稲葉地公園の前を更に南下しますと、大きな建物の同朋学園が見えてきます。ここには同朋大学、名古屋音楽大学、同朋高校、同朋幼稚園が設置されています。幼稚園の入口には「しんらんさま」の像が手を合わせています。そうです、この同朋学園は東本願寺掛所(現名古屋別院)にて創立されています。かつて大学は仏教学部のみでしたが、現在は文学部となっており、他に社会福祉学部と大学院文学研究科が開設されています。
大学の屋上から電波発射!-同朋学園・稲葉地神明社
この辺りでは際立って高い建物となっており、中村区を放送エリアとするコミュニティFM局、名古屋シティエフエム(FM SHANANA 76.1)の電波が屋上から送信されています。電波は遠く名古屋市外まで届いているので、相当良いロケーションだと思われます。ちなみにスタジオは大学内ではなく、千成通沿いにあります。
※FM SHANANAは閉局しました
▲同朋学園です。小牧にも校舎がありそこには名古屋造形芸術大を設置。
▲幼稚園の入口にはしんらんさま。別院には中区編で訪れます。
その同朋幼稚園の前を右に曲がりますと、稲葉地神明社が見えてきます。ここは通称花ノ木神明社と言われ、クロマツ、クスノキ、ケヤキなど多数の保存樹があります。本当に緑が豊かで、昔よく遊んだ神社の境内という雰囲気を残しています。
▲通称花ノ木神明社と呼ばれるだけあり、木が多い茂ります。
▲昔こういうところで鬼ごっことかしたなぁ~。という雰囲気です。
かつての渡し舟の名は高速道路に引き継がれ-万場の渡し跡・万場大橋
そこから700mほど南下すると、高速道路が上を走る岩塚本通、岩塚町界隈に出ます。では、右手にある庄内川の方へと歩いてみましょう。片側3車線もある大きな通りで、橋を渡るためにはその高さまでかなりの段数の階段を登らなければなりません。橋の手前の信号を超えると、そこには300m以上の長さがある万場大橋があります。ここはかつて万場の渡しがあり、川の手前の岩塚宿と、対岸の万場宿を結んでいました。現在は橋の名前としてだけでなく、上を走る名古屋高速にも「万場線」として名を残しています。
▲見難いですが、鉄塔のふもと右側に小さくタワーズが見えます。
▲水面には雲と空が反射しています。水冷たそ~。ここに入るんですよね?
庄内川を越えてもそこは市外ではなく中川区万場です。万場大橋を渡り終え、今度も長い階段を降ります。すると県営万場東住宅の前に、万場の渡しの跡があります。常夜灯がかつてののこの周辺の様子を物語ります。このあたりに船着場があったそうです。この万場の渡しは、熱田と佐屋を結ぶ佐屋街道のルートの一部であり、岩塚宿は佐屋街道最初の宿場街でした。佐屋街道と言う名前にあまり馴染みが無いかも知れませんが、かつては主要ルートでした。佐屋街道については後ほど歩いてみることにします。
▲実際には100mほど南にあったそうですが、ここに移築されています。
堤防では工事が行われていました。庄内川の西側岸壁の築堤工事です。2000(H12)年に名古屋を襲った「東海豪雨」以来、名古屋では堤防工事が盛んに行われています。ちなみにこんな噂話がありました。それは、この名古屋市と周辺町村の境を流れる庄内川や新川の堤防は、かつて名古屋市側と郡部では高さや強度に差があり、氾濫する時は郡部の方にするように設計されているというものです。地元の方の話では確かに高さに差があったように感じたとのことです。東海豪雨のときは結局、両方とも氾濫してしまいましたので、真偽のほどはわかりませんが、現在は築堤工事が盛んに行われています。ちなみに、この時工事していたのは名古屋市外側でした。やっぱり噂は本当だったのでしょうか…。
▲「頑丈な堤防を作ります」宣言。名古屋市側は既に頑丈なのかな?
男たちは冬に川へと飛び込む-七所社・宮塚公園
では、万場大橋を戻りましょう。再び東岸に戻り、橋の北側の階段を降りますと、そこには七所社と宮塚公園があります。その名のとおり、お宮さんと塚があります。それが岩塚の名のもととなっています。中村区で古墳が残っているのは唯一このあたりだけで、それは七所社の境内にもあります。この古墳は平安朝初期のものと言われていて、この地方の豪族のお墓だそうです。ちなみに境内には大小3つの古墳があります。そして、七所社という名前のとおりこの神社では日本武尊など7柱の神を祀っています。日本武尊が座ったと言われる岩も、境内には残されています。伊吹に向かう途中、船を待つ間この岩に座っていたそうですよ。
▲ちなみに訪れたのは祭りの翌日…。都合が合えば当日行ったのですが。
さてこの七所社は、尾張三大奇祭として有名な「きねこさ祭(御田祭)」を行うことでも知られています。このお祭りは旧暦の1月17日に五穀豊穣などを願い行われます。どこが奇祭なのかと言いますと、このお祭りでは、男性10人と子ども2人の合わせて12人が、笹竹を持って庄内川へと入ります。もちろん2月ですから水は刺すように冷たいことでしょう。そして、川の真ん中に竹を突き刺し、一人がその竹に登ります。そして、その竹の倒れた方向でその年の吉凶を占うというものです。これはきねこさ祭りの中でも川祭りと言われています。その後も古式行列、本祭り、厄除けなどが行われます。
▲こちらが平安朝時代の古墳です。埋葬者は不明だそうです。ちゃんと名前書いておかなきゃ。
テレビで見たことしかありませんがこのお祭りは結構勇壮で、川に突き立てる竹も背が高いものですから、登った男性は、竹が倒れると同時に勢い良く水面に叩きつけられます。ちなみにこの七所社、ホームページを開設されていますので、祭りの様子などを写真で見ることができます。アドレスはその名も「きねこさドットコム」(http://www.kinekosa.com)。掲示板も設置されていて神社側からの返答もあります。
古墳があり歴史ある神社には、東海豪雨の次にハイテクの波が押し寄せていました。しかし、その波を上手く乗りこなしたインタラクティブな神社となっています。改めて写真を見てもやっぱり庄内川は冷たそう。来年もまた、男たちは庄内川に挑みます。
では、佐屋街道を熱田方面に歩いていきましょう。
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