな…。

関連情報

国宝 松本城 - 松本城をより楽しむ公式ホームページ

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