関ヶ原町歴史民俗資料館(岐阜・関ヶ原町)
前回は関ヶ原の戦いの決戦地と、そこから程近い、西軍の石田三成が陣を構えていた笹尾山を見てきました。そして、関ヶ原町の観光協会が解散してしまったという現状をお話しました。
今回は、対する東軍・徳川家康の最後の陣跡がある、関ヶ原町歴史民俗資料館周辺と、国を二分するほどの古戦場を観光資源として持つ関ヶ原町に現れた、観光協会を解散にまで追いやった新たなる敵、戦いについてお話します。
神社は意外と新しい
関ヶ原町歴史民俗資料館のすぐ横には、関ヶ原の合戦で失われた、幾千、幾万とも言われる戦死者を弔うために建立された御霊神社があります。
この神社の由緒書きによりますと…。
合戦の戦死者のなかには、子孫も絶えてしまい慰霊すら行われていない将兵も多くあるのではないか、という想いから、関ヶ原振興会が広く有志の浄財を呼びかけて、合戦380周年の1980(S55)年の4月に建立したもので、意外と新しい神社です。<
毎年9月14日には慰霊祭が行われているとのこと。そう考えると、このあたり一帯には今も行き場を失った霊…いや、そういうことを考えるのはやめておきましょう…。
家康の最後の陣跡
御霊神社のすぐ横には、東軍の徳川家康が最後に敷いた陣跡があります。合戦が進むにつれ、桃配山に陣を構えていた家康は、一気にこの場所へと本営を進出させたのです。西軍の石田三成が陣を構えていた笹尾山から、わずか1キロの地点です。
家康は三成に反感を持つ武将たちをうまく操り、前回お話しましたが、小早川の裏切りをきっかけに、完璧だったはずの陣形を組んでいた西軍を落とすことに成功したのです。
徳川家の家紋の幟が今もはためき、なぜか不思議と当時の様子を想起させます。やはり今もここに霊が…だめだめ。
家康自ら死をチェック
ここは家康にとって最後の陣跡であると同時に、首実検の場でもありました。合戦が終わると、部下たちが取ってきた首を家康自らが実験しました。つまり、その首が本人のものであるかどうか、本当に敵が死んだかどうかをそれぞれ確認したわけです。
その様子がイラストで再現されていまして、絵のなかにある松の木と、実際にある松の木が当たり前のことですが目の前で重なり、やっぱりここには、その首の霊が今も漂っているような気がしてなりませんでした。あーあ、言い切っちゃった…。
その後の日本を決めた戦い
では、関ヶ原町歴史民俗資料館に入ってみましょう。入場料は310円です。入口には、顔を出して記念撮影ができる鎧兜の絵があります。直感で自分の首を入れてみてください。もしそれが東軍側なら勝ち組、西軍側なら負け組です。あなたの人生を占ってみましょう。
館内は撮影禁止となっています。合戦の様子を描写した合戦図屏風や、実際に合戦で使われた矢鏃や、複製ではありますが家康、三成それぞれが使用した兜、甲冑などが展示されています。また、大きな陣形図を使用して、戦いの動きを説明してくれるパネルもあり、関ヶ原の合戦を把握することができます。
さらには、テレビドラマの映像を使用したシアタールームもあり、有名俳優さんの演じる関ヶ原の合戦映像で、ダイナミックに感じることもできます。
この戦いに勝利した徳川家康は、2世紀半に渡って泰平の世を実現することになります。まさに、天下分け目の戦いだったわけです。
しかしその後の日本は、家康が築いた泰平の世も崩れ、高度経済成長も終わり、今では再び勝ち負けを競う格差社会となっています。
人生誰にも、そんな将来を二分する戦いがやってくるのかもしれません。
関ヶ原も頑張ったけど…
関ヶ原町は今も戦い続けています。
関ヶ原は決して豊かな町ではありません。しかしこの古戦場などを観光資源として生かし、盛り上げようといろいろな取り組みが行われてきました。
笹尾山に兜をイメージしたオブジェがありましたが、民俗資料館の前にもありました。こちらはなんだか扇のような形をしています。
タイトルは「時の扇」。やはり関ヶ原合戦400年祭記念で行われた「関ヶ原石彫シンポジウム2000」の作品で、扇と盃をモチーフに、自然の移り変わりと歴史の推移との2つの流れを表現したものだそうです。
さらには、その400年祭のメインイベント開催記念碑があるほか、旧陸軍火薬庫の衛門近くにあった、搬出入道路として架かっていた「瀬古川橋」の一部が保存展示されています。この橋は、大正時代としては最高の技術と莫大な経費で作られたもので、橋の親柱や欄干には陸軍マークが入っていました。ちょっとごった煮感はありますが、このように観光資源を大切にして、関ヶ原町は町おこしを図ってきたわけです…。しかしです…。
観光協会が解散した理由
関ヶ原町観光協会は、この3月末をもって解散してしまいました。
観光協会には町内の観光施設や商店など93団体が加盟していたのですが、近年は既に協会としての機能は果たしておらず、町役場の職員が実務を全て行っていました。ですから、観光協会が解散したところで、町役場が独自でやることに何の抵抗もないわけですが、そもそもなぜ観光協会はこんなことになってしまったのでしょう。
新聞報道によると「国の史跡なので独自の行事ができない。付き合いで入っている人が多く機運も盛り上がらなかった」という会長の談話がありました。
結局は、どんなに豊かな観光資源があったとしても、それを生かして町おこしをしよう!という心意気が無ければ意味が無いということですね。
町としては、観光協会に代わる新しい組織を立ち上げようとしているとのこと。
関ヶ原の前に立ちはだかる「無気力」という敵。家康なら、どう攻略したでしょうかね…。
コメント