明正・当知-くねくね街道と黄金の神楽

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港区[5] 明正・当知

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干拓が行われた熱田新田の北側に自然発生-百曲街道

旧南陽町の区域を出て庄内川の東側を歩きます。港区は大きく3つに分けることができます。西側は、前回まで歩きました庄内川・新川の西側にある旧南陽町。中央部は庄内川と中川運河に挟まれ、埋め立てが進み金城埠頭は名古屋市の最南端まで伸びています。

そして中川運河の東側は区役所もあり、古くから名古屋市だった部分でありながら、埋め立てによってできたガーデン埠頭には比較的新しいレジャー施設が集中しています。

今回からは、その名古屋市の南端まで埋立地がぐんと伸びている中央部を歩きます。ここも旧南陽町と同じように全て海だった場所で、干拓などによって開かれた土地です。

北側が干拓されたのは、旧南陽町と同じように江戸時代ですが、南側には平成に入ってから埋め立てられた部分もあり工場などが密集しています。

かつては市電が、そして今は第3セクターのあおなみ線が南北に走り、都心とこの地区を結んでおり住宅地として人気が高まっています。そのためかつての田園風景を見ることはできません。まずは北端、東海通の北側を歩きます。

東海通を西から歩くと、庄内川を明徳橋で渡ることになります。その北側に、細い正徳橋という橋があります。その橋は中川区との区境となっているのですが、かつては百曲街道と呼ばれていました。

百曲街道は1647(正保4)年から1649(慶安2)年にかけて干拓が行われた、熱田新田の北側に自然発生したもので、この正徳橋と中川区の尾頭橋を結ぶ街道です。

もともと街道として作られたものではなく新田の端を通る道なので、ぐねぐねと曲がっていて、百曲街道と呼ばれるようになりました。

熱田新田の番割観音については、熱田区や中川区で見ましたが、この港区地内には20番から最後の33番までがこの街道に沿って配されています。

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▲パッと見ただけでもぐねぐねしているのがわかる、百曲街道

「キトウ」さんだらけ-当知

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▲東海通当知4丁目交差点

東海通の当知4丁目交差点を北へと左折します。このあたりは中小の工場が多く、それら従業員を対象にしていると思われるカラオケやスナック、パブがちらほらと見受けられます。それよりも気になるのがキトウさんです。

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▲工業地帯を象徴するように作業洋品店

「キトウ花鳥園」に「キトーカナモノ」、「キトウヘアーサロン」に「キトウ鉄工」、「キトウ酒店」といった具合にキトウさんばかりなのです。しかもみんなカタカナです。鬼頭さんか亀頭さんのどちらかなのでしょうね。やはり看板にするときに漢字の画数が多いと重苦しく感じますし、パッと目に入りにくいですものね。

そういえば私の家の近所にあった楽器店も「キトウ楽器」でした。一度キトウさんという名前の方と親しくなったら、何気に「名字をカタカナで書くことある?」と聞いてみたいものです。きっとー教えてくれるでしょう。

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▲亀頭さん?鬼頭さん?キトウさんがいっぱい

伊勢湾台風で斜めになってしまったまま-妙光寺・明正一丁目神明社

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▲妙光寺の北側はもう中川区

さて、その通りを区境まで歩きます。明正バス停を越えて右に曲がると妙光寺、その先の右側には明正一丁目神明社があります。

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▲傾斜してしまってそのままのアニキレの木

1779(安永8)年に村の氏神として勧請されたもので、市内最大級のアニキレの木があるのですが、伊勢湾台風の時に傾斜し現在もそのままになっています。

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▲妙光寺の東にある明正一丁目神明社

神明社のすぐ隣には、番割観音の29番から33番の観音堂があります。西国三十三か所観音に擬した観音を配置して、干拓した新田の守護を祈ったわけですが、ここまでくると5つの観音さまがひとまとめになっています。楽に回ることができるのは良いですけれども…。こういうのって楽をしていいものなのかな…。

もとは熱田にあった臨済宗妙音院-大音寺

神明社から細い水路を渡り西へと歩きます。すると八田と稲永を結ぶ大きな通りに出ます。この通りを南へ歩くと、東海通との交差点に大音寺があります。もとは熱田にあった臨済宗妙音院というお寺でしたが、1802(享和2)年に焼失してしまいます。

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▲大音寺は東海通当知3丁目交差点に

そのとき、この東海通の南側に広がる当知新田に住んでいた、西川宗春がここに妙音院を移しました。その後、当知新田を干拓した西川家の菩提寺として1848(嘉永元)年に堂宇が新築され、真宗大谷派に転宗し大音寺と改称しました。その堂宇は空襲によって1945(S20)年に焼失してしまい、1954(S29)年に再建されています。

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▲街道はぐにゃぐにゃでも、新田の水路は真っ直ぐ

名古屋まつりの神楽揃パレードに参加する黄金の神楽-当知神明社

大音寺の南には当知神明社があります。創建は不明ですが、甚兵衛新田と呼ばれたこの当知新田が干拓された頃に勧請されたといわれ、かつては庄内川沿いに祀られていましたが、1977(S52)年に現在地に移転しています。

当知新田は豪農の西川甚兵衛によって1696(元禄9)年に開拓され、1821(文政4)年から当知新田と呼ばれるようになりました。しかし戦後の農地改革により全て開放され、今は新田の面影はありません。

さて、この当知神明社には名古屋市民俗資料文化財指定の神楽があります。この神楽は1847(弘化4)年8月に作られたもので、当初は白木作りだったのですが、1887(M20)年に補修された際に金箔を付けたと言われています。

金に輝く神楽は、毎年開催される名古屋まつりの神楽揃パレードに参加しますので、キラキラの豪華な神楽を見ることができます。

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▲当知神楽のある当知神明社

かつては豊作を祈って、黄金の稲穂が実るようにと祀られた黄金の神楽なのでしょうけれども、今はただ街を練り歩くためだけにあり本来の目的を失ってしまいました。

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▲農地開放のお陰で今の発展があります

そこには少し寂しさを感じますが、逆に考えれば、農地開放によって田園がなくなった後も、この黄金の神楽は溶かされることなく残ったわけで、かつての農民の想いが、今もこの神楽だけに残されているのです。

黄金の神楽の輝きは、食べられることを感謝する心の輝きでもあるのです。

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▲アピタ港店。他のアピタと少し何となく雰囲気が違います

当知神明社の周囲には、農地開放を象徴するように工場、住宅、そしてショッピングセンターが立ち並びます。

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