名古屋に新しいチャンネル!

地上波のテレビのチャンネルが増えた!

記事公開日:2022年8月27日 更新日:

★地上波のテレビしかなかった時代の名古屋のお話
★新しいテレビ局が開局する前に放送していたものとは?
★開局の瞬間を見ることはできなかった小学二年生

かつて地上波のテレビしかなかった時代

「テレビ」という概念がここ二十年で大きく変化しました。かつてはテレビと言えば電波で送られてくる放送のことを指しましたが、今やインターネット回線を介して見る動画や配信サイトも含めると、もはや無限のコンテンツがあると言っても良いほどになりました。

そんな無数の映像媒体のなかのひとつである「地上波テレビ」。

昭和の頃。かつて「テレビといえば地上波だけ」という時代がありました。インターネットはもちろん存在せず、BSやCSも無かった頃の名古屋のお話です。

1984年(昭和59年)、NHKが世界初の実用放送衛星「BS-2a」による試験放送をスタートするまで、テレビと言いますか、映像を見る手段は各地域の地上波テレビ局がすべてでした。しかもアナログ放送の時代です。EPG(電子番組表)やインターネットはありません。地元の新聞のテレビ欄がすべて。実際にそれ以外を見ることはできず、お金をいくら出してもチャンネルを増やすことはできなかったのです。

大型アンテナなどを購入し、遠方のテレビ局を受信できるようにするなどの方法で増やすことは可能だったとしても、結局、地上波テレビ局に変わりありません。

また、ケーブルテレビも1987年(昭和62年)以前は、地上波テレビの難視聴対策のみが目的で、地域情報のチャンネルはあったものの、多チャンネル都市型ケーブルテレビは存在しませんでした。

ダイヤル式テレビのVHF・UHF

ところが当時は、チャンネルを「増やす」ことはできなくても「増える」ことはあったのです。1983年(昭和58年)8月、夏休み。当時小学二年生だった私は、一生に一度の、もう二度と無いであろう経験をしました。

昔から私はテレビ好きで、夏休みもテレビをよく見ていました。幼い頃、わが家で購読していた中日新聞のテレビ欄は、左から「NHK総合3」「CBC中日5」「東海THK1」「名古屋NBN11」「中京CTV35」「NHK教育9」と並んでおり、その右の一番端は上下半分に分割されていて上が「三重MTV33」、下が「岐阜GBS37」となっていました。我が家では「37」の岐阜放送テレビは受信できず、37を除いて新聞に掲載されていた7つのチャンネルを見ることができました。

当時、わが家にはダイヤル式チャンネルのテレビしかなく、1から12チャンネルのVHFは「ガチャ」と新聞のテレビ欄の数字にそのまま合わせれば映ったのですが、13から62チャンネルのUHFのダイヤルはすべての数字が記載されているわけではなく、だいたい見当をつけて合わせて「35」の中京テレビと「33」の三重テレビを見ていました。

しかし、三重テレビは遠方にありなおかつ専用アンテナを建ていなかったので映りが悪く、放送も夕方5時台からであり、UHFのダイヤルはほぼ「35」に固定されている状態でした。したがって、中京テレビを見る際はVHFダイヤルを「U」に合わせればよい状態だったため「Uにチャンネル変えて」と言っていました。

UHFは「35」にほぼ固定されていたわが家のテレビですが、好奇心旺盛だった私はちょっと左右にいじってみたりしました。UHFのダイヤルを中京テレビから少し左に回すと三重テレビが映ります。ところがです。さらにもう少し左に回すと…、なんとNHKが映ったのです。

しかし新聞にそのようなチャンネルは見当たりません。親に聞いても「そんなチャンネルは知らない」と言うので、しつこく「でも映ってるこれは何?」と聞くうちに、親は根負けしてNHKに電話をかけて聞いてくれたのです。するとそれは「31」NHK津放送局の総合テレビだということがわかりました。

地上波のチャンネルが「増える!」

「新聞に載っていないチャンネルもあるのか…」

そんなある日、何を思ったのか夏休みの昼下がりにUHFのダイヤルをさらに左へ回してみました。この時の衝撃は今でも忘れません。するといきなり画面の中央に「25」と大きく書かれたテストパターンが現われたのです。

テストパターン自体は見たことがありました。なぜなら三重テレビは当時、放送開始が夕方だったこともあって昼間はずっと「33」というテストパターンをを出していたからです。

しかし、いきなりの「25」です。25というチャンネルは新聞にも載っていません。親に「なにこれ25って?」と聞いても、親も新しいテレビ局ができるということを知らず、当然小学生の私もそんな情報は知らなかったため、まったくの未知のチャンネルとの遭遇に大きな興奮を覚えました。

その未知の25チャンネルではピアノの曲がかかっていました。リチャード・クレーダーマンの「Les Larmes De Joie」。私はまるで魔法にかかってしまったかのように、じーっと画面を見つめていました。画面の真ん中に「25」、左上に「TVA」、右下に「JOCI-TV」と書いてありました。

そして曲が終わったその時、アナウンスが流れたのです。女性の声でした。「JOCI-TV、こちらはテレビ愛知です。25チャンネルで、ただいま試験電波を発射しております」今思えばその声はテレビ東京の川島アナウンサーでした。

「テレビ愛知」

初めて聞く言葉に驚きを隠すことができず、アイロンをかけていた母親に「テレビ愛知、テレビ愛知だって!」と興奮して報告したのを今でも憶えています。当時まだわが家にビデオはなかったので、この試験電波をテープレコーダーで録音しました。この時からもうすぐ40年の月日が経とうとしていますが、そのテープは今でも大切に保存してあります。

小学二年生の夏休み…私の一番の思い出です。これから先、地上波で新たなテレビ局はもう開局しない見通しですし、万が一開局するとしても、開局するという情報があらかじめ耳に入ってしまうので、未知のチャンネルとの遭遇は一生に一度の経験となったわけです。

テレビ愛知は、中京テレビと同じ送信所(アンテナ)から電波を発射。そのため既に中京テレビ向けにアンテナを建てていた家では何も調整することなく「25」にチャンネルさえ合わせれば視聴可能だったため、お金も手間もかけることなくチャンネルが増えることとなったのです。

そして何日かすると「サービス放送」が始まりました。夜8時までテストパターンが出ているだけだった試験電波とは変わって普通の番組を放送するようになったのです。画面の下には「ただいまテレビ東京の番組を放送しています」というテロップが出て、9月1日に正式開局する告知も流れました。

開局の瞬間を…見られなかった…

9月1日が近づくにつれて私の期待は高まりました。もちろん開局当日は朝早く起きて、その瞬間を目に焼き付け、なおかつテープレコーダーで録音するつもりでした。しかしこのあと…想像を絶する、あれからずっと悔やんでも悔やみきれない事件が起きてしまうのです。

それまで購入してから10年以上、わが家のテレビのUHFダイヤルは「35」と「33」の間をちょこっと動かすだけのものでした。しかし私が興味本位で「25」の試験電波やサービス放送を見るようになり、それまであまり動かされることの無かったUHFのダイヤルをやたらと回したため…。

なんと開局の前日である8月31日、壊れて回らなくなってしまったのです。

当時わが家にテレビは2台あったのですが、1台はVHF専用テレビ。UHFが見られるのは1台のみです。親に「テレビ買って」と言ったところで、当時はまだテレビは高価であり買ってもらえるはずがありませし、「修理だして」と言ったところで一日で直るわけがありません。たぶん私は当時、テレビ愛知の開局をこの世で一番楽しみにしていた小学二年生だったはずです。その私が開局の瞬間を見ることができなかったのです。これは今でも悔しくて悔しくて仕方がありません。

参考資料

・テレビ愛知15年史(テレビ愛知株式会社 1998)
・中日新聞(1983年8月24日付 愛知版)

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