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名古屋開府400年・当時のトップは瀬戸に眠る-定光寺

記事公開日:2008年3月15日

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 2010(H22)年は名古屋開府400年ということで、先日は初めての名古屋検定となる「第1回なごや四百年時代検定」の試験も行われ、名古屋城本丸御殿の復元事業など、節目に向けて名古屋市は、裏金問題に揺れながらもあの時代に思いを馳せる事業を進めています。

 じゃあ、400年前まではどこが栄えていたの?と思いますよね。それまでは清須市がこの地方の中心地で、さらにその昔は稲沢市が中心でした。それが1610(慶長15)年、徳川家康によって行われた街全体のお引越し「清洲越」によって、名古屋が中心になったのです。

 そして、その名古屋で初めてトップに立った人物は、名古屋市内ではなく、意外にも瀬戸市に今も眠っているのです。二代目以降は名古屋に眠っているにもかかわらずです。しかも、本人の意思で瀬戸にお墓が造営されたとのこと。なぜ瀬戸を選んだのか、瀬戸に住んでいる私としてはとても気になります。というわけで、今も残るそのお墓へと行ってきました。

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未踏の地にハマってしまった

 やってきたのは瀬戸市の定光寺。定光寺と言いますと、紅葉の名所やホタルの観察地として知られていますが、春日井市の高蔵寺と同様に、その名を地名として認識されている方も多いのではないでしょうか。

 定光寺は、1336(建武3)年に創建された臨済宗妙心寺派のお寺で、境内には桜やもみじの木が多く、お花見そして紅葉のスポットとして「尾張嵐山」とも呼ばれ、人気があります。

 開山したのは覚源禅師。当時この場所は人跡未踏の地。なぜそんなこの場所にお寺を創建したのでしょうか。覚源禅師は諸国を遊歴したのですが、この、人跡未踏の地にやってきた際、すっかり心惹かれてしまい、日頃から信仰していた延命地蔵菩薩とともに坐禅をし始めたのだそうです。すると、その噂を聞いた多くの人々が、覚源禅師に教えを請いたいとやってきたために、その延命地蔵菩薩を本尊として定光寺を創建したことが始まりです。

 この場所に何かを感じたのでしょうね。

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500年前の姿が今もそのまま

 では、その延命地蔵菩薩の祀られている本堂へ。この本堂は1534(天文3)年に再建されたもので、国の重要文化財となっています。もう、一目見て、歴史の重みを感じることができます。あの名古屋城よりもさらに歴史があるのです!と言っても、まあ、あの名古屋城は戦後再建されたものなので、そもそも見た目での比較には全く意味がありませんが。

 ご利益はもちろん延命、そしてそのほかにも学業成就、安産、病気平癒、交通安全となっています。

 お参りをしたところで本題です。定光寺のもうひとつの顔。そう、尾張徳川家の菩提寺としての定光寺を見ていくことにしましょう。

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尾張藩初代藩主の眠る山

 本堂の右奥には、「源敬公廟」と呼ばれる場所への門があります。拝観料は100円です。源敬公とは徳川義直の諡(おくりな)、つまり亡くなった後に付けられた名前です。

 この義直こそが、名古屋・尾張藩の初代藩主で、名古屋で初めてトップに立った人物なのです。

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 当初徳川家康は、尾張藩には四男の松平忠吉を清洲城主として送り込んだのですが、病死してしまい、代わりに九男の義直(当時は義利)を継がせたのです。しかし清洲城は、水攻めのおそれがあったことから、家康は移転を計画。そして名古屋への移転を決めると、自ら清洲城にやってきて、しばらく滞在して直接義直に移転についての指示をしているのです。

 藩主に息子を送り込み、お城と城下町の移転を直接指示。家康がいかに尾張を重要視していたかがわかります。

 では、石段を上っていきましょう。これが結構歩き応えがあります。途中にある、あの日光東照宮の「眠り猫」を作ったとも言われている伝説の彫刻師、左甚五郎の作品が残る獅子門も重要文化財です。ということは、そう、この源敬公廟も作られた江戸時代当時のままなのです。

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当時も珍しかった独特な墓所

 しばらく歩きぐるっと回ると、森の中にそれは現れます。耳元を独特な風、いや、何か気が触れていきます。またそれとは別に、見た目にも何か独特なものを感じます。私はこれまであちこちのお寺を見てきましたが、明らかに、これまで見てきたお寺にある建物とは何かが違います。

 実はこのお墓、中国の儒教の影響を受けているのです。義直は父が儒教に親しんでいたこともあって、中国人の陳元贇という人物を召抱えていて、この墓所は、その陳元贇の設計によるのです。

 1651(慶安4)年に墳と石標が作られ、その翌年に焼香殿や宝殿、築地塀や門が作られていて、今も当時のままの姿です。その当時においても、この建築はかなり異彩を放っていたとのことです。

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せとものの瀬戸だからではないけれど

 門をくぐると、石参道の先にあるのは焼香殿。床には陶板が敷き詰められています。これは古瀬戸の焼物ですが、瀬戸が焼物の産地だからという理由ではなく、儒教式だからなのです。

 儒教と言えば「仁、義、礼、智、信」。親子も夫婦も友達も上司と部下も、徳をもって接するという教えです。

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 ということは、義直は藩主として、そして上司としては接しやすい人物だったのかもしれませんね。上司となかなかうまく行かない方、夫婦関係がイマイチな方、そして友達がなかなかできないという方も、ここで義直にあやかってみるというのもいいかも。

 まあでも、人間関係がうまくいかないのは、本人に問題がある場合もありますので、必ずあやかれるとは一概には言えませんが。

 でも実際には、義直はかなりプライドが高かったようで、江戸の三代将軍・家光とは馬が合わなかったエピソードは有名ですが...。

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そして9人が後を追った

 焼香殿の右手には宝殿と、いくつかのお墓があります。あれ?ここは徳川義直だけのお墓じゃないの?と思ったら、そこに祀られている9人は、徳川義直の後を追って殉死した人たちのものでした。

 まあ、後追いというのは必ずしも本人の意思が全てとは限りませんが、今もこうやって一緒に祀られているくらいですから、あちらの世界でも共に過ごしているのでしょうか、それとも、「ちょっと!俺はまだやりたいことがあったんですけど!」なんて、言ってたりする人もいたりしてね。

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義直はなぜ瀬戸を選んだのか

 では、最も奥にある墳墓へ。墳墓の敷地が全体的に一段高くなっていて、さらにそこに墳墓が設けられているという二段構えになっています。徳川葵の輝く唐門は鍵がかかっていますが、近くまで上って見ることは可能です。

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 そしてその墳墓の真ん中には石標が。

 それにしても、なぜ義直はこの瀬戸の定光寺にお墓を立てて欲しいと言ったのでしょうか。

 義直は生前、このあたりに鷹狩によくやってきていて、それで、死後は定光寺に墓を作ってくれと言っていたのだそうです。

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 義直は、この地を鷹狩の場所として気に入っていただけではなく、定光寺に対しても保護を与えていたとのこと。さらには、離散していた陶工を瀬戸に呼び戻し、瀬戸の陶器産業も育成していたという話ですから、かなり瀬戸のことがお気に入りだったということがわかります。

 尾張名古屋の発展の基礎を築いた初代藩主義直。

 義直が墓所としてこの地を選んだのは、瀬戸がお気に入りだったというだけではなく、ひょっとすると、瀬戸の未来を心配していたという側面があったのかもしれません。いつまでも瀬戸が発展し続けるように、自分が永遠に瀬戸を見守っていたい。いや、自分が見ていないと瀬戸はヤバいかも...。

 そういった思いが義直にあったのではないか。源敬公廟を訪れて、そんなことを考えてしまいました。

 義直がここに眠っている以上、瀬戸はいつまでも、義直の期待に応えられる瀬戸でないといけませんね。

関連情報

定光寺

定光寺(愛知・瀬戸市)MAP

瀬戸市 定光寺

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