西区[5] 栄生・枇杷島
駅直結・さすが-名鉄病院
産業技術記念館正面から見て交差点の向こう側にあるのが名鉄栄生駅です。では、駅の方へと歩いていきましょう。すると大きな病院が見えてきます。名鉄病院です。
▲名鉄栄生駅です。JRの駅はありません
ここは名古屋鉄道健康保険組合直営の病院で、一般病院として地域から頼られてきました。この病院の驚くべき点は、さすが名鉄の病院。なんと栄生駅のホームからそのまま繋がっているのです。雨の日でも濡れることなく病院へと辿りつけます。
▲名鉄病院です。こちらは古い病棟です。新築病棟も増えています
市境では3車線がいきなり1車線に-栄生稲荷社・枇杷島橋
では病院を通り過ぎて、庄内川に架かる枇杷島橋方向へと歩いていきましょう。名鉄病院から北西に少し歩いたところに栄生稲荷社があります。
▲地元の信仰が厚い、栄生稲荷社です
近隣の人の信仰が厚く、鳥居やのぼりが多数林立しています。その稲荷社の横に細い道があります。車が通れないようなところを進んでいきますと、そこには屋根神さまが祀られています。
しかし、かつてあったであろう長屋は姿を消し、ポツンとある屋根神さまは、大きなマンションと神社に挟まれて少し窮屈そうでした。このマンションの屋根神さまとして今もこの地を見守ります。
▲屋根神さまは神社とマンションに挟まれひっそり
そのまま名鉄の高架沿いに歩いていきますと、大きな通りに出ます。そこを左へ行くと枇杷島橋。そこから向こうは西春日井郡西枇杷島町です。そして直進すると東枇杷島駅がある西区の枇杷島です。かつては東枇杷島町だったところです。
では庄内川の川辺まで出てみましょう。枇杷島橋は片側1車線しかないので、それまで片側3車線あった道路が一気に細くなります。こういう時、名古屋っ子はなかなか入れてくれませんので、運転の際は最初から中央の車線にいた方が賢明です。
▲枇杷島橋です。朝・夕は結構混みます
本殿にはとぐろを巻いた蛇の石像-中島黒體龍王大神社
そして川沿いを右へ歩いていくと左側に見えてくるのが中島黒體龍王大神社です。この神社は中島黒體龍王大神という龍を祀っています。かつては対岸の西枇杷島町下小田井中島という場所にありました。
▲中島黒體龍王大神社です。まず名前がかっこいい
慶安年間(1648-1651)、そこがまだ枇杷の洲と呼ばれていた頃に立穀豊穂の祈願をすると、夢で龍神が出現し「国土鎮護豊穣を守る」との言葉を残しました。人々はそれを喜びこの神社を祀ったのでした。
さらに1789(寛政元)年、木曽御獄を開山した行者、覚明がここへ巡行にやってきた際、大雨で庄内川にかかる橋が流失してしまい河畔で困っていると、金色の大蛇が現れ覚明を対岸へと運んだのでした。そして覚明は後にこの神社を改修したのでした。
▲御神水は、黒の龍から
時は流れ、中島は庄内川の改修とともに無くなってしまったため、1953(S28)年2月、神社はこの地に移転しています。家内息災、商売繁盛にご利益があるとされており、手洗い場には黒く光る龍の姿が、そして本殿にはとぐろを巻く蛇の姿がたくさんありました。
▲本殿には石の蛇がたくさん
幼き信長と秀吉が魚とり-枇杷島河原
さて、現在は整備されているために河原らしい河原を見ることはできませんが、かつてここから中村区の稲葉地にかけては広大な枇杷島河原が広がっていました。当時清須や那古野近郊で河原といえばここのことを指すほど有名でした。
幼名を吉法師と称した織田信長は、茶せん髪姿で、腰にはいろいろなものをぶら下げていました。そして近所の子ども達とこの河原で遊んでいたのです。
河原には中村の稚児集団も一緒にいて、その集団のなかに秀吉(日吉丸)もいました。子ども達は川で庄内川で魚を獲り、枇杷島や清洲、津島まで売り歩いていたそうです。
信長と秀吉は3歳の年の差です。幼い頃から兄弟のようにこの河原で遊んでいたのでしょう。秀吉が信長に仕えたのが17歳のときですが、それよりも前から面識はあったのでしょう。
信長はもともと名のある織田家に生まれ、12才で元服しています。対する秀吉は足軽の息子と言われています。信長が近所の子ども達と遊んでいて、そのなかに秀吉がいた…それは結構意外でした。
▲かつての欄干が再現されています
幼い頃の信長は、稲葉地のお寺での手習いでは落ち着かず、草紙を松の木にぶらさげて遊んだり、そこから枇杷島まで繋がる広い河原では、小さな子達とも一緒に魚を獲ったりと、私の中で信長は「うつけ者」というより、やんちゃだけど面倒見のいい男の子という、かわいいイメージが出来てしまいました。
庄内川の川面を見ながらそんな信長に思いを馳せてみました。
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