02.中区 名古屋を歩こう

メジャーとアングラの融合

記事公開日:2004年3月18日 更新日:

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大手企業から風俗店まで受け入れる包容力-堀川

 金山から西へ歩くと、中川区との境界である堀川にぶつかります。以前中村区の名駅4・5丁目編でも紹介しましたが、この堀川は1610(慶長15)年、名古屋城が築城された時に福島正則が開削したと言われる、城から伊勢湾までを結ぶ運河です。ここから南へは、白鳥公園を抜け熱田の七里の渡しへと流れます。かつてはそこが海でした。そのあたりは熱田区編で触れることにして、堀川を名古屋城まで北上します。

 と言ってもこのあたりは観光地化されているわけでもなく、最近進出してきたドン.キホーテや毎日新聞社が目に付く程度です。高速道路の高架がある山王橋を越え、中川運河への分岐点を越えNTT東海総合病院、パチンコ店などがあるあたりから、ホテルが乱立しはじめます。またラブホテルの話か、と思わず聞いてください。ここからはラブホテルや風俗店といったアングラな存在のお店と、ミュージカルシアターや新聞社が並ぶという何でもありの街となります。

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▲洲崎橋の南には、古いラブホテルが広がります。

尾張藩の海軍基地跡-洲崎神社

 最初のラブホテル街を過ぎると、再び高速道路があります。名古屋高速東山線です。すると、右岸に洲崎神社があります。かつてこのあたりには御船手役所があり、奉行の下に船軍手1名、船手改役3名、船手与力5名、大船頭8名、船頭10名、船大工3名、水主(かこ=水夫)123名の合計153名が藩の船の仕事に従事していたと、1847(弘化4)年の記録が残っています。そして奉行には代々千賀氏がつき、尾張藩の艦船を掌握して尾張、三河、伊勢、志摩の防備に当たっていたそうです。ここが海軍の基地だったわけです。

 洲崎神社は860年頃の創建で、当時は広大な境内だったのですが、名古屋城築城の際、堀川の掘削によって境内を分断されてしまいました。昔は、広井天王牛頭(ごず)天王社と呼ばれ、その洲崎に鎮座ということから洲崎神社となりました。1709(宝永6)年には藩主綱誠より神輿が奉納され、1731(享保16)年には7代藩主宗春から、たくさんの提灯をつけたまきわら船が堀川を巡行する洲崎の天王祭を盛大にやるようにと命があり、2大天王まつりのひとつとなりました。宗春は、本当に名古屋を盛り上げようといろいろなことを手がけていたのですね。しかしその後1888(M21)年に廃止となってしまいます。

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▲洲崎神社です。かつては大きな敷地の神社だったのです。 画像 ▲縁結びの神様です。結ばれたい人は堀川河畔へ...。

宗春の思いがようやく復活跡-堀川まつり

 時は流れ、まきわら船による祭りが市民グループの手により堀川まつり(熱田天王まつり)として1990(H2)年に復活、当初は熱田七里の渡し付近での小さな祭りとしての復活でしたが、1997(H9)年にはこの洲崎神社までまきわら船がやってくるようになり、堀川流域全体での祭りの姿を取り戻しつつあります。毎年、6月の第一土曜日には現代の宗春たちが、堀川を、そして名古屋を盛り上げようと頑張ります。

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▲洲崎橋から北はメジャーとアングラが融合します。 画像 ▲ここは名古屋の都心。アヒルたちが癒してくれます。 画像 ▲名古屋っ子は、船でもスピードオーバー!?

まっすぐ帰るかそれとも...-名古屋ミュージカル劇場

 そこから北に歩くと、スナックや風俗店が建ち並ぶようになり、次の天王崎橋には警告看板が登場します。何の警告か...。「警告・売春目的の勧誘・客待ちは処罰されます」とあります。夜、一度だけ友人の運転でこのあたりを走りましたが、本当にたくさん客待ちがいます。他にもナンパ待ちをしている人たちの姿もあり、さらには黒い高級車が走り回り、怖い思いをしました。そんなアンダーグラウンドな地域かと思いきや、その中に、トーエネックや読売新聞社、神戸風月堂、さらには屋形船乗り場があります。ここで残業はしたくないなぁ。いや、ここに勤める人は慣れっこになのでしょうね。

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▲警告看板があると言うことは...。この界隈には...。 画像 ▲神戸風月堂です。閉店時間はやっぱり早いのかな? 画像 ▲屋形船はここから出発。観光にも使えそうですよね。

 そして、一際大きな建物が新名古屋ミュージカル劇場です。ここは劇団四季の専用劇場として1999(H11)年にオープンしました。総客席数は1050、残席があれば午前10時から当日券が発売されます。舞台と客席が一体となる理想的な劇場とのこと。間違ってもお帰りは安全な伏見駅の方へとお歩きください。風俗でさらに一興という人は別ですけれども。

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▲奥が名古屋ミュージカル劇場、手前が読売新聞社です。警告看板のすぐそばです。

大阪・道頓堀のようにはなり得ない-納屋橋

 その次の橋が広小路通の納屋橋です。大須にあった納屋橋まんじゅう発祥の地で、もちろんここにも店を構えています。この橋付近には、アングラな店の向かいにオシャレな中華料理を出す店や、バー、さらには歴史ある建物のかしわ(鶏肉)料理店などがあります。もう少し整備すれば、大阪の道頓堀界隈の雰囲気にもなりそうなのですが、何分「ファッションヘルス」「SMルーム完備」「ラブホテル」といった文字が目に入り、かつてはアメ横ビルを越えるかとも言われた電化ビル「ユーテクプラザ納屋橋」が廃墟となってシャッターを閉め異様な雰囲気を放っているので難しい感じがします。それでも、この広小路通は人を集めようと活性化策に取り組んでいます。それはまた後述します。

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▲納屋橋界隈です。ユーテックプラザは看板そのままなので、やっているのかと勘違いしてしまいます。 画像 ▲この橋周辺だけには、オシャレな飲食店もチラホラ登場しています。 画像 ▲納屋橋です。ここから東はオフィス街です。

 そして次が錦橋。左へ曲がると柳橋中央市場へ、右に曲がると錦界隈です。地味な街並みが続き伝馬橋、桜橋へ。そしてその次の中橋からがらりと雰囲気が変わります。中橋から次の五条橋にかけての左岸は「四間道」と呼ばれ、名古屋城下の古い街並みが残ります。このあたりは観光地として充分通用する風情があります。それはまた西区編でご紹介します。

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▲納屋橋から北を眺めます。名古屋城まではまだまだ遠い...。 画像 ▲五条橋です。このあたりは城下町風情が多分に残っています。

ここから堀川が掘削された-朝日橋

 名古屋独特の屋根神さまがある石畳の五条橋を越え、高速道路が渡る景雲橋横に芸術文化センターがあります。さらに国道22号の巾下橋を越えるともう名古屋城です。そして次の朝日橋には「堀川堀留跡の碑」があります。つまり、当初はここが掘留となっていたのです。ここが堀川の起点であったわけです。朝日橋は1785(天明5)年初めて架かり、昭和初期まで橋の下には苔むした石積みの落差工があったそうです、そのためその水音から「ザーザー橋」と呼ばれたり、橋の上を歩いた時の音から「ドンドン橋」、お堀の水の落口近くにあったことから「辰の口橋」などと呼ばれたそうです。もちろん、現在は車も通れるしっかりとした橋となっています。

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▲朝日橋から北を臨みます。かつてはここが堀留でした。 画像 ▲堀川堀留跡の碑です。もうお堀は目の前、名古屋城です。

 堀川。先ほどの祭りだけではなく、定期的に散策会や文化講座、水上武者パレードや一斉掃除といったイベントも開かれています。かつて、街は川を中心に発達したものです。観光地にも必ず川は必要です。名古屋もこの堀川を中心として魅力ある街づくりが進められています。特に五条橋、街並み保存条例にて指定されている四間道あたりには、今も当時の名古屋城・城下地風情が残っています。西区散策の楽しみがひとつできました。

 ただ、堀川周辺にはどうしてもアンダーグラウンドな部分があるために、一筋縄ではいかないようですね。夜はあまりウロウロしないほうがいいかも知れません。興味が無いと言えば嘘ですけれど。本当は、「SMルーム完備」が気になって仕方ありません。そういう趣味があるのではなくて、一体何が完備されているのか...。

 宗春は、天王まつりも盛大にやりましたが、大須に遊郭も整備しました。名古屋は昔から、街の発展と性欲を切り離せない街なのかもしれません。メジャーとアングラが交じり合っていることが魅力なのでしょう。

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▲SMルーム完備はこちら。

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