10.中川区 名古屋を歩こう

かつての漁師町、先にあるものは

記事公開日:2004年12月26日 更新日:

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かつて漁師町だった下之一色-下之一色町

 近鉄伏屋駅の西側を南北に走る予定の、万場と国道1号の下之一色を結ぶ道路を南下します。途中八熊通と交差するのですが、八熊通は新川の先が建設されておらず、またこの南北に走る道路も、伏屋駅の西側が線路で行き止まりになっていて北進不可なために、八熊通を東から走ってくると、ほぼ強制的にここを南下して国道1号に吐き出される形になります。そのためか八熊通もここまでくると車の量がぐっと減ります。南に向かう道路の両側は、野田周辺よりも増して田畑が見られるようになりますが、田畑の周りにはびっしりと住宅が立ち並び、空き地は見受けられません。助光中学校南の交差点を越えると、旧下之一色町地内に入ります。

 三日月住宅、市営一色荘のある一色新町を除き、下之一色町は当時のままの中川区下之一色町という地名が残されていて、その後には「字」のつく住所になっています。また、残されているのは地名だけではなく、かつてここが名古屋の台所を支える漁師町だった面影が残されています。下之一色町が漁師町だったのは昭和30年代まで。しかし今も残るその風景を見に行きます。

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▲北が万場まで開通すると、交通量が増えるかも。
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▲次第に畑も多くなってきました。
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▲三日月住宅から南は一色新町。

 道路は国道1号一色新町3丁目交差点にぶつかります。路面は綺麗なものの、一色大橋で庄内川を越えると国道1号は片側1車線の細さになっていていつも渋滞しています。国道1号を左に曲がると、下之一色青果市場や菓子問屋などが、昭和レトロな看板を当時のまま掲げています。その菓子問屋フジヤの前から下之一色商店が南に伸びています。商店街は後ほど訪れるとして、国道1号を一色大橋方面へとそのまま歩きます。すると商店街の入口には、かつてあさひ銀行下一色出張所だった建物が廃墟になっています。こんな郊外に東海銀行以外の都市銀行があったこと自体に驚きですが、昔の漁業組合か何かが漁業の衰退とともに協和銀行(日本貯蓄銀行時代?)に吸収されたのではないかと私は推測しています。実際のところはわかりませんでした。現在も、あさひ銀行の後継銀行であるりそな銀行のATMのみがポツンと廃墟の南に建っています。

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▲国道1号。路面は綺麗に整備されているけれど片側1車線。
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▲下之一色青果市場。もちろん現役。
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▲菓子問屋。大きな明治チョコレートの看板が目印。

 さらに歩くと細い路地裏にひちやの看板が見えます。そして一色大橋のたもとに辿り着くと、漁師町下之一色全体を眺めることができます。いくつも建つ煙突、そして車では絶対に通りたくない細い道路、中央には木が覆い繁る場所もあります、神社でしょうか。海からやってくる汐の香りも相まって、どこか田舎の漁師町を眺めている錯覚に陥ります。でも正真正銘ここは名古屋市中川区です。一色大橋は2009(H21)年を目処に大きな橋に架け替えられます。そうなると国道1号も拡張され、銀行の廃墟やレトロな看板を残すお店などは消えてしまうかもしれません。

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▲国道1号から下之一色へは、こういった路地が何本も。
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▲現在、仮の橋がようやく完成した、一色大橋架け替え工事。
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▲下之一色界隈を臨むと、何本かの煙突と、小さな森がぽつんと。

ハワイアンミュージックを聞きながら-下之一色商店街

 では、かつては大変賑わいがあったと言われる、下之一色商店街を歩きます。まず入口のアーチは、「SHOPPING STREET 下之」を残して後の「一色商店街」の文字は看板が落ちてしまっています。商店街が現役なのかどうか不安になります。アーチをくぐると、右側に農協がありました。その農協の横には、明治から昭和にかけて下之一色の発展につくした森治郎の像がありました。森治朗は一色まで市電を走らせたり、漁協の振興に努めました。でもここは農協です。その農協、かつては下之一色農協という単独の組合だったのですが、現在はJAなごやに引き継がれ営業しています。あさひ銀行無き今、下之一色のお財布となっています。すると、どこの有線と契約すればこれが流れてくるのだろうかと疑問に思うくらいの、懐かしいハワイアンのミュージックが聞こえてきて、商店街が現役であることが実感できました。幼い頃は、商店街といえばこういう音楽が流れていたなあと感慨深くなります。ハワイアンなのは海が近いのを意識しているのでしょうか。

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▲ハワイアンミュージックが流れる、下之一色商店街。
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▲廃墟となっている、旧あさひ銀行は結構大きい。
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▲森治朗像。今の下之一色をどんな気持ちで見ているのか。

大正時代の面影がある銭湯は...-銭湯

 意外にもコンビニ・ニュージョイスを発見。その角を東に歩いて行きます。すると大きな煙突の銭湯を発見。橋のたもとから見えた煙突はこれでした。定休日は4と9の付く日で月に6日です。営業時間が午後4時からとのことで入ることはできませんでしたし、屋号の看板も無く現役なのかどうかもわかりませんでした。銭湯の前の「自動車は通り抜けができません」という道路を南下すると、一色銀座という界隈に出ました。昔ながらの飲食店が建ち並び、かつて繁華街だったことがわかります。電柱には「貯金と共済は下之一色農業協同組合へ」という広告看板が昔のまま残っていたのですが、もうひとつの広告看板は「りそな銀行」とちゃんと時代に合わせて付け替えられており、ビッグバンの荒波に耐えていました。店舗が無くなり、銀行が合併を繰り返しているにもかかわらず、今も旧協和銀行のりそな銀行と下之一色との繋がりがあることに少し感動。だって、店舗も無いのに広告を残す必要など本当は無いのですから。リストラの中にも人情あり。りそな銀行さん、私は応援するよ。公的資金の返済頑張ってね。

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▲現在はもう営業していないと思われる、看板も無い銭湯。
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▲「この先自動車は通り抜けられません。」そんな看板は数え切れず。
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▲一色銀座界隈。この先右の森のようなところに浅間社があります。

漁業権返上・そして新川は-浅間社・栄湯・観音堂

 そして一色銀座の南には浅間社があります。先ほど見えた小さな森はこの浅間社でした。創建は不明ですが、1574(天正2)年に前田下之一色城主前田与十郎が再興し、氏神さまとして信仰を集めてきました。浅間社の南側は参道となっており道幅が急に広くなります。するとまた銭湯がありました。先程の和風なものとは違い、モダンな大正時代の建築です。この栄湯は1と6の付く日が定休日。営業は午後3時からです。舗装された道路をしばらく歩くと鳥居が現れ、参道を出ることになります。すると新川の堤防にぶつかります。堤防を左に歩くと小さな観音堂があり、観音さまは川を見つめています。この下之一色が漁師町で無くなってしまった理由はふたつあります。ひとつは1959(S34)年の伊勢湾台風です。名古屋市に甚大な被害を与えた伊勢湾台風以降、大きな堤防が整備され漁業がしにくくなったのです。そしてもうひとつが、川の水質悪化です。現在、この新川で魚を採って食べることは禁止されています。それは魚に有害物質が含まれているからです。観音さまは、そんな新川を昔から見つめているのです。

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▲浅間社です。盛大だった夏祭りも次第に規模が縮小されているとか。
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▲看板もあって現役っぽい栄湯。大正ロマン。
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▲浅間社の参道はしばらく続きました。

市場に漁師町の面影を残す-下之一色魚市場・新元湯

 漁業が途絶えたはずの下之一色、ところがその観音さまの近くには下之一色漁業協同組合の下之一色魚市場があります。熱田区日比野の中央卸売市場が開設されるまでは、この市場が名古屋の台所を担っていました。現在は、他の地域で採れた魚をさばく小さな市場となってしまったものの今も市場は開いています。かつてはここまで船で魚が運ばれていたのですが、今は自動車で運ばれてくるとのこと。それでも新鮮な魚を買うことができることに変わりはありません。第2・4土日のサービスデーが狙い目です。

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▲新川を臨む堤防にある観音堂。
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▲今も新川の流れを見つめる観音さま。
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▲車で魚が運ばれてくる、下之一色魚市場。漁師町だった唯一の名残か。

 市場から新川沿いを北上します。すると新元湯という銭湯を発見。看板が落ちてしまっていましたが、定休日は5と0の付く日で営業時間は午後5時からとなっていました。銭湯はそれぞれ下一桁の日にちで定休日を決め、ずらすことでそれぞれ重ならないようにしていました。私は午前中に散策したので入ることができませんでしたが、時間を合わせて行けば、元漁師の人たちと交流ができるかもしれません。ただ、建物が残っていても、全ての銭湯が営業を続けているわけではないのでご注意ください。

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▲かつては横の新川からたくさんの魚が水揚げされました。
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▲こちらも営業しているっぽい新元湯。

お城は落城、川底に...-みよとめ観音・城址・青峯堂

 新川の堤防を歩きます。すると、みよとめ観音があります。これは熱田神宮から下之一色まで作られた三十三観音の三十三番目の観音堂です。
熱田新田の番割観音とは別のものです。その向こうに架かる橋が両郡橋。愛知郡下之一色村と海東郡南陽町のふたつの郡を結んだことに由来します。
そして新川の堤防に空き地のような場所があります。ここにはかつて前田下之一色城と青峯堂がありました。青峯堂には、嵐の中漁師を護った十一面観音さまが祀られていました。そして前田与十郎らが城主だった前田下之一色城は1584(天正12)年の蟹江合戦の際に落城し、天明年間(1781-1789)に新川が開削されると、城址はほとんど川底になってしまいました。かつてここにあった記念碑も、いとうまい子さんの出身校である近くの正色小学校に移され、現在は白い木の看板が建っている空き地に過ぎません。

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▲熱田神宮から下之一色三十三観音の三十三番目の観音堂。
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▲かつては目抜き通りだった下之一色商店街を南側から臨みます。
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▲前田下之一色城と青峯堂があったことを示す木の看板。

別世界だった中洲のこれからは-三日月橋

 堤防道路が国道1号にぶつかると、下之一色町の区域は終わりです。漁師町はここまで。新川に架かる三日月橋の対岸を見ると、温泉、映画館、ゲームセンターの複合レジャーランド、コロナワールド中川が見えます。そこから先は再び名古屋市郊外の姿に戻ります。下之一色にはまだ漁師町の面影が残り、かつて漁師だったと思われるおじさんがたくさん歩いていますが、漁師町で無くなって既に45年。この先次第に姿を変えていくことでしょう。

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▲新川に係留された船を見かけました。
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▲川の向こうにはレジャーランド・中川コロナワールド。
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▲三日月橋を西に渡ると普通の郊外に。この中洲だけが漁師町。

 ところで、この下之一色町は逆三角形をしていて、南に行くほど細くなります。そして庄内川と新川の外側が港区になっても、この中洲だけは中川区下之一色町という状態になります。その三角形の先端部分の住所は、中川区下之一色町字三角。実に明快です。


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