南区[4] 道徳(東)
日清紡の工場の跡地にオープン-アピタ名古屋南店
▲豊田5丁目交差点を東に望みます。手前が国道247号線
無数の鍵とドアノブが店先に置かれているすえひろ金物店がある、国道247号豊田5丁目交差点から東に歩きます。金物屋さんの東隣には豊田交番があり、さらに道路を挟んで東にアピタ名古屋南店があります。
アピタ名古屋南店の南には日清紡名古屋工場があり、さらに北には日清紡の社宅があり日清紡に挟まれる格好になっていることからもわかりますとおり、このアピタは日清紡の敷地に建てられ1996(H8)年にオープンしています。
港区にあった東海通店はブラザーの工場跡地に、市外では岡崎北店がユニチカの工場跡地に、そして静岡県の島田店、拡張が計画されている浜北店はこの名古屋南店と同じく日清紡の敷地を活用しています。
このアピタ名古屋南店から東側にはかつてたくさんの工場がありました。今でもいくつかは残っていますが、住宅に少しずつ姿を変えつつあります。工場の撤退と跡地への大手流通の参入は、地元商店街にとってダブルパンチです。
このアピタは比較的早い開店で、ここ最近のアピタとは立体駐車場の作りが違うので注意が必要です。そういえば、そのアピタの一角に1台だけ車が置ける駐車場が切り込んで作ってあります。
▲アピタの一角が切り込んであって駐車場になっています
見ると「豊田交番用」とあり、ちょうどその時パトカーがやってきてそこに停車しました。なるほど、交番の車庫がアピタに食い込んでいるんですね。
しかしパトカーの駐車場がアピタの敷地にあるというのは面白いですね。交番用という看板が無かったら思わず停めてしまいそう。でも店舗入口からは遠いので、わざわざここに停めたいとは思いませんが。
▲看板が無いと誰か間違って止めてしまうかも
豊田という地名はかつて御替池だったー御替池公園
アピタを過ぎ、アピタの東側の道路を北へと歩きます。周囲の住宅街には、かつては周辺にあった工場の従業員が住んでいたのかなと思わせる、古くからありそうなアパートと、工場が撤退した跡地に建っているであろう新しい住宅が混在しています。
▲新旧住宅共演。(どれがどうとは言いません)
しばらくすると右側に御替池(おかえち)公園という名の小さな公園があります。南区豊田なのに豊田公園ではなく、変わった名前がついているなと思い調べてみました。豊田の1丁目から3丁目はかつて御替池町という名前でした。その名は新田の時代まで遡ります。
▲新旧アパート共演。(どちらがどちらとは言いません)
道徳で触れましたが、現在豊田となっているところはかつて道徳新田と呼ばれていました。東海通から山崎川までの範囲です。
道徳新田は1741(寛保元)年に尾張藩が築いたもので、南区の南端にあたる天白川下流の天白古川新田を取り壊す代わりに、渡辺善兵衛にこの新田は与えられました。そのため当時は御替地新田と呼ばれていました。
その後1812(文化9)年に道徳新田と名を改めています。このとき御替地という名前は無くなったにもかかわらず、昭和に入ってからも町名が御替地町だったのは、その名が地元の人にとって愛着あるものだったからでしょう。今はこの公園にだけ名前が残っています。
さらに北へと歩きます。豊田本町のところでも感じたのですが、名古屋では空きのあるアパートに「ミニミニ」「エイブル」といった大手不動産業者の看板が掲げてあることが多いのです。
しかし南区は地場の不動産会社の看板ばかりで独特です。「駐車場探しは○○へ」という看板の「駐車場」という文字だけが逆さになっているのは注目させるためかな…。
▲こうすることで注目度は断然アップ…するの?
新幹線の橋脚と共生-別名御替地神社
東海通と交差するあたりで、東海道新幹線、幻の国鉄南方貨物線が見えてきます。橋脚に「御替地」という文字があり、かつての地名が残っていました。
▲橋脚に御替地の名が残る
その高架に挟まれるようにあるのが神明社です。この神明社は別名御替地神社と呼ばれています。大きなクスノキがあり、境内の竜神社には荒子観音から送られた円空作の竜神像が収められています。
▲別名御替地神社。鳥居のすぐ先に新幹線の橋脚が突き刺さります
境内には公園もあって敷地はそこそこ広いのですが、クスノキに覆われ、さらに鳥居の内側に新幹線の大きな橋脚が突き刺さる格好になっていて、上を新幹線が走っているので昼間でも薄暗いです。神社には洗濯物が干してあり生活感を感じました。
▲敷地は広いけど、どこか圧迫感があります
東海通に出て東に歩きます。金型の上にクマが乗った絵のある日本ハードウェアー、車イスメーカーミキなど、ここに本社を置くメーカーが並びます。
▲いろんなメーカーの本社が建ち並ぶ東海通
豊3丁目交差点を越えると、南側は戸部下町となり今度はJR東海道本線のガードが見えてきます。ガード手前には大手釣具店と小ぢんまりした釣り具専門店があります。
どちらが先に出来たかは知りませんが、そんなすぐ横に同業者が進出しなくても良いのに…。それとも相乗効果で両方とも売上アップを狙う作戦ですかね。
▲東海道本線に貨物列車が走ります。わざわざ稲沢折り返しお疲れ様
工事に30年かかった難所-戸部下神明社
東海道本線の高架をくぐって、一本南の道路を東に行くと戸部下神明社があります。
▲戸部下神明社は大きな木で覆われ昼間でも薄暗い
戸部下は1728(享保13)年に完成した戸部下新田がその名の由来で、工事に30年もかかった難所だったそうです。祐竹新田という別名もあり、その名は山崎川に架かる祐竹橋に残っています。神明社の境内には郷土碑があり新田の歴史が記されています。
▲戸部下神明社にある郷土碑
江戸時代には殿様が鴨猟にやってくる場所だったそうです。神明社の前の道は大型車通行禁止の細い道路で、南側にあるブラザーの配送センターの壁が高く圧迫感があります。その横には山崎川が流れます。
▲こんなところに大型車が来たら確かに嫌です
大きな工場が撤退した跡地に県営戸部下住宅が建てられていますが、このあたりは東海道本線沿いに、今も現役の工場が多く建ち並び、ブラザーの配送センターは特に存在感があります。
▲地図上は道路になっているけど、通るのは遠慮したブラザー物流センター
それでもやはりポツポツと工場では無い部分もあり、パチンコ店やラブホテルが工場に囲まれる格好で建っています。
地図上では山崎川沿いを南下できる道があるのですが、ブラザーの敷地のようなので、国道1号を南下して戸部下の南端、500メートルほど下流の忠治橋に向かいます。
▲祐竹橋から山崎川を南方向に望みます
それにしてもパチンコ店はまだいいですけど、工場に囲まれたラブホテルはちょっと浮いてますね。自覚があるのか、ラブホテルにしては外装が地味目です。
▲ラブホテルもここではちょっと地味め?
昭和のはじめ頃まで船着き場だった-青峰山観音
忠治橋はアピタ名古屋南店から続く道路に架かっています。ちょうど上を東海道新幹線の高架が斜めに通っているのですが、御替地あたりよりも低いので圧迫感があります。街路灯も首をすくめているかのようです。
▲街路灯が首をすくめるようにして立つ忠治橋
橋の東側には小さな観音さまが祀られています。青峰山観音です。大きさは30センチそこそこですが、小屋が建てられ綺麗な花が供えられていました。穏やかです。
▲かつては船着場を見つめた青峰山観音
かつて江戸時代から昭和の初めまではここに船着場があり、観音さまはその船着場を見守っていました。そして観音さまが眺める対岸には、忠治新田が広がっていました。
▲忠治橋から南側にも工場が続きます
忠次さんが完成させたのに忠治新田-忠次稲荷神社
忠治新田は1727(享保12)年に熱田神宮の神官だった田島肥後が開墾に失敗し、その後井上忠次郎が完成させたものです。忠治橋の西にある道徳東部公園のなかに忠次稲荷神社があります。
▲忠次稲荷神社は道徳東部公園の片隅に
忠次さんが完成させたのに「忠治新田」にどうしてなってしまったのかはわかりませんが、現在の地名はちゃんと忠次になっています。
この稲荷神社も忠次稲荷神社です。あとは山崎川に架かる橋のみが「忠治」橋のままになっています。井上さんも草葉の陰で気にしているかもしれませんね。でも、漢字が違っていたという歴史をこの橋に残していると捉えると面白いかも。
▲忠次稲荷神社です。ここは正しい漢字でないとね
山崎川を渡る風は強く、散策で汗ばんだ顔に心地よい…のですが、忠次の南部には山崎下水処理場、山崎汚泥処理場があることを感じさせる空気です…。三新通3丁目交差点から南へ、下水処理場と汚泥処理場の間を通り、山崎川の南へと向かいます。
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