小幡-旧街道の接点に立派な駅ビル

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守山区[7] 小幡

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昔からの交通の要衝が立派なターミナルに-アクロス小幡

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▲名鉄小幡駅。ここから東側へ高架化の計画があります

今回は名鉄瀬戸線小幡駅を起点に歩きます。小幡駅はかつて丸い屋根の駅と呼ばれた小さな駅でした。1978(S53)年に建て替えられるも駅は小さなままで、周囲にはファーストフード店や書店がちらほらと立ち並ぶ程度でした。

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▲駅ビルアクロス小幡。OSプラザ。OSは「小幡ショッピング」かな?

しかし1999(H11)年に駅ビルアクロス小幡が完成し、その翌年には全面オープンし、守山文化小劇場や書店、金融機関や医療施設などが駅ビルに入る形となりました。駅前にはバスターミナルやロータリーも整備され、今では守山区内で最も駅前らしい姿をしており、かつての小幡駅前とは見違えるほどに風景は変わりました。

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▲瀬戸街道の東側から小幡駅を望みます。いつもここは混みます

ようやくターミナルらしくなった小幡ですが、実は小幡は昔から交通の要衝でした。小幡から北へは竜泉寺街道が、そして南へは笠寺街道が伸びていて、尾張四観音の2つである竜泉寺と笠寺を結ぶ場所だったのです。

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▲小幡駅の北に移設されている道標。しかし道標の元々の所在地が不明

小幡駅から北へ少し歩くと、当時の道標が残されています。1763(宝暦13)年に建てられたこの道標はどこにあったのかはわかっていませんが、瀬戸街道沿いにあったと考えられています。南面には「是より 里うせん寺」そして東面には「従是北竜泉寺道」、西面には「馬頭観世音菩薩」とあります。

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▲道標のすぐ近くにある守山区役所

兄のために作った長兄寺だった-長慶寺

さらに北へ歩き、守山区役所を越えると左側に長慶寺があります。

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▲750年以上の歴史をもつ長慶寺

かつてこのあたりを治めていた山田重忠は、父母と兄の菩提のために「長父寺」「長母寺」「長兄寺」を創建し、後に「兄」を「慶」に改め長慶寺になったと「尾張志」に記録があり、さらに寺伝には、山田兼継の菩提を弔うために、弟正親が慶長年間(1249-56)に創建したとあるそうです。寺内にある南山土雲の無縫塔は愛知県文化財に指定されています。山門も立派です。

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▲重厚で立派な山門です

かつては「もじょ」と呼ばれた-菊華高校

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▲小幡駅周辺は少し路地に入っただけで、道路が激細に

守山区役所の横を通って東へと歩きます。周囲には守山水族館という大層な名前を掲げた熱帯魚ショップがある他、周りを見渡すと学校が多く、小幡小学校、守山東中学校、そしてかつては「もじょ」と呼ばれた菊華高校があります。

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▲かつては守山女子商業高校だった菊華高校

なぜもじょだったのかと言いますと、かつての校名だった「守山女子商業高校」を略して「もじょ」と呼んでいたというわけです。「君、学校どこなの?ああ、もじょなんだ。」という会話が、地元民としては当たり前の語感なのですが、冷静に考えると…うむむ。

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▲立体のブロックに見えます?おもいっきり路上駐車されてます

このあたりは住宅街で道路が細いのですが、通学路であるために多くの子どもが歩くことを考慮して、道路の端には立体のブロックに見えるようなペイントが施してあります。一見感心しましたが、そんな小細工をするより、実際に立体のブロックを置いてしまったほうが、路上駐車も減ると思うのですが。

案内看板自体がもう歴史モノ-小幡長塚古墳

守山東中学校を通り過ぎたあたりを左折して北へ歩くと、小幡長塚古墳にぶつかります。小幡長塚古墳は、全長81メートル、後円部径38メートル、前方部復元幅42メートルで小幡原に現存する前方後円墳のなかで最大です。

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▲住宅街のなかに突如あらわれる長塚古墳

前方部が大きな古墳で、高さは後円部のほうがやや高くなっています。1936(S11)年の県の調査では、周囲に二重の濠がある壮大なものであったといわれています。現在は古墳自体は残されているものの、ギリギリのところまで住宅が立ち並び、少し窮屈そうに存在しています。

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▲残されているのは古墳そのもののみで、濠は残っていません

そしてこの古墳を示す案内看板も、昭和40年代に書かれたのではないかと思える古い書体のもので、その看板自体も遺跡と呼んで良いほどのものです。

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▲この案内看板自体がもうビンテージもの

立派な道路はいきなり行き止まり-茶臼前交差点

この古墳の北側には太い道路が東西に走ることになっているようなのですが、作りかけで、住宅が密集する小幡にしては珍しく畑や大きな公園も見られます。さらには自衛隊の訓練所もあります。

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▲建設中の道路。こちら側への直進レーンがありません

そしてその北側には国道302号と東名阪自動車道が走ります。この高速道路を越えると、もうひとつの守山区の姿、いや本来の守山区の姿が見えてくるようになります。そちらは後ほど行くとしまして、西へと足を進めます。

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▲国道沿いにある自衛隊の訓練所や公園、そして畑

ここを見て全てだと思わないで!-小幡緑地(西園)

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▲小幡緑地の西園です。西園は緑地のごくわずかな一部にすぎません

するとその太い道路が繋がるであろう小幡ヶ原交差点の角にテニスコート12面、野球場1面、トレーニングルーム、球技場がある小幡緑地があります。結構広い公園だなと思えるのですが、実は小幡緑地はここが全てではありません。

ここは「西園」で、小幡緑地のなかのごく一部に過ぎないのです。総面積226.9ヘクタールの小幡緑地についてもまた後ほど。西園の横を通る竜泉寺街道は国道302号と交差して竜泉寺方向へと繋がっています。

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▲西園にはテニスコート12面、野球場1面、トレーニングルーム、球技場

かつて街道の接点として栄えた小幡は、今も交通の要衝として車の通行量は多く、昼間は渋滞がよく発生しています。高速道路のインターも近く、東西南北どの方向にも道路が通じているので小幡は住宅地として人気があるのですが、混雑時は少しの買物にも渋滞に巻き込まれてしまうのは難点でしょうか。特に小幡駅周辺は日中いつも混んでいる印象があります。

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▲竜泉寺街道。かつて混みましたが、先で片側2車線化が進みスムーズに

小幡2010

守山自衛隊駅前でも紹介しましたが、このアクロス小幡にも同じスーパー「ダイトミ」が入っていました。倒産したダイトミの跡地は長く空き家だったのですが、現在はナフコ不二屋が営業しています。

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コメント

  1. masa より:

    レポートされたのは3年前ですが、コメントさせてくださいね。
    元名古屋市民のmasaです。
    紹介されている地域は、ちょうど私が小中学生時代を過ごしたところです。
    小幡小学校と守山東中学校へ通っていました。
    家のすぐ裏が「もじょ」でした。
    旧兵舎を校舎にしていた守山東中学校が現在地に新築移転した跡地にできたのが「もじょ」です。
    私が小学生の頃だったと思います。
    急に大量発生した女子高生の群れにドキドキしたのを覚えています。
    あの辺りは結構低地で、付近に洪水となる川などないのに、伊勢湾台風のときは床上すれすれまで水が来ました。守山東中学校の旧校舎(講堂)にたくさんの人が避難し、おにぎりやみそ汁が配られているのを見ました。
    瀬戸街道を喜多山あたりで横切る「せとでん」の踏切は当時手動で、「踏切のおじさん」が上げ下げしていました。子どもたちは踏切の下を走って通り抜けては、いつも怒鳴られていました。私が電車を止めて、運転手に追いかけられたのもその近くです。
    白山神社へ行けば、いつも紙芝居が見られました。でもテレビの登場とともに紙芝居に子どもが集まらなくなり、いつしか紙芝居のおじさんの姿も見られなくなりました。子どもたちの関心は紙芝居からテレビに移っていました。月光仮面や怪傑ハリマオに、もう夢中でしたね。60年安保後に池田内閣が「所得倍増計画」を打ち出し、日本全体が高度成長に向かって走り出した頃ですからねぇ。
    瓢箪山駅の近くには「瓢映」、守山駅の近くには「守劇」という映画館がありました。当時映画は娯楽の王様。日曜は立ち見の状態でした。

  2. トッピー@管理人 より:

    >masaさま こんばんは
    コメントありがとうございます。
    あのあたりは、決まった時刻に女子高生が大量に現れる、
    そんなイメージが確かにありますね。
    そして、伊勢湾台風で水が迫ってきたとは…。
    やはりすごい勢力だったんですね。
    どの川が溢れたのでしょうかね?
    それとも、排水が雨量に間に合わなかったのでしょうか…。
    瀬戸電は今や、アーバンラインとなって、
    駅周辺の風景も、
    ここ十数年を見ただけでもすっかり変わりましたね。
    60年代の瀬戸電…写真集で見たことしかありませんが、
    今とはまた違った賑わいがあったんですね。
    紙芝居に映画館…そして高度成長。
    今と違って、確実に未来が輝いて見えたであろう時代。
    うらやましいです…。

  3. masa より:

    あの頃は排水という感覚もあまりなかったですね。
    家の前は土を掘っただけのむき出しの側溝。
    飲料水は共用の井戸、便所は汲取、風呂は銭湯でした。
    舗装なんてずっとあとのことで、
    台風となれば、家の前の道が浅いプールになるのは当たり前。
    子どもたちは手づくりの舟で遊べるから台風大好き(笑)。
    私は畑のわきの肥だめに落ちて、しばらく笑い者でした。
    下水整備が急速に進んだのは伊勢湾台風後じゃないでしょうか。
    生活排水は側溝に垂れ流しでしたが、いまのように化学洗剤は無かったし、
    洗濯物はたらいで昔の固形石けん、しかも汲取便所に銭湯。
    家の前の側溝(葦の生えた細いドブ)にはアメンボやカエルがいたし、夏にはホタルが飛びました。
    川や側溝が汚臭のドブ川になったのは、
    石油製品を大量に使うようになった高度成長時代ですね。
    以前の用水や川、側溝の多くは暗渠になり、人目に触れなくなりましたました。
    今も小幡や喜多山を訪ねることはあります。
    小幡駅を降り、住んでいた方に向かって歩き出し痛感するのは、
    かつてあった水平の風景が消えたということです。
    昔は2階建ての家さえ珍しかったので、遥か遠くまで見渡せたのです。
    ところが今は高層住宅ばかり。
    空しか見えないから道に迷います。
    日常の風景から隣町はもちろん、隣近所まで消えてしまったような気がします。
    かつてあった広い視界が閉ざされ、
    上へ伸びる孤立した風景ばかりで、さびしさを感じますね。

  4. トッピー@管理人 より:

    >masaさま こんばんは
    私の在所は名東区なのですが、
    自分が幼少だった頃でもまだ、便所は汲取、風呂は銭湯でしたね。
    さすがに水道は上水道でしたけれども、
    でも井戸はまだ原形をとどめていて、ちゃんと水が出ました。
    今や小幡駅周辺はまさにベッドタウン、
    ここ10年くらいでマンションが急激に増えましたね。
    名鉄瀬戸線がアーバンラインと呼ばれるようになったのも、頷けます。
    そして今や、志段味にまでも開発の波は押し寄せ、
    5年前は古墳群が見渡せた風景も、
    新興住宅地に一変しつつあります。
    守山区はここ最近、本当に急激に姿を変えていますね。
    名東区はそれより少しだけ早く変貌しましたけれども、
    もう、どちらの区も、
    場所によっては10年前の姿さえ思い出せないくらいに…。
    さみしいですね…。

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