11.港区 名古屋を歩こう

あなたにはやるべき仕事がある

記事公開日:2005年4月12日 更新日:

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 江川線に戻り南へと歩きます。すると左手に大きなショッピングセンターが登場します。アピタ東海通店です。そしてその南側にはブラザー港工場の跡地が広がります。かつてこの一帯は現在アピタの部分も含めて、ミシンやOA機器で世界的に有名なブラザー工業の工場でした。しかし工場の整理統合により規模が次第に小さくなりました。そこで生まれた遊休地に「ブラザー港ショッピングセンタービル」を建設、ユニーにアピタとして建物を貸し、アピタ東海通店が1997(H9)年の秋にオープンしています。その後残っていた工場の建物も次第に解体され駐車場へと姿を変えつつあります。

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▲江川線とアピタ東海通店。アピタの中では大型店。
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▲どんどん取り壊されていくブラザー港工場。

 ブラザーの南には名古屋市交通局の基地があり、その先には伊勢湾台風の記念碑がある港区役所があります。区役所を中心に、周囲は港北公園として整備されているのですが実はここ、博覧会会場の跡地なのです。といっても1989(H元)年の世界デザイン博覧会名古屋港会場ではありません。さらに遡ること50年。1937(S12)年に、名古屋汎太平洋平和博覧会がここで開かれたのです。会期は3月15日から5月31日の78日間で、約480万人の来場者が訪れました。1日平均6万人が訪れたことになりますから、当時の人口を勘案すると相当人気があったことがわかります。博覧会のテーマは「日本の産業の振興、文化の発展と高揚・関係国民との平和親善を図ることを目的とする。」で、二葉あき子と松平晃がイメージソング「汎太博行進曲」を歌いました。

 博覧会から約70年。当時のまま残されているものは一つしかありません。それは橋です。江川線がこの部分だけ高架になっています。そこに残る橋「平和橋」は、当時約13万円もかけて作られたもので、博覧会の記念として残っている唯一のものです。名古屋で最初の博覧会だった「名古屋汎太平洋平和博覧会」は、当時国内史上最大の博覧会で、テーマはやはり「産業」だったわけです。そして70年の時を越え開かれる「愛・地球博」も、自然がテーマであるものの名古屋の産業界が牽引役を務めています。やはり名古屋は物を作ってナンボなのです。しかしその博覧会会場跡地の近くにあった、名古屋を代表するメーカーのひとつ、ブラザーの工場が無くなりつつあることが、産業の空洞化、名古屋の空洞化を象徴しています。

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▲伊勢湾台風の記念碑がある港区役所。
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▲見難いですが、道路の手前にあるのが平和橋。

 昼間の港北公園はのどかです。平和橋の反対側には花畑、そして名古屋の公園の必需品である像もあります。ここには右手を挙げる女性の像がありました。一見コンパニオンにも見えなくありませんが、先ほどの博覧会とは関係ありません。ジョギングをしている人がいたり、グランドではスポーツをしている人もいてほのぼのするのですが、ギョッとさせる看板もあります。「殺人事件目撃情報募集中」...、夜は一転して治安が悪くなるようです。

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▲花畑の向こうに女性の像があります...。
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▲この女性は右手で何を案内しているのか。
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▲昼間は平和なグランドですが看板には...。

 さてこの公園には、東海通にあった稲荷神社のところでお話しました、この熱田前新田を干拓した津金文左衛門胤臣の頌徳碑が建てられています。文左衛門は1791(寛政3)年、熱田奉行兼船奉行となり、熱田前新田349町歩、約35万平方メートルをわずか半年で干拓しました。この頌徳碑はその功績をたたえて1952(S52)年に建てられたものです。それだけ広大な新田を短期間で干拓できたのにはわけがあります。それは干拓や農業に従事したい人々を広く募集したのです。

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▲津金文左衛門胤臣の頌徳碑。右下にあるのは尾張磁器発祥之地碑。

 その募集を知った、「せともの」と呼ばれるほど陶器で有名な、名古屋の東にある瀬戸村(現在の瀬戸市)の陶工がたくさん応募してきました。当時も瀬戸は陶器の産地でしたが、品質が良くなく九州の有田焼に押されて商売にならなくなっていました。そこでこの干拓の話に皆で乗っかったのです。しかし、それまでやったことのない仕事のために手つきが悪く、そのへっぴり腰な一団は文左衛門の目に止まりました。事情を聞いた文左衛門は、何とか瀬戸の焼き物作りを再興できないかと考え、「それなら磁器の技術を九州で学んできなさい」と、その一団の中のひとり加藤民吉にお金を渡し、修行をさせました。

 民吉は九州に飛び込みますが、当然企業秘密を誰も教えたがりません。そこで民吉は窯場の師匠の次女と結婚し、ようやく秘密の技術を教えてもらうことに成功したのです。旅立ってから3年後、民吉は有田焼の技術を会得して瀬戸へと帰ってきました。民吉が作る新しい瀬戸焼はたちまち人気となり、立地の良さから江戸や大坂、そして京からたくさんの注文が舞い込むようになり、瀬戸の陶磁器は再興を果たしたのです。

 この港北公園には、その文左衛門のはからいを称えた「尾張磁器発祥之地碑」があります。これは1938(S13)年、東ノ割の氏神さまである稲荷社に建てられたものですが、現在は頌徳碑の近くに移されています。瀬戸が今でも「せとものの瀬戸」でいられるのは、文左衛門のお陰なのです。もし民吉たちがへっぴり腰でなかったら...。やはり誰にも天職があるということなのでしょうか。

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▲尾張磁器発祥之地碑。確かに文左衛門のお陰で、瀬戸は復活したのだけれども...。

 ところで、民吉は修行先の九州で結婚をしていますが、瀬戸に帰る際、妻子を置き去りにして来てしまいました。数年後、小さな子どもを連れた女性が、瀬戸の村に「貞吉」という男を訪ねてやってきました。そう、貞吉とは民吉のこと。民吉がどういうつもりで偽名を使っていたのかはわかりませんが、九州では偽名で結婚していたのです。瀬戸の人々は、この妻子を民吉に逢わせたら民吉は九州に戻ってしまうかもしれないと恐れ、女性を突き放し決して民吉に逢わせることはありませんでした。女性は何日も粘ったのですが願いはかなえられず、悲しみに暮れ九州へと帰っていきました。

 瀬戸市で毎年9月、加藤民吉を祀る窯神神社の祭礼のひとつとして開かれる「せともの祭り」は、なぜかよく雨に見舞われます。それはこの女性の涙雨だと言われています。瀬戸市の小学生は3年生の時に必ずこのお話を勉強します。今日の瀬戸の陶磁器産業は、パクリと結婚詐欺と裏切りの上に...じゃない、遠く離れた地での必死な修行と、仕事のために離れなければならなかった、せつない恋物語の上に成り立っているのです。


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