丸根・鷲津-相次いで陥落・信長のふたつの砦

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緑区[7] 丸根・鷲津

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大高城を包囲するために-丸根砦

前回、大高緑地の南西にある「砦前」交差点から南の大府市境まで歩きましたが、再び砦前交差点に戻り、今度はその「砦」方向へと歩いていきます。

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▲この先が丸根砦。続いているのかどうか不安になる道

砦前交差点から大高緑地に沿って東へと歩き、最初の角を左折して住宅街に入ります。そして次の角を右折すると先が急坂になっていて、一見住宅で行き止まりになっているように見えますが、その先に砦跡があります。

地図上では円形の砦を囲むように道路がある表記になっていますが、道路といっても舗装もされておらず草が覆い繁りますが、徒歩でならちゃんと通り抜けられます。坂を登ると周囲が一望できます。

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▲南側は大高が一望できます

大高のホテル街に高速道路、大高緑地も見通せます。しかし南側からは砦の中に入ることができないので、草を掻き分けて北側へと通り抜けます。

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▲東側も有松方面まで見渡せます

かつてここにあったのは「丸根砦」。1559(永禄2)年に織田信長によって築かれたものです。その目的は大高城を包囲するためのものでした。

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▲砦のまわりを一周できる道。なんとか歩けます

駿河の国から三河、そして尾張へと勢力を伸ばしていた今川義元は、根古屋城(鳴海城)主山口左馬介を織田方から今川勢に寝返らせることに成功。以後山口左馬介は大高城、豊明市の沓掛城を奪い取り、3つの城は今川義元の手中となりました。

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▲一部階段が残されていました

尾張国内に義元の前線基地ができてしまったわけです。大高城はこの丸根砦から西へ800メートルのところにありました。

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▲史跡であることを示す碑

1560(永禄3)年の桶狭間の戦いの際には、佐久間盛重がここを守っていたのですが、義元によって大高城への兵糧入れを命ぜられた松平元康(後の徳川家康)が鉄砲で攻撃。激しい戦いの末に織田勢は全滅してしまいました。

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▲砦の敷地内にも入ることができますが、木々で何も見渡せません

元康は丸根砦を陥落した後、大高城へと向かいます。この丸根砦とともに大高城包囲のために作られたもうひとつの砦、鷲津砦がここから北西500メートルほどのところにあり、丸根砦址、鷲津砦址、そして大高城址は1938(S13)年に国の史跡指定を受けています。

この丸根砦の大きさは東西36メートル、南北28メートルで、幅3.6メートルの堀が周囲に巡らしてあり、現在もその姿を留めています。

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▲先ほどの碑よりも大きい、丸根砦慰霊碑

中に入ります。砦跡は現在、たくさんの樹木に覆われ遠くを見渡すことはできません。「史蹟丸根砦址」という石碑と、丸根砦慰霊碑が木陰に立っています。全く観光地化はされていませんが、近くの交差点の名称が「砦前」になっているのは、名古屋市らしくなく粋な計らいだと思います。

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▲砦前。信号のネーミングは洒落ているんだけど、肝心の砦が未整備

傾斜した状態で駐車-山神社・神明社

砦前交差点からJR東海道本線に沿って北西へと歩きます。左側にクリスタル技術育成センター名古屋がある角を左折すると、小さなお社があります。山仕事や猟師の安全を願って祀られた山神社です。

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▲山神社です。今では山仕事や猟師とは無縁になってしまいました

現在は生活一般と交通安全にご利益があります。今度は丸根バス停のところにある右側の急坂を登っていくと、左側の急な斜面に、傾斜した状態で車を停めなくてはならないようなちょっと無茶な月極め駐車場があります。

その駐車場の脇に森の中へと続く道があり、そこに神明社があります。

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▲神明社はこの奥のさらに奥

鳥居をくぐってさらに急な階段を登った先にお社があります。かなり高い位置にあるとは思うのですが、ここも森が深くて周囲の景色を垣間見ることはできません。

駐車場を横目に坂道をさらに登ると、先程の丸根砦へと出ます。周囲は静かな住宅地。「幼稚園建設反対」の幟がいくつも風になびいていました。武将の幟だと頑張って思えば気分は戦国時代。

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▲気分は戦国時代!?

お稲荷さんが仏様を助けた伝説-長寿寺

再びJR東海道本線沿いを歩きます。すると大きな山門のある長寿寺が見えてきます。この長寿寺の向こう側がもうひとつの砦、鷲津砦です。

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▲山門がとっても大きい長寿寺

まずは長寿寺から見ていきましょう。もとは真言宗長祐寺だったのですが、桶狭間の戦いのときに鷲津砦が攻められると、長祐寺はその兵火によって焼失してしまいました。その後1682(天和2)年、志水忠時の手によって再興されました。これは忠時の祖母長寿院の遺言によるものでした。

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▲知多四国めぐり第87番札所を示す石碑

長寿院は黄檗宗への信仰が厚く黄檗宗に改宗、寺号を長寿寺としました。1691(元禄4)年に現在の臨済宗に改宗しています。知多四国めぐりの第87番札所にもなっていて、多くの人が訪れています。

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▲こちらが長寿寺の本堂です

長寿寺の一角には鮮やかな赤い鳥居がいくつも並んでいます。坂を登り直角に曲がるとそこには高蔵坊稲荷の本殿があります。よく見ると鳥居はかなり年季が入っていて、所々色が取れかかっていますが、森の中にあるために緑と赤の色の対比が実に刺激的です。

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▲赤い鳥居を登っていくと高蔵坊稲荷があります

商売繁盛の神様です。神仏習合の名残かと思いきや、一風変わった伝説がこのお稲荷さんには残されています。

かつて、薪拾いにこの裏山へとやってきた薪取りが、大鷲の巣に観世音菩薩像があるのを見つけました。それをここに祀ったところご利益があり、山の名が鷲津山と名付けられお寺が建てられました。

しばらくはそのご利益があったのですが、やがて寺は荒廃してしまいます。住職が嘆いていると、お寺に住んでいた一匹の老いた狐がやってきて話に耳を傾けました。

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▲仏さまを助けたお稲荷さん

すると狐は高蔵坊に化けて関東に行き、このお寺のご利益をあちこちで話して参詣を進め、たちまちお寺は関東からの参詣客で溢れ、本堂の再建と本尊の修理が完了したのです。

このお稲荷さんにはその狐が祀られています。お稲荷さんが仏様を助けたという不思議なお話です。

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▲裏手は砦ともなった山です

大高と鳴海を結ぶ道を押さえる役割も-鷲津砦

では、長寿寺の奥にある鷲津砦へと向かいます。ここは丸根砦とは違い、鷲津砦公園として整備されていて、砦址を散策する道もあります。案内看板の横を通って森の中へと進んでいきます。

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▲鷲津砦は一応公園として全体が整備されています

しばらく歩くと、右側に鷲津砦跡の碑、左側に表忠碑があります。鷲津砦も丸根砦と同じく、1559(永禄2)年に大高城包囲のために信長によって築かれたものです。規模は東西25メートル、南北27メートルと寛文村々覚書によって伝えられていますが、砦跡の正確な境界はわかっていません。

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▲整備といっても、ただ道があるだけですが

かなりの勾配を登りきると、そこには広場と児童園があり再び住宅街が広がります。その先は断崖。ここは大高城方向だけではなく鳴海城方向も開けています。この鷲津砦は大高城を見張るだけでなく、大高と鳴海を結ぶ交通を押さえる役割もあったそうです。

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▲こちらが砦跡であることを示す石碑

桶狭間の戦いの際、鷲津砦には飯尾定宗がたてこもり、そこに今川軍は重臣朝比奈泰能を送り込みました。

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▲登りきると南側だけでなく北側にも開けています

ここでも丸根砦と同じように激しい戦いが繰り広げられ、大半の兵士が討死しました。丸根砦と鷲津砦を陥落された信長。しかし合戦は信長の逆転勝利。

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▲その先は絶壁。道路ではなく階段です

合戦後、このふたつの砦は役目を終え廃止されます。では大高城はどうなったのか。鷲津砦周辺を散策した後に向かいます。

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▲道路もありますが、四輪車は通行不可という急坂、急カーブ

愛知県で初めて開設された保育施設-明忠院

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▲大高駅の東側へ

鷲津砦公園にいると駅のアナウンスが聞こえてきます。その音のするJR大高駅方向へと山を下ります。大高駅は西側が駅前になっていて、こちら東側は本当に静か。大高駅東バス停の先にある信号を右折します。

しばらく歩くと右側に赤い山門の明忠院というお寺があります。山口海老之丞によって1573(天正元)年に創建されたお寺で、大きな保育園が併設されています。

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▲愛知県で初めて開設されたといわれる保育施設。

この保育園の歴史も古く、前身は1921(T10)年に愛知県で初めて開設された保育施設なのです。

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▲その保育園を運営する明忠院

大高町と鳴海町の町境-知多四国めぐり道標

明忠院のある角を逆に左に曲がり、もう一本北側の道路に出ます。すると左側に「右やごと・かさでら」と書かれた、知多四国巡りのためと思われる道標があります。

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▲昔からある道標。左の「かさでら」方向へ

その細い道へと足を進めます。ここまでは旧大高町でしたが、この先は旧鳴海町となります。周囲は昔ながらの農家の建物が建ち並び、防火水槽にも歴史を感じてしまいます。

そんななか、農家を改造したギャラリーがあります。風在舎です。ここでは絵画や陶器を見ながらゆっくりとした時間を過ごせます。気に入れば購入もできます。木曜から日曜の午後のみオープン。農家の扉の向こうに芸術の世界が広がります。なぜ陶器と絵画なのでしょう。それは簡単。画家と陶芸家のふたりのギャラリーだからです。

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▲農村風景になります。農家を改造したギャラリーは新鮮

伊勢湾台風で倒壊し新築された-鳴海八幡宮

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▲どこか山里に迷い込んでしまったかのよう

古い農家の間を北東に歩いていきます。なかにはボロボロの廃屋もありますが、それがさらに里山感を演出してくれます。この時、ここが名古屋市内であることはすっかり忘れていました。その里山の先にあるのが鳴海八幡宮です。

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▲草が生え放題です

大きな赤い鳥居の奥に、ぐぐっと広がる鳴海八幡宮。かなりの広さです。周囲は大きなクスノキに覆われています。創建は不明ですが、古くから八幡宮として信仰を集め、成海神社の別宮と伝えられています。

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▲もとは成海神社の別宮だった鳴海八幡宮

裏方の成海神社に対して表方と呼ばれています。5つの神様を祀り、境内には北野天満社など10の末社があります。1872(M5)年には村社となり八幡社となっていましたが、現在の社殿は1968(S43)年の伊勢湾台風によって倒壊した後に新築されたもので、以降鳴海八幡宮と改称しています。

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▲伊勢湾台風後に新築された社殿

境内にはひときわ目立つ1本の太いクスノキがあります。その大きさは幹周り8メートル、枝の広がり18メートルにも及びます。高さは30メートル。樹齢はなんと1100年から1200年と推定されています。

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▲このクスノキは桶狭間の戦いも見ていたはず

無病息災、延命長寿、開運の神木として崇められています。大迫力です。1200年前ということは平安時代です。このクスノキは桶狭間の戦いの頃には立派な木になっていて、ふたつの砦の戦火を見ていたはず。その後信長が逆転勝利をしたと聞いて、このクスノキは驚いたことでしょう。

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▲かつて成海神社と喧嘩別れした例大祭。現在は表方と裏方共同開催です

その報告に驚いたのはクスノキだけではありません。先程登場したあの人も驚きました。では、その人物が今川軍の手先として乗り込んだ大高城址へと進みましょう。

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