上社-旧村役場周辺は一見大都会だけど

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名東区[7] 上社

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高速道路と地下鉄が空で立体交差-上社ジャンクション

 前回は、なぜ名東区に「社」のつく地名が多いのかについて考察しましたが、そのなかでも地下鉄の駅名となっている上社周辺を今回は歩きます。ここ数十年で大きく風景が変わった名東区の中でも、上社は特に激しい変貌を遂げています。一見すると名古屋市内でも五本の指に入る都会的風景と言えるかもしれません。しかしそれはあくまでも一見であって、実態はただの住宅街ですけれども。

 その都会的風景を形成しているのは、東山通と環状2号が交差をしている交差点です。かつては環状2号すら無かったのですが、次々と立体交差が建設され現在では、環状2号の上に東山通が、その横に地下鉄が、さらに東名阪自動車道が南北、東へと繋がる上社ジャンクションがあり、道路がグネグネといくつも重なり合っています。建設された当時少年だった私はその姿を見て、まるで首都高のようだなぁと感慨深く思った記憶があります。地下鉄が地下ではなく道路よりも上に立体交差しているところが特徴的です。

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▲ここだけ都会的な風景が広がる上社ジャンクション。
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▲中央の高架が地下鉄東山線です。下に流れるのは植田川。
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▲夕方、歩いている人の姿を見ることはありませんでした。

 しかし、都会に見えるのは道路だけというのが車社会の名古屋ならではなところです。首都高のように見えるのも道路だけで、一歩離れるとそこはただの住宅街。やはりここは名古屋市名東区なのです。高架の下にはパークライド用の駐車場があり、そこに車を停めた人々は地下鉄上社駅へと歩くのでしょう。ではその地上にある地下鉄方向へと歩いてみます。

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▲パークアンドライド駐車場。名古屋っ子はやっぱり会社まで車で行きたい…。

地下鉄の高架下を有効活用-業務用調理村

 鉄道は地下に作るよりも地上に造った方が当然安上がりです。なのにどうして地下に敷設するのかといえば地上に鉄道を通す場所が無いからです。しかしこのあたりは数十年前までのどかな田園風景だったため、地下鉄を延伸するときもわざわざ地下にする必要が無いほど、のどかだったです。そのため地下鉄東山線は一社以東、地上を高架で走っています。そしてその高架下には、業務用品を扱っているにもかかわらずテレビCMで有名なお店があります。

 そのお店の名は「業務用調理村」。飲食店に必要な、ありとあらゆるものを取り揃えていて、その点数はなんと約5万点。業務用とはいえ一般の人でも購入することができ、テレビCMのせいか、このような地味な高架下にありながらもなんと毎日約300人もの来店客がいるのだそうです。業務用というだけあって、調理村という名前にもかかわらず調理器具だけではなく、ディスプレイ用の看板や提灯、のぼりや暖簾、ユニフォーム、そしてやはり喫茶店王国名古屋です、コーヒーチケットの台紙まで取り揃えています。調理村の通販サイトもありますので、店舗に訪れなくても様々なものを購入することができます。台所には、さりげなく人とは違う逸品をという方にオススメです。

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▲地下鉄の高架下という矛盾した言葉の場所にある業務用調理村。

ターミナルビル化してギャップが?-上社駅

 地上を走る地下鉄に沿って東へと歩きます。環状2号を越えると上社駅が見えてきます。地下鉄の車両の窓から眺める上社駅と、外から眺める上社駅では大きく印象が異なります。上社駅で降りたことの無い人の上社駅のイメージはたぶん、いつまでも古臭いタイルが残る昭和40年代テイストの駅という感じだと思います。上社駅のホームは開業当時のままなのではないか?という雰囲気を醸し出しています。ところがです。上社駅の駅舎自体は1999(H10)年4月にターミナルビルとして整備されていて、まるでそれは東京郊外の住宅街にある駅のようです。ホームも併せてリニューアルしようよ…デザイン都市なのだから。

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▲上社駅前は名古屋っぽくない風景。パブなんかもあります。
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▲上社ターミナルビルはオシャレ。ホームは古臭いのに…。

 この上社駅。地図を見るとお隣の本郷駅とあまりにも近すぎることに気づきます。両駅の間はわずか700メートル。実は東山線の開業当時この上社駅は存在しませんでした。1969(S44)年4月に東山線は星ヶ丘から藤ヶ丘まで延伸したのですが、その翌年の12月に上社駅は開業しています。何か大きな力でも動いたのでしょうか。

旧愛知郡猪高村役場跡-猪高小学校

 その上社駅から北へ150メートルほど歩くと猪高小学校があります。その猪高小学校の脇にある通路にはひとつの石碑が建てられています。石碑には「旧愛知郡猪高村役場跡」とあり、「昭和30年4月5日名古屋市へ合併」とも彫られています。合併した当時、猪高村は千種区の一部となりました。ひとつの区として独立させるほど猪高村には人口がいなかったのです。そして猪高村の部分は「千種区猪高町」となりました。その後宅地開発によって旧猪高村の人口は爆発的に増加し、千種区となった20年後に「名東区」として再び独立するのです。しばらくは名東区のほとんどが「名東区猪高町大字○○」という状態が続いたのですが、区画整理が終わった現在では、名東区に猪高町という地名が残っているのは緑地のみとなりました。

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▲旧愛知郡猪高村役場跡を示す石碑。

 上社駅が設置されたとき、既にここから猪高村役場は姿を消していたわけですけど、上社駅が設置された背景には、かつての猪高の中心に駅が無いのはおかしいという住民の声でもあったのでしょうか。

 では、かつて名東区が千種区だった面影を見つけに一社へと歩いてみます。

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コメント

  1. 障子にメアリ より:

    古い記事へのコメント、失礼致します。この記事は偶然に見つけ、懐かしく楽しませていただきました。私は1972年に猪高小学校に転入してきたので、小学校の向かいにあった、旧猪高村役場(当時は千種区役所猪高支所)のことと、その後の移転のことは良く覚えています。
    実は猪高村役場は、猪高村が名古屋市千種区に編集されてからも、千種区役所の猪高支所として使用されていました。
    1973年に現在の名東区役所の所在地に移転。現在の建物はこのときに建てられたものです。その後1975年に名東区が千種区より分離し、そのときに、千種区役所猪高支所は名東区役所となりました。
    地下鉄上社駅が設置されたのは、そういうわけで、区役所の支所があるからだったのでしょう。
    1972年当時は、まだ上社駅の北側は里山を切り開いての宅地造成の真っ最中、道もまだ舗装されていませんでした。小中学校の教員や支所勤務の方々はなんと上社駅に置き傘ならぬ、置き長靴をしている人がいたのです。駅から学校の周辺が舗装されたのは1974年頃だったように記憶しています。

  2. トッピー@管理人 より:

    >障子にメアリさま コメントありがとうございます
    猪高小学校に当時通われていたのですね。
    名東区役所の建物は、千種区役所猪高支所だったんですね。
    分区を見越して、区役所としても使える建物として
    建てていたということになりますかね。
    当時の資料映像を見ますと、昭和40年代の上社周辺というのは、
    もう、今からは想像できないのどかさがありますよね。
    50年代のあのあたりは記憶にありますが、開発著しいちょうど
    そんな時期だったんですね。

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