中川区[18] はとり
剣道道場とまんが道場-富田公園・熱田社
戸田川沿いを北に歩きます。JR関西本線を越えるとまだ区画整理が終わっていない富田町大字戸田に入り、道路が建設中だったり空き地があったりします。
▲戸田川はここで終点のようにも見えます
そして戸田川が急に細くなり、無くなってしまうかのように見える場所にあるのが富田公園です。富田公園は川の両側に広がっていて、中央には春幡橋が架かる広大な敷地です。公園内には熱田社も祀られています。
▲富田公園の中にある熱田社
公園はまだ整備中なので、遊具などが設置してある場所もあれば、ただの空き地になっているようなところもあります。
▲富田公園もまだ一部は整備中
前にも触れましたが、戸田川は河口のポンプで水位を調整している川で、流れていません。この富田公園で戸田川は東、西、北の3つにわかれ、北の千音寺の源流に繋がります。東に流れる服織川に沿って歩いていきます。
▲ポツンとあるポンプ施設。周辺の道路や空き地は区画整理中
すると富田公園の東側を南北に走る道路に出ます。剣道道場がありました。それはいいのですが、同じ建物にまんが道場という文字もあります。マンガのほうはどうも店じまいをしてしまっている様子でしたが、かつてはマンガを教えていたのでしょうか。
▲剣道だけで、今はもうマンガはもうやってないのかな
街中でまんが道場とは斬新なアイデアですね。でもこの様子だと斬新すぎて子どもがついてこなかったようですね。まんが道場という看板を見ると、「ふたこま!」といった声が聞こえてきそうな気がします。
▲戸田川の支流服織川
「はっとり」ではなく「はとり」-服部と服織・八幡社
周辺にはその剣道道場の子ども達が通っているであろう中学校があるのですが、校名は「はとり中学校」と平仮名になっています。
▲名古屋市立「はとり」中学校
この界隈は、現在の住所は「服部」なのですが、古くから「はとり」と呼ばれています。そのため中学校は間違えられないように「服部中学校」ではなく「はとり中学校」と表記しているのです。
中学校の西にある幼稚園も「はとり幼稚園」です。そして先ほど紹介した川は服織川と書いてはとり川です。かつては服織の里と呼ばれていたものが転じて服部となったとのことです。
▲中学校の前は田んぼと公園。のどかな風景
この服織の里が開墾された際に氏神として祀ったのが、はとり中学校から北に400メートルのところにある八幡社です。
八幡社は開墾された1407(応永14)年の創建で、その後幾度となく社殿を改築するのですが、1959(S34)年の伊勢湾台風によって全てを失ってしまいます。現在の社殿は1966(S41)年に再興されたものです。
▲はとり公園の横にある服部八幡社
神社の横ははとり公園となっているのですが、住んでいる人がいました。都市部だけかと思ったのですが、こういった田園地帯の公園にもいるのですね。
でも地名ははっとりに-富田北プール
はとり公園から東に歩くと、環状2号・国道302号線があります。将来は片側3車線に整備されるとのことですが、現在は片側2車線で中央は空き地になっています。
▲将来は片側3車線に整備される予定の環状2号
また、道路の両側は防音壁ではなく大きな木で住宅・田園地帯と道路を仕切っています。
▲樹木で防音壁の代用?
南には服部1丁目交差点と富田北プールがあるのですが、それ以外は住宅がポツポツと田園、そしてビニルハウスも見受けられるのどかな風景です。
▲田んぼだけでなくビニルハウスも
最近はマンションも少しずつ建ち始めました。その服部1丁目交差点ですが、ローマ字表記は「Hattori」となっています。
正式な地名としては、現在は「はっとり」になっているようです。そして富田北プールは、プールがメインの施設ではなく、名古屋市富田工場と呼んだほうがいいでしょう。市の工場、それは廃棄物処理施設です。富田北プールは、そのゴミ焼却の余熱を利用したプールです。
▲名古屋市富田工場。余熱をプールに利用
尾張七宝焼発祥の地-正明社
富田北プールの北側は細い道路が入り組んでいて、市営松下北荘に残る昔の地名にちなんでか、松下村塾という大きな理想をかかげているであろう塾や、寺で道路が行き止まりになる正明寺があります。
▲梶常吉が作った香炉が残されている正明寺
正明寺には尾張七宝の祖といわれる梶常吉が作った香炉が残されています。梶常吉はオランダ船が持ってきた七宝焼を研究し、独自の泥七宝という手法を開発しました。
▲正明寺は別名松下の蓮如さま。かつてこのあたりは富田町大字松下でした
七宝焼とは銅など金属の生地にガラス質の釉薬を焼き付けて磨きあげる伝統工芸品で、七つの宝玉を散りばめたように高貴で美しいことから名付けられました。
中川区服部の西側は七宝焼の本場、海部郡七宝町。梶常吉の後継者が七宝町に移ったことから、七宝町は町の名になるくらいに尾張七宝が盛んになったのだそうです。
服織の里は、意外にも焼物・尾張七宝発祥の地でもあったのです。
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