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火渡り神事と芭蕉のツレん家

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裸足で火の上を歩く火渡り神事-円通寺

 熱田神宮の正門は南側にあるので、東門前の道路を南下します。右側が熱田神宮の敷地でなくなると、たくさんの幟が立つ曹洞宗円通寺があります。このお寺は、古墳時代の豪族尾張氏が熱田の神宮寺として建立したもので、弘仁年間(810-24)には弘法大師が自ら彫った十一面観音像を安置し、円通寺と名付けたといわれています。山号は補陀山ですが、火の神様が祭られていることから秋葉山と呼ばれており、毎年12月16日に行われる火渡り神事もよく知られています。

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▲円通寺。火を渡れば汚れが消えるのか…。

 火渡り神事は火まつりとも呼ばれ、名古屋の年末恒例行事のひとつです。周囲200メートルほどの大護摩に火が入れられると、白装束に裸足の行者達がその火の上を渡ります。続いて信者や一般の人々がその火の上を渡っていきます。こうすることで1年の汚れを火で清め、新しい年を迎えるというわけです。200メートルは結構距離がありますし、走らずに歩くことから火傷をしそうな気がするのですが、不思議と火傷は負わないそうです。一度チャレンジしてみたいような…ちょっと怖い気もしますが。ただ、間違ってもストッキングなど燃えやすいものを身に付けて渡らないようにとのことです。それは想像しただけで怖い。

かつては神宮内にあったひつまぶしの名店-あつた蓬莱軒神宮南門店

 円通寺から2本南の道路を西に歩いて行くと熱田神宮の正門があります。その正門近くにも興味深い場所があります。まず、門の前にはうなぎのひつまぶしで有名なあつた蓬莱軒の神宮南門店があります。蓬莱軒は本店がここから南に300メートルほどのところにあります。なぜそんな近くにお店を構えているのかといいますと、この神宮南門店は1949(S24)年から1996(H8)年まで熱田神宮の東門境内にあったお店なのです。諸事情によりこの南門近くの土地に移転したため、本店と近くなってしまったのです。本店はいつも行列で混んでいますから、こちらは穴場的な存在となっています。ひつまぶしについては本店の所で詳しくご説明します。お店の前を通るだけでタレの焦げるいい香りが漂います。

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▲あつた蓬莱軒神宮南門店です。うなぎを焼くいい香り。

芭蕉の門人でもありツレでもあった-林桐葉宅跡

 そしてその蓬莱軒の南どなりには、名古屋の言葉で言うと松尾芭蕉のツレの家がありました。そのツレとは林桐葉です。彼は1684(貞享元)年冬、「野ざらし紀行」の旅をしていた芭蕉をこの家に呼び句会を開きました。そのときに林桐葉は蕉門に入り、その後芭蕉は何度もここを訪れました。桐葉は鳴海で酒作りをしていた下里千足を芭蕉に紹介し、1687(貞享4)年には熱田三歌仙をここで巻いています。そんな桐葉も晩年には書道に熱中してしまい、俳句にはあまり興味が無くなってしまったそうです。そして1712(正徳2)年に亡くなっています。ただ書道もかじっただけではなく、臨高の号をもつ書の大家でもあったそうです。芭蕉は1694(元禄7)年に亡くなってしまっているので、それもあって晩年の林桐葉は俳句をあまりやらなくなってしまったのかもしれません。

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▲「芭蕉のツレ」林桐葉の宅跡です。芭蕉はゆっくり休んでいたそうです。

  芭蕉は亡くなった1694(元禄7)年にも名古屋を訪れています。この林桐葉の家は旧東海道の近くにあったこともあるでしょうが、門人としてだけではなく実際に友人としての付き合いもあったそうです。交通が発達していない当時、芭蕉の全国行脚の話はそれはそれは刺激的だったことでしょう。桐葉は芭蕉が来るのをいつも心待ちにしていたのだと思います。亡くなったと知った時のショックは大きかったでしょうね。

東海道の渡し舟に時を告げた鐘-蔵福寺

 その林桐葉宅跡の向かいには蔵福寺があります。ここには七里の渡し航行のために、時を告げる鐘が設置されていました。今も当時の鐘が残されています。七里の渡しとは、東海道唯一の海上路でここから桑名までを結んでいた渡し舟です。七里の渡し跡はここから500メートルほど南西です。そこには戦争で燃えてしまった、時の鐘鐘楼が復元されています。この蔵福寺ですが、お寺の名前の看板が外から見えるところに無いのでちょっと不安です。

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▲かつて時の鐘を鳴らしていた蔵福寺。江戸時代の鐘は今もあります。

 芭蕉はここで旅の疲れを癒しつつ楽しい旅の話を桐葉に聞かせていると、時を知らせる鐘が鳴り、「ちょっと熱田さんにお参りに行ってこようかな。」なんて会話が繰り広げられていたのかな

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