おいでよ!名古屋みゃーみゃー通信 第12回
前回に続いて喫茶店のお話です。我が家でも、私が幼い頃から小学生の途中くらいまでは日曜朝は家族揃って喫茶店に行き、モーニングサービスを食べるというパターンがよくありました。その後父が独立してサラリーマンではなくなってしまったため、日曜がお休みとは限らなくなりあまり行かなくなってしまいましたけれども。
かつては名古屋名物だった喫茶店のあるサービス
大抵は家の近所の決まった喫茶店に行くことが多く、トーストとゆで玉子とサラダがつくモーニングサービスを食べながらコーヒーを飲んだものでした。朝以外でも、家族で車に乗って遠出したときなどは必ずと言って良いほど帰り道に喫茶店に寄りました。
午後立ち寄る喫茶店にはモーニングサービスがありませんから、私はコーヒーではなくウェファスの添えられたバニラアイスを好んで食べていました。缶詰のみかん一切れとチェリーが乗っているだけで妙に高級感を感じたものです。カップアイスを買った方が断然安いので、喫茶店でアイスクリームを頼むと親はあまり良い顔をしませんでした。クリームソーダも同様です。でも子どもの頃は「喫茶店で味わうバニラ」が妙に美味しく感じたのです。
子ども心に大好きだった喫茶店
さて、そんな喫茶店の中で私が当時一番好きだったのが名古屋市名東区のある喫茶店です。記憶が曖昧なのですが、たぶん父親が休日出勤や出かけたついでに会社に寄った時などに私を連れてそこへ行ったのだと思います。初めて行ったのは今から25年前くらいでしょうか。
大抵、喫茶店と言うのは窓が大きく取ってあり降り注ぐ日光のなかで明るい雰囲気というのが当たり前だったのですが、そこは窓に深い色のカーテンがしてあり店内は薄暗く、背の高い本棚にマンガがずらっと並べられていました。そう、マンガ喫茶です。今では全国各地に当たり前のようにありますが、ほんの5・6年前までマンガ喫茶は名古屋名物だったのです。
本当かどうかはわかりませんが、当時名東区にあったその喫茶店は「日本初のマンガ喫茶」を自称していました。今から25年前でしたから本当にそうだったのかも知れません。
ある報告にも、「マンガ喫茶の登場は1977~78(S52~53)年に自然発生的に生まれた。」とありますので時期的に一致します。さらにその報告によりますと、マンガ喫茶と言うのは、マンガ好きな店主が趣味で持っている本を喫茶店の名物にしようと店内に置いたのがはじまりだそうです。
差別化のはじまり
当時から名古屋はもちろん喫茶店が多く競争が激しかったと思われます。少しでも他店と差別化をしなければ…、そしてその思いと店主の趣味が重なってマンガ喫茶は発生したのです。私は当時からマンガ好きでしたので、そこへ連れられて行っては「ドラえもん」や「Dr.スランプ」を読んでいた記憶があります。
当時のマンガ喫茶は今のようなフリードリンクで時間制というものではなく、あくまでも普通の喫茶店にサービスとしてマンガがたくさん置いてあるというだけでした。
マンガ喫茶のシステムの確立
しかし、コーヒー一杯で長居されると回転率が悪くなってしまうのを店側が嫌がり、最初に時間制限が設けられました。90分という基本時間を設定し、それ以降は10分ごとに席代を課金、もしくは他のメニューを注文すればさらに90分居られるという制度です。その後東京の会社などがこのマンガ喫茶に目をつけ、さらに人件費を浮かせるために、セルフサービスの飲み放題スタイルにしたという形が全国的に定着しました。
東京にマンガ喫茶が広がり始めた数年前は、テレビで新しいビジネススタイルとして特集されていましたが、名古屋っ子は「何を今更。マンガ喫茶が新しいビジネス?」と不思議に思ったものです。
その後インターネットの普及により、外国のネットカフェスタイルとマンガ喫茶は融合されていきます。ここまでくるとこれらは普通の喫茶店とはまるで別物になってしまいましたが、名古屋における当初のマンガ喫茶と言うのは、他のライバル喫茶店とサービスに差をつけるモーニングサービスと一緒で、無料でついてくる付加価値の一つだったわけです。
ちなみにこの日本初のマンガ喫茶を自称していた喫茶店は、店主の後継ぎがいなかったことからマンガ喫茶ブームが到来する前に廃業してしまい、現在は無くなってしまいました。(まやさん情報ありがとうございました)
▲名古屋っ子のバイブル?「ドラゴンボール」我が家にも全巻あります。
名古屋っ子はマンガが好き?
ところで、このマンガ喫茶というスタイルが昔から定着している名古屋。名古屋っ子はマンガが好きなのでしょうか。それを具体的に示すデータはありませんが、名古屋出身の漫画家には有名どころが結構います。何人がご紹介しましょう。
まずは、「キスより簡単」「さよなら家族」などで有名な石坂啓さん。彼女は22歳のときに上京、故手塚治虫氏に師事しその後独立されています。一時期、東海テレビのローカル番組「パコパコチャンネル・情報発信局」でコメンテーターをされていましたし、全国ネットの番組に出演されていることもあるのでお顔をご覧になったことがある方も多いと思います。
次に、6億円以上をかけて東京に豪邸を建てたことなどで露出度としてはかなり高い江川達也さん。「東京大学物語」「まじかる☆タルるートくん」などが代表作としてあります。漫画家になるまでは愛知県内の中学で数学の教師をされていたそうです。
作品中、特に「タルるートくん」は名古屋が舞台ということもありピンとくる絵もありますし、キャラクターのなかに「両口屋是清」という脇役が登場していることからも名古屋を感じさせるのですが、両口屋是清と言えばどら焼「千なり」、「をちこち」「紅の花」などで有名な名古屋の老舗和菓子屋さんです。もちろん商標として登録されていると思いますので勝手に使っているとは考えにくいですし、何か江川先生とは関係があると思うのですが…。
実は名古屋を主張していた
そして、名古屋出身漫画家の代表と言えば鳥山明さんでしょう。しかも鳥山先生は上京せずにずっと名古屋在住という点も、名古屋っ子にとって親近感が沸く理由となっています。代表作は「Dr.スランプ」「ドラゴンボール」で、社会現象にもなりましたのでご存じない方は少ないのではないでしょうか。現在は清須市在住です。
鳥山先生の初期の作品に「Dr.スランプ」があります。この漫画ではわざとなのか無意識なのか、それぞれキャラクターの言葉の中に名古屋的な言い回しが登場することがありましたし、ニコチャン大王というバリバリの名古屋弁を喋るキャラクターもいました。
さらには「白、黒、抹茶、あがり、コーヒー、ゆず、さくら」という青柳ういろうのCMソングが書かれていたり、欄外に東海ラジオの「ミッドナイト東海」に関するイラストが書かれていたり、主人公のアラレちゃんが映っているテレビが本編中に登場するのですが、そのチャンネルが「1」(東京は「8」)だったりと、舞台は架空の世界でありながら名古屋色が出ていました。
私は幼稚園から小学生にかけて当時、この漫画を読んでいたので逆にあまり不思議な感じがしませんでしたが、今考えると、名古屋であることを結構主張していた漫画だったんだなと思えます。名古屋が全国に通用する結構メジャーな存在であるという思いが、私の幼心に植え付けられたひとつの要因だった気もします。
そっちは名古屋じゃないんです
というわけで、今回は喫茶店からマンガ喫茶、そこから派生して漫画と名古屋について書いてみました。ちなみに喫茶店のサービスと言って他に思い浮かべる、「同伴喫茶」「カップル喫茶」「個室喫茶」そしてかつての「ノーパン喫茶」は名古屋が発祥ではありません。でも私の家の近くにノーパン喫茶はありました。しかし、息子を喫茶店によく連れて行った私の父親も、さすがにそこへは連れて行ってくれませんでした。
▲私が当時大人だったら、こう思ったことでしょうね…。
コメント
私のコメントは、いつもながら「昔話し」になってしまいます。お付き合い戴ければ幸いです。
「飲食店と漫画」の関係は「尾張一帯」には、かなり昔から在りました。現在の様に「図書館」と見紛う程では無いですが しいて言うなら「床屋」の順番待ちの時、店内に置いてある「漫画雑誌、週刊誌」程度の物が「喫茶店」は言うに及ばず、「蕎麦屋」「うどん屋」「ラーメン屋」「洋食レストラン」果ては「寿司屋」にまで在りました。 注文待ちの間に来店客が読める様に、店内に本棚を設置してある店など「他府県」では滅多にお目に掛かれません。やはり、これは「名古屋文化」なのでしょう。 そしてToppy様のブログの通り「規模を拡大」して「漫画喫茶」に成ったと言う事ですね。納得です。
話し変わって「名古屋の漫画家」筆頭格の「鳥山 明」先生 出世作「Dr.スランプ」は連載当時、「タモリの笑っていいとも」の番組内で司会者が「名古屋は巨大な田舎」と「半ば本気で侮辱」して「スタジオ・アルタ場内」を「大爆笑」の渦に巻き込んだのです。「名古屋では、アンナ事コンナ事が有ったと。」本当か嘘か定かでない「笑い話」を言ってました。
それを逆手に取った「鳥山先生」が自虐的ギャグとして「名古屋」を「ぺんぎん村」に置き換えて「Dr.スランプ」を執筆したそうです。だからでしょう、「名古屋テイスト満載」の漫画でしたね。 私も「尾張人」だった頃を思い出して「原作・漫画」「TVアニメ」を見たものです。「この場面は、尾張以外の人には解かるだろうか?」と内心ニヤついていました。
当時「タモリの笑っていいとも」番組内で司会者が「学生の頃、名古屋出身の友人が『海老フリャー、海老フリャー』と頻繁に言っていた。」と話して、有ろう事か「海老フライは名古屋名物」と生放送で言ってしまったのです。 それを見た私は「早稲田大学出がナニを間違えているんだ。」と呆れましたが、この話しは10年程、誤解されたまま全国に「名古屋名物、海老フライ」と伝播してしまいました。
私より二つ歳上の「江川達也」先生は、出世作「Be free」で「ご自身をモデルにした、『名古屋弁で話す数学教師』が主役。」「ストーリーは全てフィクション」「全編、過激なギャグ・アクション」しかして「最終話」まで読み終えた後「何がしかの思想」を感じ取れる「力作」でした。
最後に、惜しまれつつも漫画家を「廃業」してしまった、「名古屋出身の漫画家」「とりいかずよし」先生を忘れる訳にはいきません。70年代前半「トイレット博士」が出世作、70年代後半「おみゃーオジさん」(タイトルから中身まで全て名古屋弁丸出しギャグでした。)80年代には「トップは俺だ」と次々と「ヒット作」を長期連載していたのですが、90年代に入ってからは作品を見なくなりました。今世紀になって「某週刊誌」のインタビューで「漫画家・廃業」を知り「人気作家」だけに、多くの読者が惜しんでいました。
またしてもの長文、お付き合い有り難う御座います。
>ara40oyajiさま こんばんは
タモリさんが地方の嘲笑ネタをやっていたのは、時期的に。
日本テレビの「今夜は最高」あたりじゃないでしょうかね?
それ以前の、ラジオの「オールナイトニッポン」でも、
相当ウケて全国に広まったようですけれども…。
鳥山先生は相当なラジオ好きだったようですし、
名古屋を愛されているのもマンガから伝わってきますので、
沸々とした思いが溢れていたのかもしれませんね。
この地方は漫画家さんも多いですよね。
何より、鳥山先生はこの地方に居続けてくれるのも嬉しいですね。