13.緑区 名古屋を歩こう

若き家康、愕然

記事公開日:2005年10月20日 更新日:

画像

 前回は大高の酒蔵を見て周りましたが、今回はその酒蔵の一つである萬乗醸造元から、元康の兵糧入れで知られる大高城址と、その城址の周りをぐるっと歩いてみましょう。東昌寺を横目に見て東へと歩きます。この酒蔵のある界隈の南側にある小高い山が大高城址です。城址を通り過ぎて大高川の手前で道路に突き当たると左側に秋葉社があります。

スポンサーリンク

 この秋葉社の創建は不明ですが、かなり昔からここに鎮座しているといわれています。秋葉社といえば防火の神様で、各地至るところに祀られていますが、この大高には特別な事情があります。大高はかつて火高という地名でした。それはこの界隈で大火事が発生し、多くの被害を出した故事に由来するものでした。そのため古くから防火の神様をここに祀っていたものと思われます。

画像 画像 画像 画像 画像

▲萬乗醸造元のすぐ南側にある東昌寺。
画像
▲秋葉社。地名を変えるほどの大火事とは、壮絶なものだったことでしょう。
画像
▲この先の森が大高城跡です。

 このあたりはかつて江戸時代には市がたち、賑わいを見せていたそうですが今はその面影はありません。今は昭和の頃に寄贈された、地名表示のホーロー看板が哀愁を漂わせています。しかもその地名看板には「ここは大高町」とあります。これってひょっとして、緑区大高町ではなく、知多郡大高町の頃のものかもしれませんね。どこが寄贈した看板なのかと見ると「鳴海駅前東海証券」とあります。東海証券もその母体である東海銀行も現在は無くなってしまいました。東海証券は合併を繰り返し、現在は東海東京証券となっていて鳴海にもまだ支店がありますが、この看板の存在は認識していないでしょうね。その看板には「無記名ワリコー」という広告があるのですが、今の東海東京証券なら「ACM・アメリカン・インカム・ポートフォーリオ」か「セーヌ」でも書くでしょうね。ここから大高城址に入ることができるのですが、ぐるっと一周します。

画像 画像 画像

▲この道も大高城跡に続いています。
画像
▲いつの時代の看板でしょうか。ここは大高町。それは今も変わりません。

 秋葉社の角を南に曲がります。すると右側に、急坂の上に立つ海岸寺があります。明治時代には、大高小学校の分教場があったお寺です。そしてしばらく歩くと太い道路にぶつかります。森の里界隈です。この森の里は、大高町地内としては珍しく市営住宅が建ち並ぶ街で、既に区画整理も終わっています。住宅の規模も大きく周辺に大高小学校、中学校、銀行に公設市場があり賑わっています。その公設市場の向かいには津島社があります。創建は不明ですが、1682(天和2)年の記録に残っているそうです。境内には「大高南部農車道開墾之碑」があります。見ると明治13年竣工、明治27年3月(碑)建立とあります。この道路、大高にしては珍しく太くて立派だなあと思ったら、由緒があったのですね。

画像 画像 画像 画像 画像

▲海岸寺。創建当時はここが海岸だったのでしょうか。
画像
▲珍しく道が開けている森の里。それには理由が。
画像
▲大高南部農道として明治時代に開墾されたのでした。

 ホーロー看板がたくさんつけられた、潰れかけた廃屋に哀愁を感じつつ南へと歩きます。すると高層住宅の「市営森の里荘」のなかに不思議な公園を発見しました。「碑石公園・モニュメントパーク」と書かれています。公園のあちこちには、草に隠れるように大小さまざまな大きさの石が散りばめられています。つまづきそう...。その先の大高幼稚園のある角を右に曲がって大高小学校の方向へと歩きます。道路は再び大高らしく細くなります。

画像 画像 画像 画像 画像

▲開墾碑はこの津島社の境内にあります。
画像
▲市営森の里荘の前にあるモニュメントパーク。石がごろごろ。
画像
▲道が広いのはここだけ。再び細い左側の道へ。

 大高小学校を通り過ぎると、大高保育園のある角に「大高城跡公園」という矢印のついた看板が登場します。どう見ても民家と民家の間を通る細い路地にしか見えません。看板が無ければ気づかずに通り過ぎてしまったことでしょう。しばらくは民家があるのですが、やがて芝生が広がり「ジェイアール東海不動産管理地」という看板が現れました。かつては鉄道の拠点か何かがあったのでしょうか。するとちょっと怖い感じの廃屋に突き当たります。本当に公園があるのかと疑問を持ってしまいますが、そのまま廃屋の脇道を進むと、子ども達のはしゃぐ声が聞こえ、急にパーッとあたりが開けます。

画像 画像 画像 画像 画像

▲大きい看板で良かった。
画像
▲だって、こんな路地裏のような通りなのですから。
画像
▲JR東海が管理しているということは、かつては物流基地か何か?

 大高城跡公園です。大きな芝生の周りには急坂があり、子どもたちが段ボールの上に乗っかって滑る姿が見えます。その坂には細い鳥居と小さなお社がありました。これは大高駅の近くにあった、20歳の家康がお参りをしたといわれる八幡社のもうひとつのお社でしょうか。大高城主は現在地と大高城址に八幡社を鎮座させたとありましたから、たぶんそうでしょう。その八幡社を相模国から大高に迎えたのが、ここにあった大高城の城主花井備中守でした。

画像 画像 画像 画像 画像

▲この自然トンネルをくぐると城跡公園が広がります。
画像
▲子どもたちが段ボールで城の急坂を滑っていました。
画像
▲大高城にあった八幡社の分社でしょうか。

 大高城の築城時期は不明ですが、永正年間(1504-21)の頃花井備中守が築城したという説があります。その後天文・弘治年間(1532-58)には水野忠氏親子が居城していたと記録されています。東西約106メートル、南北32メートルの規模がありましたが、危険な状態の箇所が多かったために内堀以外は取り壊され、昔の面影はほとんどありません。丸根砦、鷲津砦とともに1938(S13)年に国の史跡指定を受けています。

 大高城が廃城になったのは、桶狭間の戦いによってです。このお城には若かりし頃の徳川家康が大活躍したエピソードが残されていますが、家康はその活躍の直後に愕然とすることになります。

画像 画像 画像 画像 画像

▲お城であった面影はほとんどありませんが、若干残っています。
画像
▲城址であることを示す碑。
画像
▲兵糧入れをした若き家康はその後落胆。

 大高城は水野忠氏親子が居城していた頃、今川義元側に属していました。しかしその後織田信長側に鞍替えしたために、鳴海城主だった今川方の山口左馬之助に攻められ、義元の家臣である鵜殿長照が入城しました。

 ところ変わって三河の国で大きな力を持っていた松平家のお話です。松平家は絶大な力を誇っていたのですが、元康(幼名竹千代のちの徳川家康)が生まれた頃には力を失いつつあり、元康は幼少の頃、駿河の国の今川家へ人質として連れて行かれます。元康はその際、義母の父である戸田康光の謀略によって織田信秀に送られ、2年ほど熱田区伝馬町の加藤図書助のもとで幽閉された時期がありました。その際に信長と知り合うことになります。

 元康の父・広忠は殺され、岡崎は今川方に支配されてしまいます。元康は人質交換で駿河の国へと移され、義元の下で元服します。このときに義元の元をとって元信と名乗るようになり、その後元康と改めます。元康は17歳のときに桶狭間の戦いを迎えます。

 当時大高城は今川軍の配下であったものの、鷲津・丸根の両砦から織田方に監視され食料調達もままならず、このままでは食料が枯渇してしまうという状況でした。そこで元康は義元から大高城への兵糧入れを任されます。元康は丸根砦を陥落し突破、見事大高城への兵糧入れを成功します。その際の元康の見事な戦略は、武士の間で有名となり「大高の兵糧入れ」として大名の間に広がることになります。もうひとつの織田軍の砦だった丸根砦も陥落します。しかし大高城に入った元康の耳に、信じられない報告が入ります。

 その信じられない報告とは、そうです。今川義元の首が信長に取られたという報告です。元康は最初その報告を疑い、使いを出して確認をさせました。愕然とした元康は、今川軍の力が及ばなくなり城主のいなくなった岡崎城へと入ります。長年、織田・今川に翻弄され故郷へ帰ることが許されなかった元康。元康はようやく岡崎へと戻ることができ、自立を果たすのです。大高城は役目を失い、この時廃城となっています。

 桶狭間の戦いの2年後、元康は織田信長と同盟を結びます。その翌年、この大高の地に再び訪れた20才の元康は八幡社にお参りをし、義元から一文字を頂戴した元康という名前を捨て、家康と名を改めています。

 八幡社で家康は何を願ったのでしょう。その後の家康の活躍を見ると、大高町八幡社にはとてつもない力があるような気がします。地元での信仰が厚いのも頷けます。

 戦国時代から今度は、神話・古代の世界へと歩きましょう。


スポンサーリンク


-13.緑区, 名古屋を歩こう
-

Copyright© TOPPY.NET トッピーネット , 2024 AllRights Reserved.