▲金沢市街。駅の東側にはビルが立ち並びます。西側は田んぼ。
金沢城公園・兼六園(石川・金沢市)
金沢では料亭旅館に宿泊しました。と、なれば一番のお楽しみは食事です。その宿の食事ですが実に豪華でした。さすが料亭旅館です。金沢の郷土料理である「治部煮」を中心として、アレンジされた加賀懐石。しかも部屋食でしたのでかなりゆっくりと食べることができました。しかし、相変わらず食べるのが遅い私達。
女中さんは何度も食べ終わったかどうか確認に来られましたが、一向に食べ終わらない私達。すみませんね、後片付けを遅らせてしまって…。それくらいボリュームもあるということです。
一夜明け、金沢市内に繰り出すことにしました。やはり金沢と言って真っ先に思い浮かべるものと言えば「兼六園」です。早速向かうことにします。金沢市内の主な交通機関はバスです。いくつもの路線の周遊バスを北陸鉄道が走らせており、1回200円で乗車することができます。また、1日フリー乗車券も500 円とお得なのでこれを利用することにしました。
ところが、これは周遊バスのみで通常の路線区間のバスに乗ることはできません。しかも、私たちの宿泊した金沢駅西側のバスは対象外となっているだけでなく、実に本数が少ない。仕方なく30分ほどかけて駅まで歩きました。タクシーに乗ればいいのですけど、このあたりがケチな名古屋人根性丸出しと言いますか…。名古屋ではこういう時「テクシー」で行くと言います。この言葉は名古屋に限ったことではないようですが。
さて北鉄の周遊バスで兼六園へ、兼六園と金沢城公園は隣り合わせになっているため、一度に行くことにしました。まずは兼六園。ここは加賀藩5代藩主前田綱紀(つなのり)から13代藩主斉泰(なりやす)までの藩主が造り上げた、「築山・林泉・廻遊式庭園」となっています。完成するまでには170年もの歳月がかかったそうです。なぜ「兼六園」と言うかといいますと、六つのすぐれた景観を兼ね備えているからだそうで、その六つとは「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望」とのこと。水戸偕楽園、岡山後楽園と並び、日本三名園のひとつとなっています。
この兼六園、通常は300円の入場料が必要なのですが、無料開放をしていることがたまにあります。私達が行ったこの日はちょうど無料の日だったため、とてもラッキーでした。まずは写真などでよく見る「霞ヶ池」に行ってみましょう。ここにある「徽軫灯籠(ことじとうろう)」は有名ですよね。この池は兼六園一の大きさで、面積は約5800平方m、深さは最も深いところでなんと1.5mもあるとのことです。
▲「兼六園」です。あ、このショット、テレビで見たことある!って感じ。
そして、この池から水を低地に引き、その高低差の圧力で噴き上げている噴水があります。全く自然の力のみで、一切電気などの力は使われていないとのこと。それは当然で、文久元年(1861)年に作られていますからね。水の高さは約3.5mにも及びます。もちろん日本最古の噴水と言われています。最初に考えた人は凄いですよね。水を噴き上げさせること自体を発明したようなものですから。
▲日本初の噴水。水を噴き上げると綺麗と最初に思った人は凄い。
続いては「雁行橋(かりがねばし)」。この橋は雁が夕空に列をなしている様にかたどってあります。また、石の形が亀の甲羅に似ていることから、「亀甲橋」とも言われています。この橋を渡ると長生きするとされています。そして「花見橋」からは季節によっていろいろな花を見ることができます。流れる曲水に沿って、4月は桜、5月下旬からはカキツバタなど。しかし花だけではなく夏の緑陰もとても綺麗でした。雪景色も合いそうですね。
▲行橋です。この時は渡れましたが老朽化で現在は渡れません。
少し歩きますと、日本で最初に建てられた銅像と言われます日本武尊像があります。西南戦争で戦死した石川県の軍人の霊を慰めるもので、1880(M13)年に建てられました。日本武尊像の横には、石川県戦士尽忠碑を据える明治紀念之標もあります。
▲日本武尊像。これだけは時代が違い、ちょっと雰囲気も違いますね。
真夏真っ盛りで、結構暑かったのですけれども、街中に比べればそれでも涼しかったです。緑の多さと、綺麗な景観を目にすることで涼を得る。風流ですねぇ。私たちは寄りませんでしたが、中にある時雨亭では煎茶や抹茶をいただくことができます。長谷池を眺めながらの一服で、歴史を感じてみてもいいですね。ただ、真夏はちょっとそういう気分にはなれませんでした…。
さて、兼六園のすぐお隣り、金沢城公園へと向かいます。この金沢城、昔からのものではなく現在あるのは復元されたものです。当時のまま残っているのは石川門と三十間長屋くらいだそうです。しかも1978(S53)年までは敷地内に金沢大学があったそうで、それを17年かけて移転させて、少しずつ復元しているのです。
▲金沢城公園です。芝生がまぶしい。再建されたばかり綺麗です。
この時はNHK大河ドラマ「利家とまつ」にあわせて加賀百万石博が開催されていて、物販・飲食の楽市楽座や、百万石シアターといったものや、大河ドラマ館もあり、簡単な衣装を見につけて、記念写真を撮影することもできました。もちろん私たちも撮ってきました。
また、百万石占いコーナーでは、自分が戦国時代に生きていたら、利家、信長、秀吉、成政のどのタイプになるかをコンピュータに占ってもらうことができました。私の結果は豊臣秀吉でした。やはり名古屋人としての血が私には流れているなぁ、と思ったのですが良く考えたら4人とも名古屋出身者でした。あぁ、名古屋が歴史の中心だった時代があったんだ…と感慨深くなってしまいました。
▲加賀百万石博ということで、暑い中沢山の人が来ていました。
普段の金沢城公園はと言いますと、藩政時代から残る石川門と三十間長屋のほかに、菱櫓、五十間長屋、橋爪門続櫓が復元されています。釘は一切使われていない木組み構造となっていて、その点では神社仏閣と似ているような気もするのですが、お城はそれとは全く思想は異なり、戦のための砦として、防御と反撃について徹底的に考えて作られているのです。
窓の位置ひとつを取ってみても、微妙にずらしてあり死角ができないようになっていたり、出窓からは石を落とせるようになっています。これは石垣をよじ登ってくる敵に対して攻撃できるようにするためです。
金沢城公園の後は金沢市内の散策へと向かいます。金沢、北陸で一番の都会と聞いていましたが、いざ行ってみますとそこまで雑踏という感じもなく、ゆったりと時間が流れている街という印象を受けました。決して思ったよりも田舎だったと言ってるのではなくて、兼六園といった昔からの景勝地や、古い橋、加賀百万石の時代を今でも感じることができる素敵な街ですね。
ただ、北陸とはいえ夏はやっぱり暑い。海の幸ということを含めても冬に一度行ってみたいですね。雪も金沢には似合いそうですね。でも金沢は豪雪地帯ですから、普段雪道では全く運転しない私には。ちょっと無理かもしれませんよね。
このときは、本当に地元は盛り上がっていて、金沢の街中を歩いていても、「利家とまつ」のポスターをあちこちで見かけました。旅館へ戻ると、大きなポスターが貼ってあることに相方は気づき、「これいいなぁ。」と言いながらじっと見ていました。
すると、気さくな女将さんがやってきて、「欲しいんならあげようか?」と言って大きなポスターを1枚くれました。NHKの番宣用でしたが、金沢の旅館などにもたくさん配られていたようですね。うちの相方、そんなに物欲しそうにしてましたかね。そんなに大きいの貼るところないでしょ…。というくらいの大きさでした。
コメント
Toppy様、一番良い時に「金沢及び兼六園」に行かれましたね。以前申し上げましたが 私が35年前「尾張・岩倉」を離れて一年間暮していた所です。
当時は今ほど、「金沢駅」周辺も都市化されていなくて平均的な「地方都市」でした。
彼の地での暮しは「尾張」と違い「物価」が高いのです。愛知県では「個人・小売店」でも定価ではなく、「割引・価格」で販売していますよね。「金沢」では全て「定価」販売でした。此れには お袋も驚いていました。「産地」であるにも拘わらず「魚、野菜」が愛知県に居た時よりも 高いのです。
又「商売人」が客に対し、大威張りで商売している店も在りました。言い方は悪いですが「田舎者・商売」と感じた程です。もっとも現在では「大手・小売業」も進出して来た為、多少は変わった事でしょう。
私が彼の地で経験した事は、他所から来た者に対する「締め付け」でした。「名古屋弁」を言おう物なら「莫迦にされ」、「彼らが持って無い物、知らない物」を持っていたり知っていると「リンチ」を受ける目に会います。
私が「地元の人間」と溶け込もうにも 少しでも「異質な部分」が有ると「排除」されました。子供の世界ならば尚の事、ストレートに感情のぶつかり合いが起きるのです。
私が「尾張・岩倉」に居た頃、「転入生」は多く来ましたが我々「尾張人」は子供と言えども「諸手で歓迎」した物です。それが「金沢」では「拒絶」で迎え「屈服」しない限りは「受け入れ」てくれないのです。
遂に「ブチ切れた」私は彼らにこう言いました。
「前田利家は、子供の頃は織田信長の”子分”だったじゃないか。」
此れには「金沢」の子供も何も言えません。しかして「加賀百万石」を自慢し「他府県民」を見下す彼らは、この一点が受け容れ難い「史実」なのか その日の放課後、小学校の裏庭で私を「リンチ」にかけました。その中心人物は 全校児童を裏で操る小学六年生の「番長」。(この時、私は”本宮ひろしの漫画”をリアルで体験しました)本当に「ガキ大将に子分たち」がいたのです。「金沢」に居る間この様な事はずっと続きました。
「金沢」での暮しが一年経とうとする頃、親爺の「転勤」で東京に移る事が決まった時、今度は「東京へ出て行く者」として、又しても「番長」は私を「リンチ」にかけました。
入って来る「余所者」を屈服しない限りは「排除」し、東京に移る者を「地元を捨て行く者」として「制裁」を下す。入るも出るも、どちらにしても「血の制裁」を受ける事には変わり無かったのです。
私が東京に移った時、学校でも地域社会でも「諸手で歓迎」を受けました。それは、嘗て私が「尾張・岩倉」に居た時に「転入生」を受け入れた状態と全く同じでした。
「尾張・名古屋」の”信長、秀吉自慢”「三河・岡崎」の”家康自慢”は有れど、他所から入って来る者の「価値観」まで否定する事は「愛知県民」は、しなかったのを私はよくよく感じています。
Toppy様「耳触りの悪い話し」を長々しましたが、私が”力説”したかった事は「愛知県民」はご自身たちが思うほど”名古屋流儀に合わせない人を「排除」はしていない”という事です。
多分に「寛容」にして「都会的」な県民。それが「愛知県民」です。私はそれを「内と外」から見る事が出来た為、良く判ります。
>ara40oyajiさま こんばんは
体験談ありがとうございます。