中山道妻籠宿(長野・南木曽町)
以前、トッピーネットでは中山道43番目の宿場町である「馬籠宿」をレポートしたことがありますが、今回はそのお隣にある、42番目の宿場町「妻籠宿(つまごじゅく)」へと行ってきました。島崎藤村の出身地であり、さらには長野県から岐阜県に所属県が変わるなど話題の多い馬籠に比べると、どうしても地味な印象を持ってしまう妻籠ですが、行ってみてわかったことがあります。
それは、地味であることが意図的であるということ。その地味さを守るため、住人にとても深い三箇条「妻籠三原則」を唱えているのです。思わずドキっとしてしまうその言葉。変わらないことの難しさとは。
あまり観光地っぽくは無い…
馬籠宿とは違い、妻籠宿は駐車場が有料となっています。ということは、さぞかし観光地化されているのかと思いきや逆で、駐車場横に大きく立派なお土産店を構えている馬籠に比べると、駐車場から橋を渡ってまず目に飛び込んでくるのは、軒先に野菜を並べる昔ながらの建物。
それはまるで、江戸時代の山間の宿場町そのまま、と言ったら言い過ぎですが、「観光客いらっしゃい!」という雰囲気は皆無。歩いている人も馬籠に比べると少なく感じたのは、平日でしかも夕刻近くだったからかもしれません。
でも、その素朴さが受けているのか、歩いている人々のほとんどがなんと外国人。何が妻籠の魅力なのか、見ていきましょう。
廃屋じゃないよ
歩いて行くと、一見ボロボロの廃屋かと思ってしまうような建物が。それがなんと有形文化財の旅籠「上嵯峨屋」。1969(S44)年に解体復元されたもので、18世紀中頃といいますから、江戸時代中期に建てられたと推定されるものです。
庶民の旅人たちは当時、炊いたお米を水でさらした後に乾燥させた「糒(ほしい)」、今で言うところのアルファ化米を持ち歩いていて、こういった宿で湯を沸かして、戻してご飯として食べたのですが、その湯を沸かす際の薪代を宿代として払ったので、こういった宿は「木賃宿」と呼ばれました。
この上嵯峨屋と対となる下嵯峨屋も解体復元されており、江戸時代の庶民の宿を今こうやって目の当たりにでき、まさに中山道の宿場町そのままといった感じです。間違ってもただのボロい廃屋ではないので念のため。大切なことなので2回言いました。
延命したいなら汗をかけ?
その先にあるのが「延命地蔵堂」です。といっても、作られたお地蔵さんがあるのではありません。1813(文化10)年5月、地蔵尊が浮かび出ている石を蘭川の川原で旅人が発見し、光徳寺の住職と村人たちがここまで運び上げ、お堂を建立したものです。
その石はなぜか、常に濡れているように見えることから、「汗かき地蔵」という別名もあります。やっぱり、汗をかいて働かないと延命できない世の中だと言うことでしょうか。
一方で、この延命地蔵を祭るお祭りは、毎年4月23日か24日のどちらかに開催というアバウトさ。細かいことを気にしていると、寿命が縮まるということでしょうか。
まあ、細かいことは気にせずに、汗をかいて働けと、そういうことですね…。
やっぱり宿場町は折れ曲がる
馬籠宿もそうでしたが、宿場町は突然折れ曲がる部分があります。「桝形」です。
当時の宿場町は城塞の役割も兼ねていたため、宿場町内で街道を2回直角に折り曲げることで、外敵の進入を防ごうとしたのです。究極は、それぞれの宿場町に桝形を設けることで、西国大名が謀反を起こした際に、江戸への侵攻を少しでも遅らせるという目的が家康の考えのなかにはあったとのこと。
このことからもわかりますとおり、当時はこういった街道を通らなければ、となりの国へと抜ける手段は無かったわけですね。
そんな桝形の横を、今では車が斜めに走って行くわけで、形だけ…残されています。
あまーい香りが漂えば…
観光案内所の前を通りかかると、あまーい香りが漂ってきました。そう、たとえるなら昔のトイレの芳香剤。見るとこれが立派なぎんもくせい。県の天然記念物となっています。神官・矢崎氏の庭木としてずっと育てられてきたものです。
開花時期は9月中旬から10月上旬頃まで。本物のトイレはその先の本陣まで我慢してね。
郵便局の見た目は古いけど
その先、左手に「妻籠郵便局」が見えます。この郵便局は1978(S53)年に復元されたもので、1871(M4)年の新式郵便制度創業時の姿となっています。郵便局の前にある「書状集箱」も当時のポストを復元したもの。黒いポストが復元されたのはこれが初めてとのこと。もちろん現役で、投函しても大丈夫です。
局内には妻籠郵便資料館があり、無料で見ることができます。日本最初の切手や、明治時代の実物のポストなどなど。
外観は明治初めの頃の復元ですが、郵便局の中も当時のままというわけではなく、ATMもあるのでご安心を。
本陣は意外にも…
その郵便局のはす向かいにあるのが、妻籠宿本陣です。外国人の方たちが興味深く見ていました。
妻籠の本陣は代々島崎氏が務めていて、本陣と庄屋を兼ねていました。島崎藤村の母の生家で、藤村の次兄の広助が養子として妻籠に戻ってきて、最後の当主となっています。
残念ながら本陣は取り壊されてしまい、現在建っているのは、間取り図を元に1995(H5)年に復元されたものです。対照的に、向かいの脇本陣奥谷は国の重要文化財となっている明治初期の建物です。
その脇本陣奥屋は、島崎藤村の初恋の相手が嫁いだ先とのことで、ここは結構人間関係が濃密なエリアです。
そんなこと言われてもねぇ
妻籠宿の最も奥まで歩くと、旅人たちを監視した「口留番所」跡があります。そしてその向かいには馬籠宿でも見た「高札場」が。もちろん復元ですが、これは江戸幕府から庶民に対するお触れです。お奉行様の名で、あれこれ「やってはいけないこと」が書かれています。
そのなかに「喧嘩やもめごとはいけない」という主旨のものがあり、「そういう相手とは会わないようにしましょう」と、何ともわかりやすい解決方法が書かれているのを見て相方が一言。
「会わずに済むのなら、会わずに済ませたいよ!」
まあ、確かにそうなんですけど、あのー、誰か気に入らない人でもいるんですか?>相方
やっぱり見た目は観光地っぽくないけど
妻籠宿を歩いていますと、復元のものもあるとはいえ、建物のほとんどが当時の面影を残しているので、あまり観光地っぽさはありませんが、なかには店に入った瞬間にあれこれやたらと話しかけてくる、商魂たくましいお店もあるので要注意です。
でも、そうなってしまうのもわかる理由があります。
その理由とは、観光案内所に掲げられていた、この妻籠宿に住む人たちに対する三箇条、「妻籠三原則」です。
妻籠宿は、全国に先駆けて保存運動が起こった町で、1976(S51)年には国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地のひとつに選ばれたほどなのです。今でこそ、古い街並みで町おこしなんて運動をあちこちで見かけますけど、昭和50年代初頭に既に評価されるほどだったということは、妻籠はかなりの先駆者なのです。
そんな妻籠ですから、住人に対する三原則は重いです。
「売らない・貸さない・壊さない」
壊さないということは、壊れてもいけないということ。現状を維持するためにお金が必要です。さらには、貸してもいけませんから維持費は自分たちで稼がなければなりません。そして売るなどもってのほか。
古い街並みを維持するのは、想像以上に大変なことです。お土産店が商魂たくましくなってしまうのも、致し方ないことです。
でも、江戸時代もひょっとすると、商店の売り子さんはそんな感じだったのかも…と思えば、まさに江戸時代の宿場町そのまま!な妻籠でした。
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