石見銀山(島根・大田市)
2007(H19)年7月に世界遺産になったばかりの石見銀山。銀山の遺跡はもちろんのこと、かつて栄えた銀山のふもとにある町並みは、今も当時の面影を残します。さらには銀山で亡くなった人々を供養する、いろんな意味でリアルな石像たちと出会える五百羅漢は圧巻。本格的な釜飯を食べて、数キロ歩くことを覚悟しないと遺跡にはたどり着けない!?そしてその遺跡で感じた寒気は何?
石見銀山から、同じく大田市内の三瓶山、三瓶温泉にも足を伸ばして、観光と生活の間で揺れる世界遺産で感じた疲れを、大自然の温泉でふっ飛ばします。
今回は、我が国で最も新しい世界遺産である「石見銀山」へ。銀山というと、大陸のゴールドラッシュのようなイメージを抱きがちですが、実際には悲しい実態も。悲喜こもごもな石見銀山を見て回ります。
歩くしかない
「石見銀山遺跡とその文化的景観」は、2007(H19)年7月に世界遺産に登録されました。現在日本には14件の世界遺産がり、そのなかで最も新しいのがこの石見銀山です。
世界遺産になってからまだ1年。どっと押し寄せる観光客の対応にまだ慣れておらず、駐車場は一応整備されているものの、遊歩道からは遠く、本数の限られたバスでの移動となります。しかもバスは積み残しがある状態。
とにかく…歩くことを覚悟して石見銀山に臨みます。
石見銀山は、かつての銀山遺跡がある「銀山地区」と、銀山が栄えた頃からの町並みが残る「町並み地区」にわかれています。まずは町並み地区から見ていきましょう。
町並み地区には、江戸時代の代官所を再生した「石見銀山資料館」や、この銀山で最も有力だった商人の屋敷「熊谷家住宅」などがあり、華やかだった頃のイメージをもつことができます。さらには大森区裁判所だった建物をそのまま利用した「町並み交流センター」などがあります。
まだまだこれから…なのかな
まあ、古い町並みが残っているのはわかるのですが、やはりまだ世界遺産に登録されたばかりで、観光地化が進んでいないのか、進める気は若干感じるものの、身近に有松といった東海道の町並みや、犬山といった味のある城下町が存在する名古屋っ子の視点で見ると、物足りなさを感じますが、そもそもこの素朴さが売りなので、そう感じている時点で尺度を間違えています。
その町並み交流センターには、この石見銀山が世界遺産に登録されることが決まったことを報じる、読売新聞の号外が展示されていました。嬉しいのはわかるのですが、その号外を見せられた観光客は、一体何をどう感じろと言うのか…。
町並みにあわせて、自販機も木目調になっています。約800メートルにわたって続く町並み地区には、ここ最近ではカフェやパン屋さん、釜飯屋さんなどが見られますが、かつては食事のできるお店が1軒しかなかったとのこと。やっぱり、まだまだこれからですね。
さらに歩くしかない
町並み地区を抜けると、そこから約2.3キロに渡って続くのが「銀山地区」です。その先に、かつて銀が採掘された坑道で唯一常時見学が可能な「龍源寺間歩」があります。石見銀山まで来て、銀山の遺跡を見ないわけにはいかないでしょう。
しかし、路線バスも満足に運行されていない状態で、そこまで歩く気にはなれないと、資料館と町並みを見ただけで帰ってしまう観光客も多いとか。
そんな…。古い町並みだけ見て帰るくらいなら、ここよりも、有松や犬山で充分ですよ、本当に。
気合を入れて、真夏の日差しのなか歩く決意をします。コンクリート舗装がされた道と、森の中を歩く遊歩道がありますので、私たちは清水谷精錬所跡を通る、銀山遊歩道を歩いていくことにします。
森の中は幾分涼しい…しかしやはり2.3キロはきつい…。近くを歩いていたご婦人たちに「若いんだから大丈夫でしょ」などと言われつつも、ヘトヘト。
山を登るに従って、鉱山の坑道である「間歩」がいくつも登場します。ここから入っていって銀を掘り出していたわけですね…。銀を売買する商人は確かに華やかなイメージですけど、ここで銀を採掘する工夫たちの姿を想像すると…。
まあ、そちらを想像してしまう時点で、私には経営者の素質はないのかも。
頑張って歩いたご褒美?
ふもとの大森代官所跡から歩くこと3キロ以上。ようやく龍源寺間歩に到着です。当時、代官所直営の操業地であった坑道を「御直山」と呼ぶのですが、ここはそのなかでも石見銀山を代表する「五か山」のひとつで、常時公開されている間歩はここだけです。(入場料・400円)
坑木などを組み合わせて作られて坑口を入ると、汗がスーっと見事にひいていきます。なぜなら、間歩のなかは年中一定の温度となっていて、この日も外は30℃を越える真夏日にもかかわらず、中は20℃以下。一気にクールダウンです。
さて、この龍源寺間歩の入口にはボランティアガイドの方がいまして、銀山の様々なエピソードを聞かせてくれます。それを思い出しながら坑道を歩きます。
温度が低いから?それとも寒気?
坑道からは、さらに細い坑道があちこちに続いていて、なかには人が四つん這いでなければ進めないような場所もあります。そして壁面のあちこちには、ノミで削った跡も見られます。
大森の町並みを歩き、銀を売買し、繁栄していた石見に思いを馳せるのもロマンですが、やはりこの坑道では当時の労働の様子が気になります。
龍源寺間歩のなかには「石見銀山絵巻」を引用して、当時の労働の様子が展示されています。崩落しないように天井の土砂を木材で押さえ、坑内の溜まり水を竹ポンプで吸い上げ、坑外から風を坑内に昼夜送る作業をするなか、堀子人夫(ほりこにんぷ)たちがノミで鉱石を掘るわけです。
堀子人夫たちは裕福な生活をしていたそうです。幕府からお米などたくさんの食料を与えられ、過酷な労働と引き換えに食べ物には困らない生活をしていました。
さらには、堀子人夫が30歳を迎えると、鯛など豪華な料理とお酒でお祝いをしたそうです。
なぜなら、30歳まで生きられる堀子人夫はそんなにいなかったからです。
日の全く当たらない、酸素の薄い場所での過酷な労働。寿命が短くなるのも無理はありません。食べ物に困らない生活との引き換えとしては、あまりにも残酷な話です。
そういった歴史も含めての、世界遺産なのでしょうけどね。
気温20℃のおかげなのか、残る怨念のせいなのか、どちらかはわかりませんが、とにかく冷え切った坑道から外に出ると、再び汗が噴き出します。
ここまで3キロ以上を歩いてきたわけで、さすがに帰りは1時間待ってでもバスに乗りたい…と思ったら、バス停に張り紙が。
落石による通行止めで、終点までバスは来ないとのこと。
いやいや。この坑道で労働した工夫たちのことを思えば、炎天下歩く程度のこと、たいしたことじゃないや!と言い聞かせ、山を下ります。
石見銀山では現在、この決して便利とはいえない路線バスでさえ、地元住民の住環境に影響を与えるとのことで、さらなる減便・廃止などが検討されています。世界遺産になってたくさんの観光客が訪れるようになったわけですけど、ひょっとして地元はそれを望んでいなかったとか?
とにかく、3キロ4キロ5キロ歩いて当たり前!というつもりで、石見銀山見学に挑む気概が必要です。世界遺産に登録されたのは「石見銀山遺跡とその文化的景観」。当時の文化を思えば、体力を使うのも世界遺産石見銀山の醍醐味のひとつ!ということにすれば、このままバスを廃止してもいいんじゃない?観光客激減だろうけど。
観光客の増加を望んでいるのは、行政や石見銀山の周辺で観光に関わっている人たちだけで、地元は観光客がどっと押し寄せることに反対なんでしょうね。そんな綱引きのピリピリムードも観光客に伝わってますよ。はっきり言って。
今回は石見銀山全体の現状をざっとご紹介しましたが、次回からは実際に、ふもとから天然クーラーの採掘坑へと順を追ってご紹介していきます。
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