義仲館(長野・木曽町)MAP
巨大迷路や浦島太郎の伝説を追ったりと、最近は長野県の木曽路にやってくることが何度かあったのですが、その木曽路のなかに、相方が行きたいという場所があるということで、木曽町の旧日義村へとやってきました。日義村は平安末期に征夷大将軍となった朝日将軍(旭将軍)木曽義仲(源義仲)の育った場所として知られており、村には義仲に関する資料を展示した「義仲館」という施設があります。
義仲館は「よしなかかん」ではなく、「よしなかやかた」です。なぜかはわかりませんが、たぶん「よしなかかん」ですと、「か」が連続して言いにくいからでしょうね。「だったら『よしなかん』でいいじゃん」と言うと、相方は怪訝な表情でした。
私は元々歴史に疎いこともあり、名古屋にまつわる武将などでさえ、人となんとか会話についていてる程度の知識しかなく、名古屋に縁の無い木曽義仲についてはほとんど予備知識がありませんでした。一方の相方は、大河ドラマを良く見ていて、さらに平安時代好きなのでこのあたりの歴史にはとても興味があるようでした。
義仲館は木曽義仲の生涯に関する資料が展示されていて、4月から11月のみ開館しています。立派な門、そして立派な建物です。向かって右半分は公民館ですけどね。中庭には木曽義仲とその愛妾である巴御前の像があります。巴御前は愛妾と言うよりは戦友で、この銅像のように女武者として義仲とともに戦っていたと伝えられています。戦場で戦う強い女性です。
資料館に入ると、まずは木曽義仲、巴御前、そして今井四郎兼平、樋口次郎兼光、根井行親、楯親忠ら木曽四天王の6人がろう人形でお出迎えです。ここでもやはり戦う女、巴御前は太刀を持って立っています。まるで巴御前がメインの展示のような…。相方によると、木曽義仲を語る上では巴御前の存在が外せないというか、この2人の絆が話の主題のようなものであり、むしろ巴御前の方が気になるとのこと。確かに、この時代に刀を持って戦っていた女性…すごい存在感ですよね。
館内では、木曽義仲の生い立ちを紹介する音声がテープで繰り返し流れています。私は予備知識が全く無いので、テープが1周するのを待ち、頭からしっかりと聞きます。先ほどのろう人形の横には、義仲が生まれてから、31歳という若さで討ち死にするまでの生い立ちが、地図に示されており、聞きながら地図を目で追います。
義仲は武蔵国大蔵館で源義賢の次男として生まれるのですが、2歳のときに父が討たれ死に、木曽の豪族であった中原兼遠へと預けられます。兼遠の養育を受け12歳になると木曽次郎源義仲と名乗るようになりました。そして26歳の1180(治承4)年に転機は訪れます。後白河法皇の第二皇子であった以仁(もちひと)王から平家追討の令旨を賜るのです。その様子がこちらもろう人形で再現されています。
令旨の場面では、最後尾についたてがあってその後ろで巴御前も聞いているわけですが、本当にこの時代に女性がこういう場に立ち会うことができたのだろうかと、相方は首を傾げていました。
ちなみに、四天王のうち樋口次郎兼光は中原兼遠の次男で、今井四郎兼平はその弟、さらに巴御前はその妹ということで、皆、義仲とは血は繋がっていないものの、乳兄弟ということになります。年齢の関係を見てみますと、義仲は兼平と巴御前の間で、義仲が中原家にやってきた頃に巴御前は生まれていることになり、この3人と義仲は血の繋がりな無いものの、まるで兄弟のように育てられたということがわかります。
ただ、やはり源氏の血を引いていた義仲は扱いが違います。
平家追討の令旨を賜った義仲は旗挙げし、北陸へと進撃しました。旗挙げを行った旗挙八幡宮や、義仲のお墓、巴渕など、義仲ゆかりの地の写真や、肖像画などもたくさん展示されています。ちなみに、木曽川の巴渕は巴状に渦を巻く渕で、そこに棲む竜神が化身したのが巴御前だったという伝説も残されています。竜神の化身というのはもちろん伝説ですけど、それほどのイメージを残す女性ということは、かなりの強さです。
巴渕はこの義仲館から車で数分のところにあります。この地方では義仲は郷土の英雄として祀られており、現在も毎年8月14日には、松明を手に宿場を練り歩く「木曽義仲旗挙げまつり」が行われます。
展示物の中には、平安時代の甲冑や義仲陣太鼓、そして平安時代の着物などもあります。
さて、旗挙げ後の義仲についてです。義仲館では義仲の生涯を絵で綴っています。北陸で以仁王の子を北陸宮として擁護し、さらに、越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦いでは、牛の頭に松明をつけて、大軍と思わせる作戦が成功し、平家の大軍を撃滅させます。これにより北陸で勢力を固めた義仲はいよいよ京都へと入ります。
その後、義仲は後白河法皇から「朝日将軍」という位を与えられ、征夷大将軍となるものの、後白河法皇の策略と源義経の妬みによって鎌倉軍に破れ、31歳で討ち死にとなっています。
相方は「義仲って征夷大将軍にすんなりなってたっけ?」「後白河法皇は確かにコロコロ変わる人だったけど、この手のひらの返し方はすごいなぁ、何かあったのかな?」といろいろと疑問が沸いてきているようでしたが、そのあたりについてはここで詳細は語られていません。
源義経率いる鎌倉源氏軍から逃げる義仲は最期、兼平のことを心配して兼平のもとへと馬を走らせます。兼平との再会を喜ぶのですが、義仲軍は既に余力はありません。義仲はまず、巴御前を逃げさせます。すると兼平は、将軍ともあろう人が名も無い奴にやられては恥であり、将軍にふさわしい死に方をして下さいということで、自らが楯になり義仲を逃げさせます。
しかし、逃げる途中で義仲は兼平のことが気になり振り返った瞬間、放たれた矢に討たれて死んでしまうのです。
このとき義仲は31歳、旗挙げからわずか5年です。逆に考えれば、わずか5年しか歴史の表舞台に立っていないにもかかわらず、ここまでの名を残しているということは、相当な人だったということでしょう。それにしても、この資料館ではあまり触れられていない、京都での義仲の行動が気になります。
義仲館のすぐ横には、義仲が母である小枝御前を弔うために1168(仁安3)年に建立した徳音寺があります。一族の菩提寺ともなっています。その徳音寺の山門は旧日義村の指定文化財となっていました。この山門は、尾張藩の犬山城主であった成瀬隼人正藤原正幸の母が1723(享保8)年に寄進したもので、1845(弘化2)年と1996(H8)年に修理されていますが、その当時の姿を今もとどめています。
こんなところに尾張との関わりがあるとは。
山門をくぐると、「貴方の生きざまは本当にそれでええか?」と、かなりドキっとすることを問う「ええか観音」像があり、さらに奥には天明年間(1781-88)に建立された木曽義仲霊廟があります。中には1975(S50)年に奉納された、檜寄木造で等身大の義仲像があり、天井には子どもたちが描いた絵が貼られています。
そしてその木曽義仲霊廟の右手の丘の上には、木曽義仲や巴御前、そして今井四郎兼平、樋口次郎兼光らのお墓があります。兄弟揃って眠っています。
さて、義仲は京都で何をしていたのか…。ちょっと調べてみたのですが、どうやらかなり無茶をしてしまったようです。ずっと山奥で暮らしてきた義仲軍に、いきなり都のルールを守れといっても、それがすんなりとは受け入れられなかったようです。ここでは後白河法皇の策略という言われ方をされていますが、義仲は京都に入った後、四国に平家の追討に行かされたり、播磨へ行かされたりしました。
怒った義仲は後白河法皇を襲撃して、強引に征夷大将軍に任命させています。そしてその後、京都へとやってきた源義経ら鎌倉源氏軍との戦いになり、討ち死にしてしまうわけです。
確かに、これではれっきとした征夷大将軍と言えるかどうか…微妙ですね。
徳音寺には、若かりし頃の巴御前が馬に乗る像があります。幼い頃からこうやって馬に乗って、戦いの訓練を兄弟と一緒にしていたというわけですね。
現在は木曽町となりましたが、旧日義村の名は「朝『日』将軍木曽『義』仲」を由来としており、先述のとおり今も義仲を称える祭りがあるほど、郷土の英雄木曽義仲、そして巴御前との深いきずなをアピールしているわけですが、こうやって生い立ちを見てきますと…。
「よしなかちゃんって、都会に行って変わっちゃったよね~。」
義仲は、そう言うタイプだったということでしょうか。都が彼の人生を狂わせてしまい、無茶をさせてしまったのでしょうか。それとも逆で、都に入っても自我を貫き通したためにうまくいかなかったのでしょうか。
最後、生まれてからずっと一緒に戦ってきた巴御前は義仲の下から去るわけですが、彼女はどういう思いでその場をあとにしたのでしょうか。
それにしても、義仲と巴御前の関係って微妙ですよね。生まれたときから同じ屋根の下で乳兄弟として育てられたということは、血が繋がっていないだけで兄弟ですよね。でも、四六時中一緒にいて、さらに戦場でも一緒に戦っているともなれば、兄弟であり上司と部下のような関係でもあり、さらには愛妾ということは、恋人のような関係でもあったわけで。
でも、正妻になっていないのは、やはり兄弟みたいなものだったからでしょうか。確かに、きずなは深いですけれども、夫婦になることには抵抗があったのでしょうかね。
ところが、ふたりの間には義高、義重、義基と、3人の子どもがいます。兄弟のようで上司と部下のようで、武将と女武者。でもやっぱりそこは、男と女だったんですね…。
コメント
木曽義仲軍乱暴狼藉事件の真相
いわゆる源平合戦の頃、木曽義仲軍のみが京都で乱暴狼藉を働いたというのが平家物語その他の書物による通説になっていますが、これは平家物語やその解説者の捏造(つくりばなし)です。「勝てば官軍、負ければ賊軍」の言葉通り、勝者に都合の悪いことは歴史物語、歴史書に記述出来ない。敗者については悪事を強調し捏造しても記述される。「猫おろし」「牛車」「法住寺合戦」も権力者となった鎌倉などの関東武士を義仲に置き換えて非難したものである。
1.「平家物語」や「玉葉」にも平家軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(北国下向の場面)
2.「平家物語・延慶本」には鎌倉軍の乱暴狼藉(略奪)の記述がある。(梶原摂津の国勝尾寺焼き払う)
3.「吉記」には義仲軍入京前に僧兵や京都市民の放火略奪の記述がある。
4.「愚管抄」には義仲軍入京前に平家の屋敷への火事場泥棒や京都市民の略奪の記述がある。
義仲軍入京後には放火略奪などの記述は無い。
5.「吾妻鏡」には鎌倉軍の守護・地頭の乱暴狼藉の記述が多数ある。
つまり通説とは逆に義仲軍以外は全て乱暴狼藉を働いていた。平家物語は琵琶法師による庶民への語り物として広まった。その時庶民の乱暴狼藉を語る事は出来ない。また勝者となった権力者の頼朝や朝廷の批判は出来ない。乱暴狼藉事件の真犯人は元平家軍将兵(後の鎌倉軍将兵)、僧兵、一般市民である。
「玉葉」は右大臣・九条兼実の日記です。
「吉記」は左大弁・吉田経房の日記です。
「愚管抄」は僧侶・慈円の歴史書です。(慈円は九条兼実の弟)
「吾妻鏡」は鎌倉幕府の公式記録(北条氏より)とされています。
参照
詳細は「朝日将軍木曽義仲洛中日記」
http://homepage2.nifty.com/yosinaka/
http://www.geocities.jp/qyf04331/
(2008/10/11 7:32 PM)
>義仲弁護人さま はじめまして こんばんは
あのですね。名乗りもせず、挨拶も無しにただ「いきなりこれが真相だ」とか言われて、さらには「あっちは捏造だ」なんて言われてもですね、そんなことを言われると逆に「(゚Д゚)はぁ?」になっちゃうわけですよ。
申し訳ないですけど、もう少しコミュニケーションというものを考えないと、誰も話を聞いてくれないと思いますよ。
(2008/10/14 3:35 AM)