11.港区 名古屋を歩こう

開発によって失ったものと得たもの

記事公開日:2005年4月12日 更新日:

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 あおなみ線荒子川公園駅から、今度はベイシティと反対側となる西側へ歩きます。荒子川公園の北端にかかる善進橋を渡り、2つ目の信号交差点で右斜めの細い路地のよう一方通行の道路に進みます。左側には善北公園、そして右側に善進神明社があります。

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 善進神明社は、津金文左衛門が干拓した熱田前新田のうち、この西ノ割の氏神さまとして1801(享和2)年9月2日、荒子川の左岸に勧請したものです。村人の信仰を集め、年中行事がたくさん行われたのですが、不便な場所にあったために大正時代中頃に移転が計画され、そして1925(T14)年10月、現在地へと移転しています。その後、東南海地震で被害を受け、第二次世界大戦では鉄柵を軍事供出され、さらに伊勢湾台風でも大きな被害を受けました。そのままの状態では鎮座200年を迎えられないと、地元の有志が1996(H8)年から2001(H13)年の6年に渡って再建工事を行い、200年という節目を新しい社殿で迎えることができたのです。境内には神社の沿革を示す真新しい碑と、善進町の沿革を記した歴史ある碑が建てられています。毎年秋の大祭では善進町真影流棒の手が奉納され、たくさんの見物人が訪れます。

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▲善進橋から北の新開橋方面に荒子川を望みます。
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▲善進町真影流棒の手が奉納される善進神明社。
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▲歴史を感じる碑には善進町の沿革が記されています。

 善進神明社の北西には、門にお地蔵さんが並ぶその名も地蔵寺があります。そして先ほどの善進神明社の前の道をそのまま進むと、右手に正瑞寺があります。阿弥陀如来像を寺宝として持つこのお寺は当初、中島郡にありました。寛永よりも前に岐阜県海西郡日原村(現在の海津町)へ移転し、その後1904(M37)年5月に現在地へと移転しています。やはり伊勢湾台風では被害を受け、境内にはその時の浸水位標があります。正瑞寺の前辺りから道路は一方通行が解除され、その先で急に幅が広くなり、瀬戸信用金庫のある油屋町2丁目交差点を越えると交通量も急激に増えます。

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▲お地蔵さんのいる地蔵寺。
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▲正瑞寺あたりから道路が広くなります。

 しばらくすると左手に、名南ムセンとタナカムセンという、ふたつの電気屋さんが並んでいます。個人商店で電気屋さんという同業者が並んでいるということはさぞかし競争が激しいのではないかと思って店内を覗いてみます。タナカムセンさんは至って普通の街の電気屋さんで、ムセンという名は昔の名残という感じなのですが、名南ムセンさんは本物の無線屋さん。たくさんの無線機やアンテナが並べられ、店内では無線家たちが談笑しています。ご近所同士、ちゃんと棲み分けができているようです。

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▲さすが無線屋さん。大きなタワーアンテナ。

 そのまま歩くと片側2車線の大きな道路に、甚兵衛通2丁目交差点でぶつかりますので、左折して南方向へ歩きます。この道路はこの先、宝神で国道23号と接続しています。さて、南へ歩き次の信号の角で右を臨むと、真新しい立派な橋へと道路が繋がっています。その橋の名は「南陽大橋」。旧南陽町の七島新田、茶屋新田とこの熱田新田西ノ割を結んでいます。南陽大橋はアーチから張られたケーブルで吊るニールセンローゼ桁タイプの橋で、2004(H16)年8月に開通したばかりです。南陽大橋の両側を走る東海通と国道23号にかかる日之出橋と庄内新川橋は渋滞となりやすいので、地元ではその完成が待たれていました。

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▲北は八田方面へ。
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▲南はこの先、国道23号宝神を越え稲永へ。
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▲渋滞緩和に大きく寄与している南陽大橋。

 橋は渡らずそのまま南へと歩きます。道路沿いには大きなパラボラアンテナが設置され、現地の放送を見ることができる外国料理のお店があります。コアラの絵がありましたけど、オーストラリアという感じではありませんでした。そして500メートルほど歩くと神宮寺2丁目交差点があるので、そこを右折します。すると左側に、石垣が壁状に残された老人ホームがあります。ここにはかつて、水屋と呼ばれる小屋がありました。水屋とはこの尾張・美濃地方に見られる独特なもので、水屋には普段から衣類や食料を蓄えておきます。そして水害が発生した際に逃げ込むのです。かつてはたくさんあったのですが、現在はほとんど残されていません。

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▲何料理のお店だろう。
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▲石垣だけが壁状に残されています。
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▲老人ホームの横にある熱田社参集殿。熱田社はこの後。

 そこから西へと歩きます。地図を見るとこの先は庄内川とぶつかっていてます。その堤防の手前には弁天寺、熱田社、慈光寺があります。弁天寺は1925(T14)年、近江国竹生島宝巌寺の名古屋別院として建立されたものです。中川区高畑に名古屋三弘法の第一番、厄除けの宝珠院がありましたが、ここは第二番、開運のお寺です。すぐ横にある、鳥居にひびが少し入ってしまっている熱田社は、1817(文化14)年に完成した神宮寺新田の氏神さまとして、熱田神宮の分神を勧請したものです。幸いにも地震、空襲、台風の被害は免れたのですが老朽化が激しく、本殿は1990(H2)年に建て替えられています。そして慈光寺は1854(安政元)年に港区稲永の南側、永徳新田に建立されたお寺で、1867(慶応3)年に現在地へと移転しています。

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▲名古屋三弘法二番、開運のお寺弁天寺。
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▲本殿は綺麗ですが、鳥居がちょっと心配な熱田社。
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▲その先はもう川というところにある慈光寺。

 その先は庄内川となっています。堤防道路を北に歩きます。堤防道路は幅の割りに交通量が多いので注意が必要です。やはり国道23号や東海通が混雑しやすいので、抜け道として利用されているのでしょう。ここから北側は惟信高校にかけて多加良浦という地名がつけられています。浦というのは海岸や入り江を意味するもので、川沿いの地名としては合わない気がします。庄内川沿いには広大な草地が広がっています。広いところでは横幅が250メートルほどあります。不思議な光景だなと思って調べてみると、実はここ、昔は多加良浦海水浴場だったのです。草地は全て砂浜で、貝も取れたのだそうです。確かに庄内川は、南を走る国道23号付近で河口となりますから、入り江と言えなくもありません。

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▲庄内川に多加良浦海水浴場があった。
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▲堤防道路と惟信高校。

 なぜ海水浴場は無くなってしまったのか。それは1959(S34)年の伊勢湾台風が大きく影響しています。このあたりは水田地帯で川の水も綺麗でした。しかし庄内川の西側は、戦後の農地開放で宅地・工業地帯化が進み、さらに伊勢湾台風で水田が大きな被害を受けるとその勢いは加速しました。川の水は汚れ、とてもではありませんが泳ぐことができるような水質ではなくなってしまったのです。

 料理旅館や土産物屋さんがずらっと並んでいた多加良浦海水浴場。かつては子どもたちが遊ぶ声が響いていたことでしょう。今は遠くを走る自動車の喧騒が小さく耳に届くものの、静かな草地が広がっています。開発によって川の水は汚れてしまいました。しかし、開発によって砂浜は緑へと姿を変えました。「開発はいけない」「開発は悪だ」と言うのは簡単です。しかし必要な開発もあります。ただ反対するのではなく、自然と共存するためにどう開発していくかを考えることが大切なのです。人間に与えられた課題は永遠です。

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▲遠く東海通の日の出橋を望みます。草地が広すぎて川面が見えません。

 この西ノ割の南は稲永新田、野跡、そして金城ふ頭へと続くのですが、一旦地下鉄東海通駅から東ノ割へ回り、ガーデンふ頭を経由して金城ふ頭線で金城ふ頭へと歩きます。


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