08.熱田区 名古屋を歩こう

重要文化財に住む?

記事公開日:2004年9月14日 更新日:

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七里の渡しの常夜灯を250年近く管理-宝勝院

 蓬莱陣屋のすぐ南側には熱田湊常夜燈を1654(承応3)年頃から1891(M24)年まで管理をしていた宝勝院があります。本尊の阿弥陀如来立像は鎌倉時代に寄木造りで作られたもので、肉親は金泥、衣部は漆箔、玉眼嵌入で胎内には摺仏、印仏、写経などの納入品が納められていました。写経には僧永厳が1232(貞永元)年に記したと奥書がしてあり、これらのもの全てが重要文化財に指定されています。ところで、常夜燈はもっと昔からあったはずです。宝勝院が管理するまではどうしていたのでしょう。

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▲熱田湊常夜燈を管理していた宝勝院。

大名の招待御殿-西浜御殿

 宝勝院の2本南の道を西に少し歩くと白鳥消防団詰所があります。ここちはかつて西浜御殿がありました。御殿とは大名を招待・供応する施設で、七里の渡しの浜を埋め立てた出島に東浜御殿、そして熱田奉行所の南にあたるここに西浜御殿がありました。西浜御殿は1654(承応3)年に2代藩主光友が造営し、大きさは東西約65メートル、南北約59メートルに及ぶ大きなものだったといわれています。こちらは戦争で焼失したのではなく、正殿は安政年間(1854-1859)に、残りの建物は1873(M6)年に売却され姿を消しました。また、出島にあった初代藩主義直が築いた東浜御殿は、広重が描いた熱田浜の浮世絵の端にちらっと城郭のように見えます。見たい方は、東海道の浮世絵カードの入った永谷園のお茶漬けを熱田が出るまで買ってみてください。って今はもう入っていないか...。

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▲西浜御殿があった場所に建つ白鳥消防団詰所。小さな半鐘がかわいい。
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▲宮の渡し公園にある浮世絵の写し。下の方に東浜御殿が見えます。

網で吊り上げられた聖徳太子像-聖徳寺

 その道を西にしばらく歩くと、宝勝院に常夜燈の管理が映るまで管理をしていた聖徳寺があります。なぜ管理をするお寺が移ったのかというと、かつて常夜燈はこの聖徳寺の近くにあったのですが、嵐で壊れてしまい宝勝院の近くに移されたためとのことです。ただ場所の都合だったわけですね、てっきり自治会の役員みたいに押し付けあったのかと...違います違います。聖徳寺には県指定文化財の聖徳太子像があるのですが、これは漁師の網にひっかかって上げられたものだそうです。

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▲聖徳太子像を安置する聖徳寺。

清須城の信長に魚介を運んだ-阿具突智社・熱田魚市場跡

 ではいよいよ川沿いに出ましょう。変則的な交差点になっている大瀬子橋のたもとにある大瀬子交差点にはマンションが建っているのですが、マンションの脇に少し残された敷地に阿具突智社があります。本当に狭く鳥居が斜めになっているほどですが、マンションの守り神として存在感があります。そしてそのマンションの右隣にあるのが大瀬子公園です。ここには熱田魚市場がありました。その歴史は古く天正年間(1573-1592)には信長の清須城に魚介類を運ぶ魚問屋が集まり、寛永年間(1624-1643)には藩の市場としてたくさんの取引が行われました。最盛期には数千人が取引に参加したそうです。今はもうその面影はありません。

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▲鳥居が斜めになるほど、ちょっと窮屈そうな阿具突智社。
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▲魚市場跡周辺には秋葉神社がいくつも。火事が多かったのかな。
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▲魚市場跡の大瀬子公園では営業マンがベンチで休憩中。

今も屋台船乗り場として現役-七里の渡し跡

 大瀬子交差点から川沿いを下ると、いよいよ七里の渡し跡です。熱田・桑名間は東海道唯一の海上路で、ここは尾張藩の海の玄関として栄えました。渡し跡は宮の渡し公園として整備されており、常夜燈などが復元されています。そして今も、堀川を航行する屋台船の乗り場となっています。今建っている熱田湊常夜燈は1955(S30)年に復元されたものです。最初に建てられたのは1625(寛永2)年のことで、先ほど訪れた熱田須賀浦太子堂(聖徳寺)のすぐ横でした。しかし嵐によって破損してしまい、1654(承応3)年に現在地に再度建てられました。しかし1791(寛政3)年に今度は民家の火事で焼失してしまい、すぐに再び建てられたのですが、時代の流れとともに荒廃してしまいました。今はあたりを照らし船の目印としての役目ではなく、かつてここに宮の宿があったことを示す史跡としての役目を果たしています。

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▲堀川は名古屋港へ。新田開発、埋め立てが進み海ははるか彼方。
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▲屋形船乗り場は現役。
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▲熱田湊常夜燈。かつてはこの光を頼りにして船は航行していました。

 常夜燈のすぐ横には大きな鐘があります。時の鐘です。これは1983(S58)年の公園設置にあわせて復元されたもので、江戸時代当時のものは熱田神宮南門近くにあった蔵福寺に今も置かれています。実際に午前8時と正午、午後6時に今も時を知らせています。この宮の宿は東海道の宿場であったことから古くからたくさんの人々が行き交いました。1826(文政9)年にはオランダ使節と一緒に江戸へ向かう途中だったドイツ人医師シーボルトが立ち寄り、名古屋の学者は教えを受けました。それは後の名古屋の医学・植物学研究に大きな影響を与えたそうです。今も昔も名古屋は東京と大阪の中間に位置し、様々な人々が通っていったのですね。しかし新幹線で通り過ぎるだけになってしまった今は、著名人が名古屋に立ち寄るということも少ないでしょうね。新幹線自体、一時期名古屋を飛ばしていた「のぞみ」があったくらいですから。

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▲復刻された時の鐘は1日3回、時を知らせます。
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▲ここで屋形船を待ちます。あらかじめ電話予約が必要です。
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▲かつての海岸線は今、堀川と新堀川の合流点。

重要文化財に住むチャンス!-丹羽家住宅・料亭魚半跡

 宮の渡し公園の向かいには、ここが宿場町だった頃の建物が残されています。1984(S59)年に名古屋市有形文化財に指定された丹羽家住宅は、幕末の頃には脇本陣格の旅籠屋となっていて、伊勢久という屋号でした。いつ建てられたかはわかっていませんが、1841(天保12)年に森高雅が描いた「尾張名所図会・七里渡船着」にはこの旅籠屋が描かれています。そして常夜燈のすぐ近くには、1896(M29)年に武藤兼次郎が建てた「魚半」という料亭の跡があります。それほど古い建物ではありませんが、丹羽家とともに宮宿の景観をしのばせる建物として市の有形文化財に指定されています。しかし料亭だったのは昭和のはじめまでで、戦争中は接収され三菱重工業の社員寮「熱田荘」となりました。1954(S29)年には三菱重工業の所有物となりましたが、現在は売りに出されています。

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▲丹羽家住宅は旅籠屋伊勢久として幕末には既にここで営業していたのです。
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▲あなたも明治時代の文化財に住むチャンス。8000万円と大変お値打ち。

 もう成約しているかもしれませんが、その価格はなんと8000万円。実はこれ土地代よりも安いのです。それは文化財であるがゆえに建物に手が加えられないからです。敷地は217坪。2階の高蘭からは宮の渡しが一望できそうです。

 重要文化財に住む。一見素敵な気もしますがかなり不便な面があるのは事実。それでも歴史を感じるところに住みたいというあなたにはお薦めの物件です。


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