03.西区 名古屋を歩こう

今も切り取られたままの堤防?

記事公開日:2004年4月10日 更新日:

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公園の本当の目的-庄内緑地公園

 いよいよ、西区散策も最後となりました。日を改め庄内緑地公園から比良の洗堰緑地までを歩きます。ここでは、四間道で出会った地元の方に伺った庄内川にまつわるお話が、昔のことではなく、現在もかわらず続いていることを実感します。

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▲庄内緑地公園です。散歩をしている人がたくさんいました。

 この庄内緑地公園の北側はかつて小田井村でした。怠け者を指す言葉として「小田井人足(おたいにんそく)」という言葉があります。それはこの小田井村の人々のことを指すのですが、なぜ小田井村の人々は、怠け者と揶揄されなければならなかったのでしょうか。諸説ありますが、地元の方にお伺いしたお話をご紹介します。

 庄内川は、江戸時代から氾濫・洪水を繰り返してきたというのは前回書きました。しかし、洪水に見舞われたのは庄内川の北側ばかりで、南側への氾濫は少なかったと言います。それはなぜでしょうか。江戸時代、大雨が降り庄内川に氾濫の可能性が出てくると、尾張藩は役人を小田井に使わせました。役人は城下を守るために、小田井の人々にその手で庄内川の堤防を切りなさいと命令するのです。

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▲スポーツを楽しむ人や、インラインスケート教室などが開かれていました。

 小田井は農業が盛んでした。堤防を切れば田畑の作物はもちろん全てダメになり、住居に大きな被害が出ます。城下を守るためとはいえ、住民としてはなるべくなら堤防を切りたくないものです。そこで小田井の人々は、懸命に堤防を切る作業をしているフリをしつつ、実際はほとんど工事をせず時間を延ばし、雨がやみ水が引くのを待ったのです。こういったことから、怠け者のことを小田井人足と呼ぶようになったのですが、小田井の人々はただ怠けていたわけではなく、不条理な命令から、自分の村を守るために作業を遅らせていたのです。

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▲やはり名古屋の公園にはオブジェが必須。

 今も、この庄内緑地公園がその象徴的な存在となっています。それは公園内にある看板を見るとすぐにわかります。

「庄内緑地は遊水地を利用した公園です。庄内川の水位が一定以上上ると公園内に川の水が入ってくる仕組みになっています。」

 つまり、大雨の際には意図的に庄内川から溢れた水が庄内緑地にたまる構造となっているのです。その遊水地がなぜ北側にあるのかと言えば、南側は城下だからです。もし、庄内緑地公園でカバーできない量の水量になったときには、間違いなく公園のある北側に被害がでるのです。それでも遊水地のあるここはまだましで、比良地区にある洗堰緑地は、今でも露骨に城下のみを守っています。では、その洗堰へと歩いていきます。

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▲大雨の時は水が流れてくる。それがこの公園の本来の目的。

歴史上の人物を黄金で残したい-大乃伎神社・純金歴史博物館

 庄内緑地公園から大野木方面へと歩きます。途中には陽岳寺、福昌寺、そして地名の由来ともなっている大乃伎神社があります。ここは古くから名古屋城北方鎮護の社として、厚く信仰されています。境内には根株の周りが2.58メートルもある大きなボダイジュがあり、市の天然記念物となっています。1752(宝暦2)年に刊行された「張州府志(ちょうしゅうふし)」には、当時からここに菩提樹があることが記されています。

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▲陽岳寺です。かわいい蛙の置物がありました。 画像
▲こちらは福昌寺。大野木小学校の近くにあります。
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▲庄内川の川沿いにある大乃伎神社です。

 周囲には他に、麦ふぁ、タマゴボーロ、お菓子の城で有名な竹田製菓が建てた純金歴史人物館という施設があります。社長の「民族の歴史に金字塔を残したい・白秋の夢を表現」という言葉のとおり、文殊菩薩の銅像や高さ4mにも及ぶ聖徳太子像があります。

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▲大乃伎神社のボダイジュです。 画像 ▲こちらは竹田の純金歴史人物館。

信長は大蛇をつかまえ...てはいないみたい-蛇池・蛇池神社

 しばらく歩いていくと、やはり庄内川の北側に緑地が広がっています。洗堰緑地です。その一角に蛇池神社があります。蛇池。この池で蛇を見たという村人の話を聞いた信長は、池の水を掻き出したり、さらに池に潜って大蛇を探したという伝説が残っています。また、惣右衛門という人の妻が、子どもたちにいじめられていた蛇を助けたところ、その妻が亡くなった後、龍神が乳母代わりをしたという言い伝えも残っています。その龍神に感謝した惣右衛門は、お礼に赤飯を池に流しました。それは今も続けられており、毎年4月の第2日曜には「櫃流し」という神事が行われます。

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▲蛇池神社と呼ばれる、蛇池にある龍神社です。 画像 ▲蛇池、信長自身が水に入るとは。余程興味があったわけですね。 画像 ▲桜祭りや夏祭りなど、近隣の人々に親しまれています。

今も切り取られたままの堤防?-洗堰緑地

 ところで、この比良地区と北区の境は、庄内川から新川まで緑地が広がっています。しかも、庄内川の対岸から見るとはっきりわかるのですが、小田井とは事情が違います。小田井は氾濫しそうになると堤防を切らせたものの、普段堤防はしっかりとしていました。今もいざとなると庄内緑地公園という遊水地に水を流す、というシステムになっているのに対し、ここ洗堰は普段から堤防がありません。

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▲ここが洗堰緑地。公園として整備されつつあります。

 これは庄内川の水が増水した際、堤防の無い洗堰から比良地区の北側にある新川へと水を回すようになっているのです。つまり、水を遊水地である緑地で許容するといったことではなく、流れそのものを新川へ注いでしまうという構造なのです。庄内川が溢れるということは、新川も同じような状況のはずです。にもかかわらず庄内川の水を新川に流せば新川のみが氾濫するのではないか、と容易に想像ができます。

 そして悲劇は起きました。それは江戸時代の話ではなく2000(H12)年9月の東海豪雨です。東海豪雨は100年に1度と言われるほどの大雨でした。庄内川、新川ともに増水したのですが、この洗堰があったために庄内川の水はどんどん細い新川へと流され、新川沿いの新川町、西枇杷島町は甚だしい被害を受けたのです。もちろん庄内川も決壊し周辺に被害は及びましたが、ここに堤防があれば、新川沿いの被害はもう少し軽かったはずなのです。名古屋城下を守るために、小田井・枇杷島住民には涙を飲んでもらう。これは過去の話だけではなかったのです。

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▲堤防が切れている部分です。水が溜まっています。

 東海豪雨から4年経った今日でも、この洗堰の状況は変わっていません。庄内川の対岸から見ると一目瞭然です。洗堰の部分だけ堤防が無く、堤防道路を走る車は、洗堰の部分で一旦下って、洗堰を越えるとまた上るという様子がわかります。

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▲北区の対岸から見ると、確かにこの部分は堤防が切られています。

 城下を特別扱いする庄内川の堤防、それは今も続いているのです。計画では新川流域の洪水被害を軽減するために、そのうちこの洗堰は締め切ることになっているのですが、いつのことになるやら。新川流域住民に対する差別的な庄内川堤防の状態は、今も続いています。

 ここへ来ると、城下のためなら...。名古屋市のためなら...。この地方の名古屋偏重思想をまざまざと見せつけられます。

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▲いつになったらここに堤防ができるのでしょうか。

>>北区へ続く


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